不可解恋情

「龍神さん、龍神さん」

「何でぇ、嬢ちゃん」

「恋って何ですか? 愛だと言う人がいます。執着だと言う人もいます。創作物の中では、ヒーローの立ち上がる理由になったり、はたまた殺人の動機になったりします。こんなに善悪はっきりしない感情は、きっと他にはないでしょう。教えてください。この感情は、何なんですか?」


 膝に乗せた、ツルゲーネフの『初恋』から目を上げて、私は水槽の中の龍を見た。いつも通り、ぼんやりと虚空を眺めて首を傾げているとばかり思っていた彼は、今回は大きくその瞳を見開いて、私をまじまじと見ている。


「……何か?」


 気まずい沈黙に耐えかねて、私はアクリルガラスを足でつつく。大方、昔の恥ずかしい思い出でも思い返しているのだろうと思っていたのだが、振動でハッと我に返った龍神さんが口にしたのは、私の予想の遙か斜め上を行く言葉だった。


「じょ、嬢ちゃん、もしかして誰かに、恋したのかい?」


 衝撃で体がカチンと固まった。


「……は?」


 ため息のような疑問が口から漏れる。見れば、目の前の龍は、大変楽しそうに体をくねらせている。


「すごいなぁ。楽しいなぁ。どんな人だ? 別嬪な嬢ちゃんのことだから、相手もきっと見目麗しい人だろうなぁ」

「ちょ、ちょっと待ってください。違う。違います。私は、誰にも恋なんてしてませんよ」


 え、と今度は龍神さんが固まった。アホか。当然だろう。龍とはいえ、神は神。やはり、それなりに恋愛脳ではあるらしい。


「え、違うのか?」

「違います」

「気になる男子ができたとか……」

「ないです。そんな余裕ありません」


 きっぱりともう一度、ないですと言うと、彼は落ち込んだように、もたげていた頭をとぐろを巻いた体に落とした。


「せっかく、嬢ちゃんにも春が来たと思ったのに……」

「来なくていいですよ、そんなもの。ところで、話を元に戻しますが、恋とは何なんですか? 龍神さん」


 えぇ、と未練がましく呟く龍神さんは、しかし、少し考えると、静かな声で語り始めた。


「恋とは、誰かを大切に思うことだ。そのもののためならば、己も含めて、全てを犠牲に出来る。時にそれが行き過ぎて、周りや、相手すらも傷つけたりするが、それもまた相手を大切に思うが故だ。相手は人とは限らない。無生物、二次元、動物、何でもいい。また、相手が一人とも限らない」

「……では、人間は、どのようにそれを恋だと判断するのでしょうか? 龍神さんのお話では、誰かを大切に思うことが恋ですが、家族や友人も、一般には『大切な誰か』です。ですが、彼、彼女らに対する感情は、恋ではない」


 龍神さんは、チッチッチッと格好付けて鉤爪を振って見せた。


「嬢ちゃんは若干勘違いをしてるな。まず一つ。恋とは、自分が恋であると思った瞬間に生まれるものだ。他人から見て、その感情が恋であったとしても、断固として違うと自分が思っていれば、それは恋には成らず憧れで終わる。二つ。故に、この世の全ての人間が恋を経験するわけではない。自覚なき者に恋は生まれんし、生まれないものを経験することは出来ないからだ。だから、友愛、家族愛だと思っていても、実はそれが恋情だったということもあり得る。無論、逆も然りだ。つまり、何が恋で何が友情かなんて、ケースバイケースってことだな」

「……『大切な誰か』に対する感情は、友情や恋情でカテゴライズ出来るものではない、と?」

「その通り。明確な差異がないから、それぞれの判断に任せるしかない」


 龍神さんは、話し終わると同時に、ちらりと私を見た。鬼の目に私を宿して、彼は、私に言い聞かせるように話す。


「ま、結局は、相手を幸せにしたいって気持ちが一番大切なんだろうよ。だからな、嬢ちゃんも、嬢ちゃんを幸せにしてくれる人、嬢ちゃんが幸せにしたい人を見つけな」

「いますかねぇ、そんな人……」

「さぁなぁ。無理に恋して先走るのも、お互い不幸だしなぁ」


 だがな、嬢ちゃん。

 龍神さんは呟くと、優しく微笑んだ。


「恋は、間違えなければ、最も簡単に幸福を招き寄せてくれるものなんだぜ。自分の力で頑張るだけじゃ、人間は疲れちまうからな。たまには人の力を借りたいってときに、恋ほど他力本願で幸せになれるものはないんだ。俺は、頑張りすぎる嬢ちゃんに、なるべく楽に幸せになってほしい」

「…………そうですか」


 小さく呟いて、私は膝の上の本を撫でた。初恋の字は薔薇色で、光のように白い表紙によく映える。


「ありがとうございます。龍神さん」


 龍神さんは重々しく頷いて、また眠りについた。

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