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後悔はない。
例えアンリが他の女性と添い遂げる姿を見ることになっても、無条件に愛され、傍に置いて貰えるならば、それで良いと本気で思った。
アンリは猫のシノにしか見せないたくさんの顔を持っていて、それは人間の頃には得られなかった幸せと共に、シノの心へ今も大切に仕舞われている。
織物の出荷管理の仕事をしていたアンリがその知識を見込まれ、商人らと共に隣国へ商談に向かう事になった時の彼の喜び様と来たら、それは大変なものだった。
今回の話を上手くまとめる事ができれば、待遇も格段と良くなる。そうしたら、もっと広い家へ引っ越そう。そう言って、意気揚々とアンリは隣国へ発ち、そのまま帰ってこなかった。船が過積載により川で転覆し、皆が命からがら散ったためアンリの消息は不明である、と報せがあった。
アンリの妻はシノを街のクロスホールに譲った。それは致し方ない事だったと思う。
アンリが無事であることを祈るばかりでは生きてはいけない。アンリと妻の間には小さな一人息子もいた。なんとか金を稼ぎ、なけなしの生活費で子を養わなければならない状況では猫すらも重荷だ。
加えて、猫は悪魔の化身であるとされ、またその悪魔の化身を飼い慣らす者は魔女と見なし宗教裁判に及ぶ例もあった。
クロスホールに譲渡したのは、情あっての事だろう。会館では保管している織物をネズミから守るために猫が集められ、倉庫で飼われていた。
しかしそこも安住の場所ではない。猫はすぐに増えるため、毎年春の初めに会館の鐘楼から数匹投げ捨てられた。ただ手放したくて逃がすのではない。異端の象徴として落として殺めるのだ。
クロスホールで生き長らえる猫もいる。ネズミを追い回すほど猫の気性の無いシノは、膨大な織物の影に埋もれては一日をやり過ごしながら3年、織物庫の中で暮らした。
けれど、まだ冬の肌寒さ残るある朝、年に一度の猫投げの日に運悪く目をつけられ地へと放たれる事となった。
(アンリ……それが貴方の傍であるなら、このまま死ぬのも良いのかも知れないわね)
未だ帰った報せのない最愛の人。特別でなくても良い、ただ彼に愛して欲しかった。人間である事がその足枷になるなら、そんな器など捨ててしまえる程に。
(貴方がもう、戻らないのなら……)
「僕が留守の間、どうか無事でいてくれ。可愛い僕の猫よ。君が僕ら人間の愚かさに虐げられませんよう……」
ふと、出発の日、玄関で見送るシノを撫でたアンリの言葉が頭をよぎる。
それは、アンリがくれた最後の愛の印のようで。
――こんな結末では逝けない。
聖職者による制裁の言葉と共に街の広場へ振り落とされる瞬間、なんとか身を捩り真下に落ちるのを避けた。鐘楼の脇、クロスホールの屋根を前脚で掠めてバランスを取り戻し、幾度か壁を蹴りながら、集まった観衆たちの間に飛び込み一目散に逃げた。
そうして命は助かったが、つるばみ色の瞳をした黒猫は、神の手を逃れた忌々しい魔猫としてその姿が街に広まった。
春が終われば、次は夏至祭がある。この祭祀の間近に捕らえられた猫は、広場に吊るされて火炙りにされてしまう。夏の乾季が近づき人々が猫に敏感になり始めると、いよいよ街には潜みづらくなってきた。
風の便りで森の魔女の話を聞いたのはそんな頃だ。隠れ場を共有する猫たちの間でも、次第に魔女の話題で持ち切りになっていた。本当に森に魔女がいるのか確信の持てるような話はなかったが、迷っている間にも夏至祭は迫り、シノは噂話に賭けることに決めたのだった。
「わたしが街にいた頃にはもう猫焼きは行われていた。馬鹿なヤツらさ。猫はただの猫だし、魔女裁判にかけられた中に本物の魔女はいない。そもそも魔女なんてのは無力な人間がなるんだ、どうせわたしらには何も出来やしないのにね」
森の魔女はセイロンを淹れたカップの縁を指で撫でる。シノも同じものを勧められたが、既に味覚に合わなくなっていたので代わりにミルクを頂戴した。
「このまま街を出て静かに暮らすこともできる。でもあんたは、そのためにここに来た訳じゃない。そうだろう?」
シノは頷く。人に虐げられず生きていくことが願いなら、わざわざ森の魔女を探してここまで来たりしない。
あの街に生まれ、あの街で愛された記憶がある。いつか愛しい彼が帰って来るかもしれない、その希望も捨てられない。我ながら馬鹿げているとも思うが、どうしたって捨て切れない執念にも近い感情がシノをあの街へ連れ戻そうとするのだ。
ともすれば、今や同族となった猫達の哀れな姿を見ぬふりでやり過ごし続けることもできない。
人間としての心が街へ向かうほど、猫としての心が踏みとどまる。このまま街への未練を捨て切れないのなら、猫焼きを終わらせるしかない――。
揺るがないシノの瞳に意思を読み、森の魔女はため息をついた。
「今年の夏至祭をやり過ごしても次はどうなる事か。猫の寝床ぐらいはいくらでも貸してやるが、他には何もしてやれないよ。猫の言葉はさっぱり分からないからね。……でも、あんたは違う」
机のハンドベルをちりりと鳴らし、魔女がシノの傍らに大皿を置く。その瞬間、家中のそこかしこで、生物の気配が蠢いた。
青、茶、金の瞳が、物陰に光り真っ直ぐとこちらを――恐らくは、隣の大皿の中を見据えていた。
森の魔女は一手に注目を引き受けるその皿にミルクとフレークを盛りながら、にやりと笑った。
「猫の手ならいくらでもあるよ。借りてくかい?」
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