病めるときも、健やかなるときも
「お前のパワポ、いくらなんでも愛想なさすぎだろ。セミナーの参加者はほとんどが女性。簡素すぎてもダメだから。はいやり直し」
わたしが作ったセミナー資料をチェックしていたらしい岩本くんは、ダメ出しをしながら、もう別件のファイルを引き寄せている。
少し前に突きつけられた資料の束と格闘していた私は、一瞬手が止まる。
手元の資料は、来月開催のセミナー資料なので、まだパワーポイントに起こしていない。
ということは、彼がチェックしているのは、すでにパワーポイントになっている、もっと近い回のものだ。
「…来週の分?喋りで補うからいいかなって思ったんだけど」
「写真もSNS投稿も推奨してんだから、映えなきゃ意味ね―じゃん」
「忘れてた。拡散推奨すると、こういうとこ整えるの大変だよね」
「最初からそっちに全振りしとけばいちいち修正しなくていいのに」
岩本くんは呆れたようにつぶやいて、また手元の資料に視線を戻す。
主な事業として美容セミナーを行うわたしたちは、資料作りから集客、当日の運営までをほぼ二人でこなす。
セミナーが開催できなければ認知してもらう機会が減るのに、セミナーを開催するとなると息つく間もないほど忙しい。
夜通し働くことも珍しくなく、最近ではもう事務所と家の区別がつかない。
それでも精神的に健やかに過ごせているのは、ひとえに彼のおかげなのだ。
わたしが自分の活動に集中できるよう、この会社で発生する雑務のほとんどを引き受けてくれている。
来週開催するのは肌の機能を解説するセミナーだ。
初心者向けに作ったはずが、思ったよりも情報量が多くなってしまったからか、パワーポイントはなんだか堅くてとっつきにくい。
なんか華やかな素材あったっけな、とデータフォルダを漁る。
いくつか合いそうな素材を挿入して、フォントの修正に移ったところで、視線を感じて顔を上げた。
こちらを見る岩本くんが、頬杖をついておかしそうに笑っている。
「なに笑ってんの」
「スウェットにすっぴんの女が、お客さん集めて美容語るんだもんな」
じろりと彼を睨むと、一層おかしそうに声を上げる。
「だって、楽なんだもん。文章書いてたら胡坐かきたくなるし、このまま仮眠も取れるし。だいたい、岩本くんしかいないんだから問題ないでしょ」
「問題ないよ。誰もこんな姿で働いてるって想像もしないんだし」
長い脚を組んで、意地悪そうに笑う。
もうすぐ日にちが変わる時刻だというのに、ワイシャツもスラックスもくたびれていない。
私よりよっぽど美意識高いんじゃないの、と拗ねた気分になりながら、残りの修正作業に取り掛かった。
しばらくパソコンに向かって集中していたのだが、連日遅くまで続く作業のせいで集中力が続かなくなっていた。
「ねぇ、岩本くん、」
深夜のゆるい空気に乗っかって、思いのまま問いかけた。
「どうして会社辞めてこっち来てくれたの?」
そんなことか、とつぶやいた彼は、手元にあったカップを握ってこちらへ歩いてきた。
どうやら本格的に話を聞いてくれるらしい。
「どうしてっていうか、そもそもお前をそそのかしたの俺だしね」
「そそのかしたって…背中を押してくれたんでしょ」
「お前、本気でそう思ってるとしたら危ないよ。壺とか買わされそう」
「買わない、買わない。壺じゃ幸せにはなれないもん」
「あ、そういうとこは冷静なの」
「いいから、答えてよ」
「ひどい話だよ。俺はあの日、全部話したからな。覚えてないお前が悪いよ」
珈琲の香りがふわりと漂う部屋に、二人。
どうして私は、この人と人生を歩もうと決めたのだろう。
この先お互い結婚したり、子供が生まれたり、環境は変わり続けるのに、どうして一生の約束のように、二人で会社を興したのだろう。
疲れのせいか、今日はどうも余計なことに意識が持っていかれる。
「あの日のこと、いい加減教えてくれてもいいと思うんだけど」
「知るかよ、自分の失態だろ。受け入れろ」
あの日、というのは。
前職の広告代理店に入社して二年目の夏、酔っぱらった私が岩本くんに夢を語った日のことだ。
その日は比較的大きな案件が落ち着いたので、会社近くの公園で二人、缶ビールを傾けていた。
夏のぬるい空気の中、冷えた缶ビールがのどを潤す。
「ね、岩本くん、そんな優秀なのになんでこんな普通の会社でサラリーマンしてんの?」
「あ?」
「経営っていうか、起業とか・・・」
「考えたこともなかったわ。俺アイデアマンじゃないし」
「そうなの?なんか、いけそうだよ、ITベンチャーみたいな。わかんないけど」
ほろ酔いでいい加減なことを言う私に、岩本くんは質問を返してきた。
「山下は?今のところ、ここが最終地点?」
「んーん。私はねぇ、」
残念なことに、私の記憶はここで途切れている。
もちろんしっかり家に帰ったし、翌日もちゃんと出社したのだ。
その証拠に、出社してすぐ廊下に私を連れ出した岩本くんが、とんでもないことを言ってきたのだから。
「三年目で俺ら辞めようぜ。山下のやりたいこと、やろう」
その言葉通り私たちは三年目の年度末、会社を辞めた。
会社員三年目は起業の準備と並行していたから、文字通り休む間もなく働いた。
今でも時々、とんでもない道に彼を巻き込んだような気になる。
彼のご家族にも、私は一生頭が上がらない。
だからこそ、なんとしても、彼だけは一生養っていく覚悟をしている。
そんなの、余計なお世話だと笑われそうだけど。
「なんかもう、諦めちゃった。思い出せないし、教えてくれないし」
岩本くんは腕時計に視線を落として、腰を上げた。
「ほら、送ってくよ。働きづめだし、帰ってちょっと休めよ」
私も渋々腰を上げて、帰り支度をする。
私が飲んでいたコーヒーカップを受け取って、さっと洗い始めた彼の背中に話しかける。
「岩本くんがモテる理由、わかったかも」
濡れた手を拭きながら振り返った彼が笑う。
「今更かよ」
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