エピソード・ゼロ 2

   2


「ディアナはなんでコーヒーがぶがぶのんでるの?」

 ある日一人の男の子が、たずねた。

「え? 見つかっちゃったか……」

 孤児院の子供たちの中にはリーダー的な一〇歳の女の子がいた。名前はディアナ・ジル・エリス。大抵の場合「ディアナ」と呼ばれるそのイギリス系の女の子は、緑がかった金色のキレイに整えられた髪を持ち、多少の腕力を持ち、運動が得意で、勉強もニガテではなかった。国語の時間の作文はいかにも優等生的だった。戦争の一番の犠牲者は、勝った国でも負けた国でもなく、地元を荒らされた無辜の人々、世界中に埋設された対人地雷の数は驚くべきものなのだ、云々。

 ディアナには悪癖のようなものがあり、それは、一日にコーヒーを一リットルは飲まないと頭がうまくはたらかないというやや奇妙なものだった。

 ディアナと仲が悪い子はいなかった――パシェニャ一人がディアナをねたむような目で見ていなければ。

 ディアナは、パシェニャに友達がいないのを不憫に思ったのか、パシェニャが孤児院に来てちょうど二週間のところで、

「パシェニャをいじめるのは止めるべきだと思います。パシェニャの気持ちも考えてあげて。ここにいるのはみな家族です。そして、みな友だちであるべきはずです。パシェニャにも声をかけてあげて」

 そう申告した。

 しかし、その結果は惨憺たるものだった。

 一例――パシェニャに声をかけることにしてみた少し勇気のあるロバートという一〇歳の少年(注・この名前は特に覚えてもらう必要はありません)は、

「ぼくを呼ぶときは『ボブ』か『バート』って呼んでみていいよ。ほら、『ボブ、サップ?(Bob, what's up?)』とか」

「…………」

 パシェニャの沈黙。この沈黙の意味するところはパシェニャ自身にもわからなかったが、とにかくという条件づけだけはあった。周りからは、どう見えていただろうかか。喋るのがイヤな相手には何も応えない残念な子だと思われていたかもしれないが、まあそれでもいい、パシェニャはそう考えたいた。

 そしてそれ以降は、

「何にも応えられないやつ」「はなしたがってない」「だから友達がいないんだよ」「ノリ食ってるし」

 子供たちのほとんどは、ことあるごとにパシェニャをそう蔑み、ときには嘲笑した。ママたちは、ほうっておくのが一番だと結論づけてしまったようだった。

 しかし、ディアナだけは、それでも、パシェニャをいじめる子供たちを注意した。

「となりで食べてもいい?」

 ある日、ディアナは給食の時間にパシェニャにたずね、パシェニャの応えを待たずにとなりに椅子を持ってきて座った。

「……………」

 パシェニャは沈黙をもって応えた。

「パシェニャは、何が好きなの? 猫? 犬? 象さん? お菓子だったらどんなのが好物? こんど買ってもらえるらしいんだけど、実は『UNO』は知ってる? たしかイタリアから来たんだよね? たまに図鑑とか見てるみたいだけど、ハマってる本とかある?」

 ディアナは矢継ぎ早にパシェニャが自己紹介したくなるような質問を続けた。

「……………」

 しかし、パシェニャは再び沈黙を続けた。この沈黙の意味するところは前述と同じ。パシェニャ自身にも意味はわからない。それでも、言いたいことは、ディアナの質問のし始めから一〇分してから考えついた。

 猫はあまり好きではない。野良猫に思いきり引っかかれたことがあるからだ。犬も、野犬に追い回されたことがある。象? 図鑑では見たことがあり、大きいらしいが、どんな大きさなのか全くわからない。孤児院にはなぜかテレビが無かった。教育方針というやつだろうか? つまらない映画上映会はあったが、象は出てこなかった。お菓子? 捨て菓子の話はしたくないな。ウノって何だろう? 「1」のことかな。ながめている本は、大概面白くてためになるかも。伝記マンガは何回も読み返していて、九九パーセントの発汗で電球を発明したエジソンや、理想の医学者・野口英世の話が好きかも知れない。

 しかしながら、パシェニャは応えられなかった。

 なぜなら、ディアナはそういう応えを聞く前に、質問を三分くらい続けたあと、五分で給食を食べ終え、パシェニャのとなりから、

「こたえは明日でもいいからね!」

 と、離れていってしまったからだ。パシェニャが応えようと少しは思ったことには気付かずに。

 パシェニャには、そのあとにディアナに応えを言いに行く勇気はなかった。

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