第2話

 水戸くんに女癖が悪いと言う噂が立ち始めたのは、一年生の十月ごろだった。彼は当時三年生の文化祭実行委員で一緒だった先輩と付き合い、ほどなくして別れた。後に知ることだが、彼女は同学年では知らないものはいない地雷女として有名で、自分の都合で彼を振った後ニ週間ほど経ってしつこく復縁を求めたのだという。

 しかし水戸君にはすでに新しい恋人がいて、彼は二股のような真似はできないと断った。(彼はそういったことに変に真面目だった)それが地雷女の逆鱗に触れたらしく、彼はあっという間に恋人がコロコロ変わるクズ男として仕立て上げられた。

 もちろん彼女の元の人間性もあり水戸くんのモテ期が終わる事はなかったが(逆に手軽の相手として告白される頻度は上がったくらいだ)少なくとも当時の彼女とは破局に追い込まれた。私が彼と仲を深めたのもちょうどその頃だった。

 友人である里帆りほは陸部のマネージャー不足を嘆く水戸くんに長らく勧誘され、十月の下旬から晴れて陸上部のマネージャーになった。けれども一人では到底まかなえる仕事量ではなく、部活のない日は私も手伝うことがあった。水戸くんや部員のみんなからは冗談交じりにマネージャーになりなよ、と誘われたが今まで運動部と縁のなかった私はやんわりと断り続けていた。

 彼らの部室は部員の数の割に小さいプレハブ小屋で、高飛びの道具や円盤が乱雑に置かれている。扉には「全国制覇」とおよそ十年以上前に書かれたのであろう張り紙があり(ここは公立高校なので最近の結果はめぼしくないが昔はここらで強豪と有名だったのだという)引き出し部分が壊れた机の上にはスポーツドリンクの粉と水の入ったタンク、プロテインを飲む用のシェイカー、「スポドリ飲み過ぎ注意」の注意書き。机の正面の壁には、大会で撮った集合写真が所狭しと額縁もなく飾られている。何度見ても、自分がここに馴染む想像ができなかった。ヘルプだと分かっていても、今でさえ違和感が拭えないくらいだ。

「スポーツドリンク、飲まないの?」と尋ねると、たまたま高飛び上を取りに来た水戸くんは

「飲まないわけじゃないけど……」と横にある水のボトルを手に取って

「投てきならまだしも、高飛びとか長距離は体重が増えると負荷がかかるし、線が細いほうがいいから。スポドリは太るんだよね」と言って「飲みたいけどさ」と苦笑した。

 日頃そういったことを気にかけているからなんだろう、彼の体の線は細く、そこらの男子はもちろん下手すれば女子よりも痩せている。

「何?マネージャーやってくれるの?」そう彼はいつものように冗談ぽく笑い、私は返事に困って曖昧に笑って首を傾げた。

疾夏はやかサボんな!」そう、先輩たちに呼ばれると、彼は私の返事を深く求めることもなく、じゃあねと手を振って行ってしまった。彼は私が困っていると分かったとき、いつも明確な回答を求めない。それを優しさと呼ぶべきなのか、やはり一時的なノリだったとだと落ち込むべきなのか。


 けれどもそれから程なくして私は陸上部から距離を取るようになった。彼の噂は再び苛烈していたし、近くにいればあらぬ誤解をされて面倒な事態に巻き込まれるかもしれないとも思った。

 それに、本気でマネージャーを欲しているみんなと、入る気もないのに付き合い続けるのは彼らの思いを踏みにじるようで失礼ではないかとも思った。会わない時間が長くなると、なんとなく冷静に物事を考えられた。

 良いものも悪いものも含めて水戸くんの噂は耐えなかった。彼自身が県大会で優勝するほどの実力者であったのもそうだけれど、一ヵ月もしないうちに彼女が二人も変わるというのはただでさえ恋愛事の少ないこの学校にとっては群を抜いて注目すべき事だったのだ。

 比較的地味な子の多い美術部の中でも、彼と付き合ったことのある子はいた。多くは別れた後に事後報告として聞いただけなので本当かどうかは知らないが、多分本当なんだろう。

 でも不思議なことに水戸くんが彼女達と付き合っていると言う噂はほとんどなかった気がする。というより彼はいつも誰かと付き合っているとまではわかっても誰と付き合っているのかまではわからないのだ。

 私の番が回ってきたのは、ちょうど彼が怪我で大会を棄権して、その名声が沈むと同時に一時的に彼女の噂が絶えた時だった。


 その頃から彼はなんとなく女の子たちの間でステータス作りの材料になっていた。彼と付き合うという事はこれから恋愛をするにあたっての通過儀礼のようなものであったし、経験を積む機会でもあった。

 次第に彼は女好きの噂からそういった存在となり、女子たちに利用されるようになっていった。それでも彼は恋愛に対して真摯だった。

 当時彼は怪我の影響で休養を余儀なくされる中で、マネージャーのようなことをしながら時々私に声をかけてくれた。風景画を描くためにずっと外で立ちっぱなしの私を気遣ってくれたし、たまに差し入れをくれたりもした。それが特別扱いだと気づくのに、あまり時間はいらなかった。

 ほどなくして彼は私に思いを伝えてくれたし、私も応えた。

けれどそれもまた漠然としたもので彼のことを好いていたかと言えばそうでない。好きと言う言葉で表せるほど、その好意は明確ではなかった。

 それでも手を繋いだり、デートをしたり恋人らしいことをすればドキドキはしたし、彼が魅力的なことに変わりはない。他の男子よりも大人びているし、背も高くて気だって効く。道は必ず車道側を歩いてくれたし、私たちが付き合っていたことを誰にも口外しなかった。

 デートが終わった後、私たちは必ずお礼や、楽しかったという由のメッセージのやりとりをしたが(そういうところも含めて彼は真面目だった)いつだって返信は早かったしそれでいてしっかりと言葉が選ばれていた。女癖が悪いという噂が流れていることを除けば、彼には非の打ちどころがなかった。見た目も清潔で、毎日ぴっしりアイロン掛けされたシャツを着て、爪の形も整っている。(これらはきっと母親が世話焼きだとかそういうことじゃなくて彼自身が人として気遣っていることなのだ)

 そしておそらく、それが今までの恋人たちと別れた理由だった。彼は軽い気持ちで付き合うにはあまりにもしっかりしすぎていた。

 軽い気持ちで付き合って、飽きれば浮気を理由に自分を正当化したまま別れられる相手を彼女たちは求めていた。そんな彼女たちには、水戸くんの愛が重すぎたし、付き合うにはそれなりに覚悟が必要だった。彼女たちには今の段階でその覚悟を決めることができなかった。なにぶん恋愛経験が多いわけではないし、これから訪れるかもしれない出会いに期待もしていた。もっと吟味をしてから------言い方を悪くすれば遊んでから、彼を選ぶかどうかを決めたがった。そこでおかしな繋ぎとめ方をしなかったのは、むしろ優しさと言うべきかもしれない。

 そして今になれば、地雷女が復縁を迫ったのも納得がいく。彼女は他より早く吟味を終えたのだ。しかしそれ故に、機は熟す前だった。


 彼は私をいろいろなところに連れて行ってくれたし、多くはないが与えてくれるものもあった。けれどもやはり彼に対して恋愛感情と呼ばれるものを抱くことはできなかった。

 陸上部のもとから離れた時のように、私は一人になるたびに考えた。彼のそばに自分がいることが正しいのかと。私が彼のそばにいる事は私にとって彼にとって何らかのプラスを生んでいるのだろうかと。

限りあるこの時を、恋をすることを理由もなく推奨されるこの時期を無駄にしてはいけない。無駄にさせてはいけない。

 もう少し時が経てば、彼のことを好きになるのではないかとも思った。魅力的な点を見つけることは得意だったし、彼には欠点らしい欠点もない。けれどもそれは、今までの彼女たちのしてきたことと何も変わらないことだ。

 私は彼と別れようと決めた。そしてちょうどその時、彼女の思いを知ったのだ。

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