文殊の知恵が踊りだす
岩本くんのお姉さん―朝子さんからイベント出演の打診を受けてからというもの、打ち合わせや資料作成で目が回りそうなほど忙しくなった。
国内トップクラスのイベントに出演するのだ。
それも、こんな無名の美容家が。
話す内容から容姿に至るまで、綿密な計画を練る必要がある。
もうずっとパソコンと睨めっこしている岩本くんの手元では、スマホがひっきりなしに鳴っている。
常時開催のセミナーをこなしながらではあるが、比較的余裕がある私は、勝手に申し訳なくなる。
「私も調整やるよ」と声をかけると、間髪入れずに「いいから肌の手入れでもしてろ」と断られた。
しばらくお互い集中していたが、岩本くんが突然声を上げた。
「山下、出かけよう」
わけもわからないまま、岩本くんに引っ張られて車に乗り込む。
「どこ行くの?」
「助っ人迎えに行くんだよ。事務方が足りねぇ」
「だから私も調整するって」
「お前がそこに手出したらだめだろ、お前はお前の仕事して」
そうは言っても、二人しかいない会社で片方がこんなに忙しそうなら手伝いたくもなる。
「助っ人…。助っ人?誰か雇うってこと?」
「雇うかどうかは会って決めて。山下のお眼鏡に敵わないならまだまだってことで、タダ働きだよ」
さらりと物騒なことを言う岩本くんに、それ以上答えるのはやめておいた。
窓の外では、本格的な夏の訪れを告げるように、ゆらりと陽炎が揺れている。
やがて車は、郊外のカフェに到着した。
お目当ての男性を見つけると、岩本くんは軽く手を挙げて合図した。
軽く会釈してこちらに駆け寄ってきた男性は、いかにも活発そうで、夏の空の下が似合う人だった。
「よぉ、久しぶり。あ、こっちは山下。俺の上司」
思ってもいない紹介をされて、つい慌てる。
「山下です、お世話に、なってます」
「坂下翔太朗です、今日はご足労頂いてすみません」
人懐こい笑顔に、どうしてこの人が岩本くんと仲良くできていたんだろう、と岩本くんに失礼なことを思いながら、二人の後に続いた。
席に着くと、岩本くんは改めて坂下さんを紹介してくれた。
「こいつ、親友の弟なんだよ」
「弟さん…。お若そうですけど、」
「あぁ、いくつ下だっけ」
アイスコーヒーのストローを咥えていた坂下さんが、慌てて答える。
「3つ下です、この春大学を出たばかりで」
「大学出て好きなことしてんだよな」
「そうです、いつか出版したいので、今はSNSで影響力をつけたくて」
今時の生き方なのだろうか。
かく言う私も、この仕事が軌道に乗ったきっかけはSNSだった。
それは、岩本くんが綿密に戦略を練ってくれて、計画的に遂行した結果だ。
ということは、岩本くんのそばにいるのは、彼にとっては貴重な経験になるのか。
「それで、岩本くんが助っ人に誘ったの?」
隣に座る岩本くんを見ると、無言で頷く。
「どう思う、山下」
もう一度坂下さんをじっくり見つめる。
数分話しても、第一印象の活発さはそのままに、落ち着いた話し方や声が魅力的な人だ。
話の内容もしっかり組み立てられていて、わかりやすい。
もしかしたら、これからの時代に求められる人になるかもしれない。
それに、岩本くんの親友のご家族なら、ひとまず安心だろう。
「うん、坂下さんさえよければ、手伝っていただけると助かります」
手を差し出すと、坂下さんが小さく息をのむ音が聞こえた。
不思議に思って瞳を覗き込むと、ふいっと逸らしてから、思いのほか大きい手が握り返してくれた。
坂下さんと別れた帰りの車内。
岩本くんは助っ人が見つかったからか、上機嫌でハンドルを握る。
「岩本くん、機嫌いいね」
「まぁ、これで社長に単純作業させずに済みそうだし」
「ちょっと待ってよ、社長なんて呼ばれたことないんだけど」
「一応社長だろ?いい響きじゃん」
「からかってるでしょ…」
岩本くんは、答えの代わりに、楽し気な笑い声を響かせた。
事務所に戻ると、早速坂下さんを迎える用意を始めた。
「山下が今持ってる事務作業で、渡せるものは全部あいつに渡してよ」
「うん、っていってもほとんどないよ。岩本くんがほぼやってくれてる」
「パワーポイントの校正とかもうあいつに回せよ、言っとくけどお前、イベント控えてるよ?」
「…言わないで、眠れないくらい緊張してるんだから」
震える私を見てお腹を抱えて笑う岩本くんに、手を差し出す。
数秒固まってから、ようやく握り返してくれた。
「頑張ろうね。私、二人も巻き込んじゃったから。二人のことは、何が何でも一生養っていくから」
握った手をぐっと引いて、彼は余裕たっぷりに笑い返した。
「余計なお世話だわ」
私たちは、不安定な未来に向かって歩いてる。
それは、この道に足を踏み入れた日から変わらない。
定期的に仕事がある。大きなイベント出演を控えている。
それらは、安定しているというには、何の根拠にもならない。
坂下さんを仲間に迎え入れることが決まって、私はまた、守るものが増えた。
不安定な未来に、またひとり、巻き込んでしまったのだ。
もう、いよいよ引き返せない。
でも、不思議と怖くはなかった。
三人寄れば、文殊の知恵。
きっと、まだ見たこともない景色が見られる。
これからどんな未来が待ち受けていても、膝を突き合わせて、手を取り合って、歩いていこうと誓った。
誓ったのだ――――――この時は。
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