第8話あの日に戻れたら

 ある日森おらん森蘭丸もりらんまる)が安土城の廊下を歩いていると

掃除を任されている侍女たちが

仕事の手を止めて雑談に興じている声が

近くの部屋から聞こえてきた。

彼女らを注意するため部屋に入ろうとしたお乱は

話の内容が細川家に嫁いだ明智光秀の娘、

玉の噂話であったので思わず耳をそばだてた。


「ねえ、聞いた? 細川の若殿(夫の忠興ただおき)があの美人の奥方に

 生首を投げつけたって」


「ああ、その話なら知ってる。あの旦那、かなり

 凶暴な性格で幼い小姓をいきなり手討ちにしたあげく、

 刀についた血を奥方の着ていた小袖で

 拭ったこともあったそうよ。

 これに腹を立てた奥方は血染めの小袖を

 旦那が謝るまで着続け、蛇のような女だと

 罵られたけど鬼の女房には蛇でお似合いだと

 言い返したんだって。その上、嫉妬深くて

 奥方に少しでも近づいた男はみな殺してしまうそうよ」


「おお、怖い! 美人が幸せになるとは限らないって本当ね」

とどこかうれしそうな声で言ったのは安土城に仕える

大勢の侍女たちの中でも一、二を争うほど

器量の悪い娘であった。


「なんということだ。おれがあの時、

 あの人を呼び止めて一緒に逃げていたら

 こんなことにはならなかったのに。

 知らない土地で新しい主君に仕える

 道もあったかもしれない。出会ったときに

 おれはあの人を男だと思ったが、

 本当にそうだったらどんなによかったか。

 年の近い男同士なら人目を気にせず多くの時を共に

 過ごすことができただろうし、

 同じ主君に仕える者同士、切磋琢磨しあい、

 ともに戦で手柄を立てることもできたものを」

などとお乱の考えはどんどん自分に

都合のいい方向に傾いていった。あるときお乱は

細川家に使いに出されたことがあったが

恋しい人の姿を一目見ることもかなわなかった。

はかなく終わった淡い恋の思い出は

お乱の未熟な心の中で日ごとに美化されて

いくばかりであった。

 その夜仕事が終わり、小姓部屋に帰った後、

床の中で物思いにふけっていたお乱は、見知らぬ男が

枕元に立って自分を見下ろしていることに

気付いて仰天した。すぐに枕元の刀に手を伸ばそうとしたが

全身がしびれて指一本動かすことも叫び声をあげる

ことも出来なかった。同じ部屋に寝ている

ほかの小姓たちは誰一人、異変に気付かず

死んだように熟睡していた。


「ずいぶん怖がっているようだが、おれは

 過去に戻りたいというあんたの願いを

 かなえてやりに来たんだぞ。

 どうだ? おれと契約しないか?」

 動けないお乱が目で同意を表すと、


「では契約のしるしにここに血判を押すのだ」

と地の底から響くような声で男は命じ、

お乱の手を取ろうとした。

 ところがそこに襖を蹴破って信長が現れてこう叫んだ。


「お乱はおれのものだ! おまえなんかには渡さない!」

信長がお乱の手を握ったままどうしても

離そうとしないので苛立った男は


「よくもおれの邪魔をしやがったな!

 痛い目にあわせてやる!」 

と言い放つと牛鬼の姿になって襲い掛かった。

 その直後お乱は自分の悲鳴で長い夢から目を覚ました。

そして自分の手をきつく握り締めている

主君がボロ雑巾同然の悲惨な姿になっているのを

目の当たりにすることになった。


「上様! どこのどいつがそのように

 ひどい仕打ちをしたのです!? このお乱が

 見つけ出して串刺しにして恨みを晴らして

 差し上げますぞ!」

 しかし奴隷商人から暴行を受けて瀕死の重傷を負った

信長は苦痛のうめき声をあげながら

血の海をのたうち回るばかりで言葉を発する

ことができなくなっていた。

お乱は起き上がって主君を介抱しようとしたが、

手足を鎖につながれている状態では

どうすることもできない。


「おれはなんて無力なのだ。目の前で上様が

 苦しんでいても助けることもできないなんて」

と嘆いていると、ほかの小姓たちも目を覚まして

大騒ぎになった。彼らもお乱同様に鎖でつながれて

いるせいで大声をあげて慨嘆するばかりであった。

 そこにさっきの赤毛がムチを手にして現れ、


「おまえらうるせえぞ! 静かにしないのなら、

 このムチで血みどろになるまで叩いてや……グエッ!」

と脅したが、背後から何者かに襲撃されて倒れた。

 囚われの小姓たちは喜びの声をあげたが、

この救い主は船底に降りてきたとたん、


「お乱ちゃん! 会いたかったよ! 瞬間移動のつもりが

 何日も何もない空間をさまよって大変だったんだぜ!

 またおれのまらを切ってくれ!」

とほおを赤く染めて叫んだので絶句した。

そう、この男こそ安田作兵衛やすださくべえだったのである。

待てど暮らせど信長が抜け穴から出てこないことに

業を煮やした光秀に捜索を命じられた

作兵衛は瞬間移動の異能力を使ってお乱たちを

追ってきたのである。しかしお乱たちを乗せた異国の船が

日本からあまりに遠ざかってしまったため、

時間的にずれが生じてしまい、遅くなってしまったのだった。


「勇敢な武士かと思いきや、ただの変質者じゃないか!」


「お乱の奴はもてすぎて大変だなあ」

などと小姓たちはささやきあったが、

負傷した信長に作兵衛が危害を加えをしないかと

気が気でなかった。しかしボコボコに

殴られた信長の顔は別人のように

変わってしまっていたので作兵衛は

それが誰だか気付かずに


「あの憎らしいエロ親父はどこだ?

 もしや海の藻屑にでもなったのかな?

 まあいいさ、おまえはもうおれの

 奴隷も同然さ。たっぷり楽しませておくれ」

などと言いながらお乱の方ににじり寄ってきた。

作兵衛の卑猥な言葉に激しい怒りを爆発させたお乱は


「汚らわしい変質者め! それ以上近づくな!」

と叫んで火事場の馬鹿力で鎖を引きちぎると

作兵衛の股間に蹴りを入れた。その拍子に

作兵衛は仰向けに倒れて山積みにされた木箱に

激突し、なだれのように崩れ落ちた箱の

下敷きになってしまった。


「すげえな。さすが猛将を輩出した森家の子息」

と小姓の一人がつぶやいた。作兵衛の刀を

奪い取ったお乱はさっそく主君や仲間たちの鎖を

切って解放すると、物音を聞きつけてかけつけた

他の船員たちも一人残らず倒してしまった。

そして甲板に上がると、船を制圧すべく

激しい戦いを始めた。小姓らは全員武器を

奪われていたが、台所から奪った刃物を手に

奮戦した。寝込みを襲われた船員たちは

あっという間にやっつけられ、

舵を取るもの以外はみな縛り上げられてしまった。

 戦いが済むと少年たちは

壊れた箱を担架代わりに意識不明の重体に

陥っている主君を船底から運び出したのだった。

 しかし突然、空に黒い雲が沸き上がり、

暴風が吹き荒れた。波は空に届くほど高くなり、

船が激しく揺れたので少年たちは

恐怖の叫び声を上げたのだった。


 

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