半径1メートルの幸せ

事務所への道を歩きながら、今日のスケジュールを思い浮かべる。

今日は朝から次のセミナーの練習。

お世話になった方が事務所を開設したから、どこかで時間を作ってお祝いの花を贈る手配をして、それから、それから…


気付くと事務所の目の前。

階段を昇ってドアの前に立って、ふと気づいた。

現在、午前6時。事務所には明かりが灯っている。

ガチャリとドアを開けて、開口一番疑問を投げつけた。

「岩本くん、何時に来たの」


何やら重そうな段ボールを抱えながら、岩本くんが答える。

「おはよ、何時だろうな?1時間くらい前だと思うけど」


バッグを置いて段ボールを覗き込むと、来週のセミナーで配るプチギフトが詰まっていた。

「え!もうできたの?!ていうか、いつこういう仕事してるの?原稿チェックして、私のスケジュール管理して、庶務して。化け物よね、ほんと。怪物だわ」

どさり、と段ボールを置いた彼は、驚いた顔をする。

「俺、今、貶されてる?褒められてる?」

「褒めてる、一応。でも、いくらなんでも働きすぎでしょ…」


最後はもう、言葉に力がなかった。

休みもなく働かせていることに苦しくなる。

そして、自分の無能さを突き付けられているようで、気分は勝手に落ちていく。

仮にも私は、この会社の社長なのだ。

立場上部下である彼が休みなく働いているこの状況はいただけない。

とはいえ、彼がいなくてはもうお手上げなのだ。心底情けない。


「ごめん、岩本くんのおかげでほんとに助かってるんだけど、休ませてあげられなくて情けないよ」


本音を告げると、珍しく岩本くんが声を上げて笑った。

「なに、そんなこと気にしてたわけ?悩んでる暇あるならもっと働けよ」


「一応真剣に悩んでるんだけどね、わかんないかな。どんな手を使っても私が一生養うし、休んでくれたらいいのに」

拗ねたような声が出た。


岩本くんはいつもそうだ。

どんなに大変な状況でも、飄々と仕事をこなして、最後には笑っている。

会社員時代、人は彼のことを「化け物」と呼んでいたけど、それが綿密な計画と彼の精神の強さが土台になっていることに私は気づいていた。

だから、彼のそばにいると、いつも自分の無能さが浮き彫りになるような気がした。

こうして私は、彼と出会ってから、またひとつ、コンプレックスが増えたのだ。


目の前に立つ岩本くんを見上げると、ひどく優しい瞳がこちらを見下ろす。

「山下、言っとくけど、お前のこと食わせていかなきゃって思ってるのはこっちだからな」


「それは違う」と言おうとした瞬間、岩本くんのスマホが鳴り響いた。

「はい、岩本です」


仕事の電話なのだろうか、邪魔をしないようにそばを離れた。

セミナーのイメージを膨らませようと、申込者一覧を手に取る。

岩本くんがまとめてくれた表には、リピーターや関係者など、細かいメモが書き込まれている。

彼のこういう細やかな部分にいつも助けられているのだ。


しばらくして、眉間にしわを寄せた岩本くんに手招きされる。

そばに寄ると、スマホを差し出される。

「姉ちゃん」

「朝子さん?どうして?」

「まぁ話聞いてみてよ」


岩本くんのお姉さん―――朝子さんは、雑誌の編集者だ。

確か今はファッション誌を担当していると聞いた気がする。


「お電話変わりました、山下です」

『理乃ちゃん!突然ごめんね』

「いえ、ご無沙汰してます」

『ほんと、久しぶりね。今日はお願いがあって電話したの』

「はい、なんでしょう?」


朝子さんのお願いなんて、珍しい。

こちらからいろいろな資料を提供してもらったり、データをこっそりもらうことはあれど、私が朝子さんの役に立てることなどほとんどないはずだ。


『イベントに、出てもらえないかしら』

「…イベントですか」

『どうしても理乃ちゃんの講義がよくてね。陽平からスケジュールは空いてるって聞いてるわ』

「もちろんお受けします。私でよければ」

『ほんと!助かる。理乃ちゃんじゃなきゃこのコーナーしない!って言っちゃったの』

「わ、嬉しい」

『詳細は陽平に連絡していいのかしら』

「はい、お願いします」


しばらく雑談をしていると、耳元からスマホが抜き取られた。

難しい顔をした岩本くんが言い放った。

「もうわかったから詳細送れよ、あとはこっちで説明しとく」

返事も聞かず、ぶちっと通話を切ると、大きなため息をついた。


「お前、なんのイベントか聞いた?」

そういえば、何も聞いていない。

朝子さんのお願いだから、たとえどんなに小さなイベントでも全力で務めるつもりだったのだ。

「あ、聞くの忘れちゃった。なんだろね、ショッピングモールかな」

ん、と目の前に突き付けられたスマホの画面を見て、絶句した。

国内トップクラスの規模のファッション祭典だ。


「え、」

「え、じゃねぇよ」


昨年、その大きな祭典に、岩本くんと勉強のために足を運んだ時。

いつか私もあそこに立ちたい!と鼻息荒く彼の腕を掴んだことを思い出した。

あの華やかな舞台で、自分の知識や経験を若い世代に伝えたいと思ったのだ。


人は、衝撃が大きすぎると言葉を失うらしい。

目をぱちぱちさせながら黙っている私を見て、岩本くんが吹き出した。


そして、大きな手が、差し出される。

「山下、おめでとう」




彼が笑ってくれるから、私は今日もがむしゃらに働ける。

手にした結果を、一緒に受け止めてくれるから、恐れず進める。


人が働く理由は、それぞれだ。

世界を変えたい。

自分の才能を発揮したい。

お金が欲しい。

モテたい。

すべて、大いに結構だ。


私は。

世界を変えたいなんて、思ったこともないけれど。

私の周りの半径1メートルを、幸せで満たしていたいのだ。

そしてその1メートルには、いつも彼がいる。

だから、彼が笑ってくれることこそが、私が働く理由になる。

働く理由なんて、そんなものだ。

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