さよならだけが

 その日は、ひどく暑かったのを覚えている。

 鬱陶しいくらいの蝉の音と、太陽が肌を刺していた。周りでは、夏に浮かれた人達が、楽しげに笑っている。それがとても嫌で、そう思う自分をまた嫌いになった。



「嬢ちゃん」

「何ですか? 龍神さん」

「いや……あっついなぁって思って」

「水の中にいるのに何言ってるんですか。変なの」

「いやだって、見るからに外暑そうだから。嬢ちゃんの服だって薄いし」

「……薄いって、どこ見てるんですか?」

「え? あ、いや、ちょい待って、誤解誤解、ノットギルティ」

「イエスギルティ」

「ノットギルティ!」


 あははは、と笑い声が虚しく響いた。


 最近、私が変わったと皆が言う。明るくなったね、とか、楽しそうだね、とか。

 私は先日両親を亡くした。大方、それで少しおかしくなったのだろうというのが、周りの予想なのだろう。事実、そう言われているのを聞いたし、言われた。そして、それは半分正しいけれど、半分間違っている。

 オカシイのは元からだ。明るいのは、悩むのを止めたから。そして、それがおかしいと言うのなら、きっと、私は、両親を亡くして、より一層オカシくなったのだろう。悲しみのあまりにではなく、どこかのネジが外れて。


「……あ、そうだ。龍神さん」

「何でぇ、嬢ちゃん」

「私、今日でここ、来れなくなります」


 龍神さんが絶句した。

 まぁ、そりゃそうだろう。私も、いきなりすぎたかなとは思う。


「何か、遠縁の方が引き取って下さるそうで。親が、親戚にも私がおかしいって言ってたので、近い親戚は誰も名乗りを上げなかったんですけど、それを聞いたその方が、是非うちにと言って下さったそうです」

「……」

「その方のお家、とっても遠くなんです。こっちには、新幹線を乗り継がないと来れません。だから、もうここに私は来れないんです。今日、転校手続きもしてきました」

「……」

「ま、両親があんな風に死んだので、仕方がないですよね。引き取って下さるだけマシでしょう。そうじゃなきゃ、児童養護施設に入れられるところでしたから。私、集団生活向いてませんし」

「……」

「すみません、いきなり言ってしまって。私も、言わなきゃ言わなきゃとは思ってたんですけど、なかなか言う機会が無くて」

「……」

「……龍神さん?」


 黙りこくった龍神さんに、私は不安を感じて彼を見やった。

 龍神さんは、水槽の中で固まっている。鬼の目が、ぎょろりとこちらを見つめていた。

 怒らせただろうか。そう考えて、ひどく不安になる。


「龍神、さん?」

「……嬢ちゃん」


 だが、彼の言った言葉は、私の不安の何もかもを吹き飛ばした。


「嬢ちゃんは、どうしたい?」


 ただ、それだけ彼は言った。


「え? どうしたいって……だから、遠い親戚に引き取られて……」

「そうじゃない。それは、嬢ちゃんの意志じゃないだろ」


 嬢ちゃんは嘘つきの顔をしている、と龍神さんは言った。


「嘘つきの顔?」

「虚しい顔ってことさ」


 虚しい顔。言われてみれば、確かに、私の心には大きな暗い穴が開いている。それを虚しさと呼ぶのなら、なるほど、私は今、ひどく虚しいのだ。


「嬢ちゃん。嬢ちゃんは最近、全く俺に質問をしてくれねぇな。それは何でだ?」

「……何ででしょうね」

「それどころか、本も読まねぇな。それは何でだ?」

「……」


 龍神さんは、きっと気づいている。龍神さんは、多分、この虚しさの先にいて、こちらを見ているのだ。


 こんな話がある。傷の痛みは、それを負った者にしか、分からない。


「……全てが、どうでもいいんです」


 私は、小さな声で話し始めた。


「何もかもに興味がわきません。興味、関心、意欲、全てが欠落してしまいました。もう、誰かに訊きたいことも、何かから学びたいものもない。ただひたすらに、何もせず、眠っていたいです」


 私はソファに体を倒して、目を閉じた。暗い瞼の裏に、青と黒の文様が浮かび上がる。


「何だか、ひどく疲れました」

「嬢ちゃ」

「ねぇ、龍神さん」


 彼の声に被せて言うと、私はうっすら微笑んだ。見やった彼は、焦った顔をしてこちらを見ている。


 変な顔。


「そちらへ行ってもいいですか? 私、もう元の世界に戻りたくありません」


 永遠に、この世界に留まってもいいですか?


 龍神さんは、焦りを無理矢理押さえ込んだような顔をして、静かに言った。


「嬢ちゃん、そんなことをすればどうなるか、分かってるのか?」

「えぇ。お義理で里親探しをしていた親戚が苦労を無駄にされたことに怒り狂って、私を引き取って下さる方が落胆して、形ばかりの行方不明ポスターが貼られて、それで終わりでしょうね」


 淡々と応じると、龍神さんは鼻白んだように黙った。だが、事実だからしょうがない。


「ねぇ、龍神さん。私、ここにいたいです。いられるでしょう? 私はオカシイんだから」


 奇妙に真っ直ぐで歪んだ声が、私の喉から響いた。

 龍神さんは、悩むように目を閉じている。


「嬢ちゃん」


 やがて、優しい彼は言った。


「分かった。そういうことなら仕方ない。いいよ、おいで」


 あぁ、終わったな。私は何故かこの時そう思った。

 おかしな話だ。本来、ここで私は狂喜するべきなのに。


「だがな、嬢ちゃん。ここは水族館だ。そちら側ではなく展示こちら側になると言うのなら、嬢ちゃんは水の中に入ってこなきゃならない」

「分かりました」


 水の中で人が生きていけるはずがない。だが、私はもう人ではない。両親の言うようにオカシナ私は、人ではなくて、きっと既に化け物だ。


 化け物に、人の普通はない。


「奥の通用口から入って、ずっと上へ上がっておいで。そしたら、この水槽の入り口がある」

「分かりました」


 答えて、示された通用口から中へ入る。

 通用口は、非常に殺風景だった。外の幻想的な雰囲気と比べて、あからさまな電飾とむき出しの配管が、この建物のちぐはぐさを醸し出す。

 それは、まるで私のようだと私は思った。


 疲れた心は死を叫ぶのに、体は昨日と同じように生命活動を繰り返す。ふと振り返れば、死が服の裾を掴んでいるのがはっきり見えるのに、それが恐ろしくて振り払ってしまう。

 生きるのが面倒で、かと言って死ぬのも面倒で、結局こんな所へ逃げてきてしまう。

 飼育員用通路だったと思わしきそこは、この建物の歴史とともに朽ちていっていた。割れた窓ガラスや腐り落ちた配管の陰に、私は父や母の影を見る。

 愛すべき両親の目は、やはり理解しがたいものを見る目で、言外に、私を化け物と呼び、孤独へ追いやった。


 錆びた階段を上って、青い巨大な水槽の上に立つ。

 そっと下をのぞき込むと、深い透明な水の中に、巨大な青い生物がとぐろを巻いているのが見えた。


 ふっと、心の中に恐怖が湧く。

 ここに飛び込むのかと考えた瞬間、足から下の震えが止まらなくなる。

 それは、いつもと同じ、死への恐怖。己が化け物だと信じる自分と、人だという認識にしがみつく自分の戦い。


 怖い。


 怖い。


 やっぱり、今からでも、降りて帰ってしまおうか。


 龍神さんだって、きっとそれを望んでいるはずだ。


 怖い。


 でも、どうして?


 どうして、今更怖いなんて思うの?


 葛藤に耐えかねて、水槽から目を上げる。と、背後に気配を感じた。振り返ると、水の近くない安全な場所に、両親が立っている。

 微笑んで、彼らは口を開き、私を呼ぶ。


 それは、もう呼ばれなくて久しい名前。私自身ですら、半分忘れてしまっていた名前。遺書にも書いてくれなかった、私の名前。


 ■■、と。



 ふざけるな。



 幻がその名が呼んだ瞬間、私はくるりと彼らに背を向け、水槽の中へ飛び込んだ。

 どぶんと音が遠くから鳴り、私の体を泡が取り巻く。制服が水を吸ってどんどん重くなり、私を底へ引っ張る。

 青い鱗の体が、ぞろりと回転した。


 息が苦しい。


 何もかもを忘れて、私は遥か水面に手を伸ばした。

 初め見とれていた美しい水の世界は、もはや私にとって地獄と化している。


 龍神さん。


 心の中で、いつものように彼を呼んだ。


 龍神さん、龍神さん。


 正面にやって来た鬼の目が、いつものように微笑んだ。


 何でぇ、嬢ちゃん。


 私は、気まずく思いながら告げた。


 無理でした。


 龍神さんは、おかしそうに笑う。


 だろ?


 そして、彼は鼻面で、私の体を強く押す。


 当たり前だ。嬢ちゃんは、こっち側じゃないからな。


 いつだったか、龍神さんの見せてくれたイルカのように、水面に飛び出した私の耳に、彼の楽しげな声が聞こえた。


 体が冷たい床に墜落した。ひやりとした空気を吸い込むと同時に、目の前が段々暗くなっていく──


 着物の少女が池の端にやってきた。

 龍神さま、龍神さま。

 目元にどこか陰のある、おとなしそうな彼女の声に、水面がざわめく。

 何でぇ、嬢ちゃん。

 やがて答えたのは、この世で最も優しい声だった。


 着物の少年が池の端にやってきた。

 龍神、龍神。

 鼻の頭に傷のある、生意気げな彼の声に、水面がざわめく。

 何でぇ、坊主。

 やがて答えたのは、この世で最も温かい声だった。


 それからたくさんの人が池の端にやってきた。袴姿の少女。軍服姿の少年。襤褸を纏った男。傷だらけの女。

 彼らは、龍が答えを返すと、皆一様にほっとした顔をして、嬉しそうに話し始めた。彼らと言葉を交わす龍もまた、いつも楽しげだったが、どこか寂しげで、哀しげだと私は思った。


 やがて、彼らは皆、骸になった。


 黒々とした髪と伸びた背を持つ、若々しい骸に囲まれて、一頭の龍が悲しげな咆哮を響かせている。

 若くして命を絶った友人達の魂を弔いながら、彼らの死を恨んで、悔やんで、嘆き続けている。


 その地獄が終わることは、永劫ない。


 時が流れて、龍の住処は変わった。

 木に囲まれた深い池ではなく、アクリルガラスに囲まれた青くて狭い空間。

 ついと目を上げると、ガラスの向こうに人影が見えた。

 白いブラウスに、黒いスカート──私だ。


 龍神さん、龍神さん。


 『私』はガラスに手をかけて龍に呼びかける。


 何でぇ、嬢ちゃん。


 龍が答えを返すと、『私』はひどくほっとした顔になって、嬉しそうに話し始める。

 その姿が、かつての友人達と重なって、龍の胸に鋭い痛みが走った。


 この子もまた、いなくなるのだろうか。


 また、物言わぬ骸が重ねられるのだろうか。


 もう何も問いかけない、冷たい死の塊が。


 途方もない虚しさに包まれて、私の頬に冷たい何かが流れた。そして、恐らく涙であろうそれが、私のものなのか龍神さんのものなのか考えているうちに、私は再び、気を失ってしまったのだった。


 水槽の縁で私は目を覚ました。

 起きあがると、水面から顔だけ出して、龍神さんがこちらを見ている。その光景に、先ほどの池が重なった。


「龍神さん、龍神さん」

「何でぇ、嬢ちゃん」

「……何人、見送ったんですか?」


 その質問に、龍神さんは少し驚いた顔をした後、哀しげに微笑んだ。


「見たのかい?」

「えぇ」

「そうか……覚えてないよ。何人逝ったかなんて、覚えていられない。何せ、こちとら悠久を生きてるんだからな」


 口振りは軽やかだが、その声はひどく沈んでいる。何となく、本当は覚えているんじゃないかと私は思ったが、それに触れることは出来なかった。


「そうですか……ねぇ、龍神さん、龍神さん」

「……何でぇ、嬢ちゃん」

「死って、何ですか?」

「さよならだよ」


 それは、これまでで一番短くて、一番早い答えだった。


「死んでしまえば、もう二度と会えない。たとえアマゾンの奥地へ行こうと、地図に載っていない場所へ行こうと、もうその人には永遠に会えないこと。それが、死だ」

「だから、さよなら?」

「そう。永い、永い、さよなら」

「……では、生は?」


 それは、半ばこじつけのような質問だった。死を訊いたなら、生を訊かなければならないような、そんな気がしたのは、きっと、骸の山の前に立ち尽くす龍神さんの姿に、ショックを受けたせいだろう。


 ぽたん、ぽたん、と、髪から滴が垂れる。それをしばらく見つめてから、龍神さんは、ぼんやりと答えた。


「また会いましょう、じゃないか?」


 龍神さんの答えに『?』がつくのは、私の記憶では初めてのことだった。驚いた私が顔を上げると、龍神さんは困ったように笑う。


「俺だって、何もかも知ってるわけじゃないんだぜ」


 そして、いやに真面目な声で、考え考え彼は言う。


「死んだら、もう絶対に会えない。なら、生きていれば、またどこかで会えるってことになるんじゃないか? お互いに生きてて、どっちかがどっちかに会いたいと願ってりゃ、いつかは必ず会える。多分、そういうことなんじゃないかと思う」


 私は静かにその言葉を聞いていた。

 口の中でそれを反芻し、ゆっくりと脳髄に染み込ませる。


 生きていれば、また会える。


「……龍神さん」


 私は言って、勢いよく立ち上がった。


「私、帰ります」


 龍神さんは、温かい目をしていた。その目を見ていると、不意に寂しくなって、私は小さな声で付け足した。


「また来ても、いいですか? その、イヤなことがあった時とか」

「おう。いつでもおいで」


 軽く言われたその言葉が嬉しくて、私はついつい茶化してしまう。


「言いましたね? そんなこと言ったら、魂だけになって、また来ちゃいますよ?」

「おう、そん時ゃまた返してやらぁ……って、ちょっと待て。嬢ちゃん、まさか夢のこと覚えてるのか?」


 ついでの告白に、龍神さんがぎょっとした顔をしたので、誤魔化すように微笑んでおいた。


 手を伸ばせば、龍神さんの冷たい頭に触った。抱きついて、私は短いさよならを彼に贈る。


「さよなら。また会いましょう、龍神さん」

「おう。また会おうぜ、嬢ちゃん」


 そうして、私はまた、水槽の前に降りた。


 水槽の中には龍がいる。青い光に照らされた、この世の何より美しく、何より優しく、そして、何より人間を愛している、大切な大切な、私の友人が。

 大きく手を振って、私は彼にもう一度別れを告げると、『大水槽』のプレートを提げた部屋を出た。


 きっとまた、ここに来るのだと思いながら。


 青黒いガラスが幻想的な、異界の出口から、暖かな陽光が差していた。

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