エピソード・ゼロ 1

   1


「みなさん、新しいお友だちよ。ほら、パシェニャ、自己紹介なさい」

 保健所職員によって孤児院に連れてこられたパシェニャ――小綺麗に洗われて汚くはなくなった――は、自己紹介をさせられることになった。

 うつむきかげんで、マフラーに頸をうずめたパシェニャは、

「ピチカータ・ミハイロヴナ・マノヴィチ……よろしく……」

 あまりにも消極的な子だと受け止められた、そうパシェニャは思った。ロシア語がたどたどしかった。イタリア訛りがあるのも、自覚していた。しゃべるのがゆっくりになって『うすのろ』に見られているとも思った。

 そこで、孤児院の積極的なふうの子たちは、助け舟をだしてくれた。

「そのマフラーいいね。ぼくのと交換しない?」「髪キレイ!」「どこから来たの? わたしはピーテルで捨てられてたんだけどね……」

 パシェニャはスラムでの泥と灰まみれを文字通りきれいに洗い流されていたので、見た目の第一印象はあまり悪くなかった。しかし、皆の声にパシェニャは、

「……………」

 うつむくだけだった。

 初めの三日間くらいは、皆がこの新入りを歓迎しようと遊びに誘った。

「ドッジボールやろうよ」「テトリスもあるよ」「ヒナミザワ鬼ごっこはどう?」

 そういった誘いをパシェニャは、

「…………いい」

 全て断った。

 当然のように、一週間で誰も遊びに誘わなくなり、パシェニャは孤立した。


 さて、この孤児院は、子供たち二五人が暮らすには、やや劣悪な環境だった。そこらじゅうを羽虫やドブネズミやムカデが、飛んだり、かじったり、うごめいており、ベッドはダニの棲み家だつた。パシェニャ以外の子供たちや『ママ』たちはダニアレルギー持ちではなかったが、パシェニャだけはダニやダニのフンで皮膚をダメにされていた。定期的に日に干してもやはりダニのフンはどうにもならなかった。皮膚炎はパシェニャの印象をかなり悪くしてしまっていた。ちなみに、トイレやキッチン、床などは毎日孤児院の子供たちによって当番制で掃除されていて、清潔に保たれていた。建物の周辺は花壇と芝生が――これらも子供たちの仕事でキレイにされていて――建物を少しは優美に見せていた。建物の壁はツタ植物で覆われていたが、それは建物に年季と頑丈さと風流さの混じった印象を与えていた。秋の風は涼しく、大きな木々の木陰も、木陰ではない日向も、とても快適だった。ただ、出される料理は美味しいとは言いがたかった。ポテトサラダばかりが出た。一週間に一回だけ出るオヤツのチョコレートは奪い合いのようになった。ママたちが料理の手を抜いているのではなく、これは厚生労働省が孤児みなしごに関して冷たかったという理由が大きかった。

 孤児院のママは二人おり、当然のように二人とも女性だった。一人は背が高い五〇歳代で、子供たちを叱りつけたりわざと怒ったりする役、もう一人は和をもって貴しとする、ごく優しい二〇歳代だった。その二人が国から給料を貰って働いており、子供たち――年齢は四から一二歳の男子女子合わせて、二五人ほど――をわが子のようにあつかっていた。

 しかし、パシェニャは……

 ――工作教室の接着ノリを食べたり、

 ――花壇の花をもいでは蜜を吸い、

 ――水道の水を特に意味もなく飲んだり、

 ――自分の髪の毛を一本ずつ抜くことを繰り返したり、

 ――ときおり手の指の爪付近の皮膚を食べたりしていた。

 そういった奇妙な行動も、強いストレスにさらされている子供にはありがちではあった。

 そう、パシェニャには強いストレスがあった。そして、子供たちはそんなパシェニャをさんざんからかった。そしてパシェニャは怒ると、からかったやつらに椅子を投げたり、鉛筆を投げたりと、さんざんなトラブルを起こした。子供たちは、パシェニャをわざと怒らせることもしばしばだった。

 そんなパシェニャをわが子のようにあつかうのは、ママたちにとっては残念ながら難しいことだつた。


 そんなある日、ベテランのほうのママは子供たちの前で真剣げにパシェニャにむかって言った。

「いい? これからあなたの頬を打ちます。花壇の花をもぐたび、髪を抜くたび、椅子を投げるたび。あなただけでなく、ここにいるみんなもおなじように。でも、打つのはあなたのためなのよ、パシェニャ。わかるわね?」

 パシェニャはそれを聞いた直後、自分の髪の毛を一本抜いた。

 ママはパシェニャの頬を打った。大きな音が響いた。

 しかしパシェニャは涙目にすらならない。そこで若い方のママが慰めてパシェニャをさとす作戦だと、パシェニャは気付いていた。作戦は失敗だった。

 子供たちはみな怯えにおびえた。

 そんなパシェニャでも、図鑑や教育マンガ本を眺めているときは静かだった。ただ、誰が話しかけても無視して本に没頭していたが。無視に続く無視といった状態だった。

 あるとき、孤児院の年下の女の子が、怒った調子でパシェニャに声をかけた。

「なんでパシェニャはお歌を歌わないの? 声だせるでしょ? クチパクすらしないし。みんなのハーモニーがたのしいのに。ストレスかいしょうにもなるのに。ふりょうぶってるの? かっこよくもかわいくもないよ」

 孤児院の子供たちは、合唱の時間にパシェニャに向かってそのようなことを言うことがあつた。

 それへの返事としてパシェニャは、まず、うつむいた。そしてボソッと、

「ようちなうたはきらいだ。何が『ドはドーナツのド』だ」

 と、つぶやいた。結局、皆が歌っている間に、口を動かすことすらしなかった。

 孤児院のドーナツはパサパサしすぎていて、ウェファース菓子の三倍は不味い。『みんな』という語には、なぜか不快感をおぼえる。わたしはみんなと仲良くなんてできそうもない。嫌われている。疎まれている。嘲笑されている。『みんな』には、わたしは含まれない。孤児院のみんなが両親が居ないか捨てられたかという不幸を背負っているのは同じはずなのに、パシェニャは、自分はそれらの不幸よりさらに不幸な人間だと思っていた。

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