ナイトメア
小さな友人がいる。
愛らしい、人間の少女だ。
人間は大抵賢くて愚かで、でも、そこが可愛い生き物なのだが、その中でもこの子は別格だ。闇と光のバランスが醸し出すその美しさは、見ていていつまでも飽きない。人間らしい、矛盾と葛藤を抱えた女の子。
この水に潜って何年が過ぎただろう。相変わらず、寝て、起きて、世の中の役にも立たないことを夢想する日々だが、もうどこにあったかも思い出せない、かつての巣穴での生活と、何も変わったことはない。訪ねて来る友人の質問に答えることも含めて、何も、何一つ変わっていない。
時折ふっと考える。これから先の未来も、やはり変わらないのだろうかと。
龍神さんと呼びかける声が、また不意に消えるのだろうかと。
龍は水槽の底で目を開けた。何か、異様な気配を察知したからである。異様と言えば、
それは、龍にとって、思い出したくもない気配だった。
ため息をつきながら、龍は、アクリルガラスの外の暗闇に向かって、呼びかけた。
「嬢ちゃん、そこで何してる?」
声に応えるように、闇の中から少女が姿を現した。
その表情は、水槽の薄い光では見えない。
「忘れ物か? もう夜遅いんだから、さっさと帰んな。別嬪さんがこんな遅くに出歩いちゃ、悪い男にさらわれちまうぜ?」
「……りゅう、じん、さん?」
「おう。こんな長い体の奴、他にいるかよ」
「………」
「嬢ちゃん?」
声をかけると、それが合図かのように、少女の細い体が、床に崩れ落ちた。
「!?」
か細い泣き声が、震える彼女から聞こえる。
「龍神さん、どうしよう、私、どうしよう、そんなつもりじゃ……」
「嬢ちゃん? どうした?」
「どうしよう、私、お父さん、お母さん……!」
「嬢ちゃん!」
思わず声を荒げてしまった。途端に、少女はびくんと体を震わせてこちらを見る。
その顔に貼り付いているのは、途方もないまでの、恐怖。
あぁ、マズったな。
苦い焦りを押し殺して、龍は柔らかく彼女に問いかける。
「何があったんだ? 嬢ちゃん」
「……」
「ちゃんと聞くから。だから、教えてくれ。いつもみたいに訊いたらいいじゃないか。龍神さん、龍神さんって」
「……」
「友達が泣いてたら心配するだろ? なぁ」
「……」
「嬢ちゃんっ」
「……龍神さん」
少女が、消え入りそうな声で言った。その声の固さに、龍ははっと押し黙る。
少女の真っ黒な瞳が、彼を捕らえた。
「どうしてそんなに、焦ってるんですか?」
これは悪夢だ。龍はそんな声を聞いた。それは、自分の声に酷く似ていた。
これは悪夢だ。過去からの悪夢だ。
「……嬢ちゃん」
深呼吸をして、今度はゆっくり呼びかける。大丈夫。嬢ちゃんはまだ、ここにいる。
小さな友人は、まだ、俺の手の届くところにいる。
「おいで」
「?」
「今の嬢ちゃんなら、こっちに入ってこられる。おいで、嬢ちゃん。俺が守るから」
不思議そうな顔をして、少女がよろよろと立ち上がり、アクリルガラスに手を付けた。
すると、手はガラスを透過して、あっと言う間に、彼女の体は水槽の中に吸い込まれた。
青い水の中で、少女が目を丸くした。
龍はそんな彼女を中心にして、とぐろを巻く。
「綺麗だろ?」
「はい……」
「……なぁ、嬢ちゃん。さっきは、まくし立てるように訊いて悪かった。でも、やっぱり心配なんだ。何があったか教えてくれないか? イヤなら言わなくていいから」
だが、少女は、黒く澱んだ目で首を振った。
「いえ……言います。言わせて下さい」
とはいえ、それを言うにはとてつもない勇気が必要なようで、少女は、しばらく苦しげに、息を吸ったり吐いたりしていた。
やがて、彼女は静かな声で語り始めた。
「両親が、死にました」
ひゅっと龍は喉の奥を鳴らした。彼女の両親のことなら知っている。異界に来ることの出来る彼女を恐れて、遠ざける人間。龍と知り合う人間の周りには、必ずいる類の人間。
「今日帰ったら、パトカーが来ていて、い、遺書が、あって、警察の方が言うには、し、心中らしいって」
「嬢ちゃん」
「両方、同時に刺したらしいです、父と、母と、包丁で」
「嬢ちゃん」
「誕生日に、母に、父が、贈った、包丁で」
「嬢ちゃんっ!」
龍は叫んで、強引に少女の口を塞いだ。
「嬢ちゃん、それ以上言うな。それ以上言っちゃ、ダメだ」
「でも」
「ダメだ。これ以上、言いたくもないことを言わないでいい。悪かったな。俺のせいだ」
「……いえ…………」
少女を抱えて、龍は嘆息した。あぁ、どうすればいいだろう。
「……嬢ちゃん。思いつくことを、思いつくままに言ってごらん」
不意に浮かんだ言葉は、後悔の権化のようなものだった。
あの時、そうしてくれれば良かったのにと、何度も思った言葉。
「ため込むのが、こういう場合一番いけねぇんだ。ほれ、言ってみな? 文章になってなくても、矛盾してても、この偉大な龍神さんが、ちゃんと汲み取ってやるから」
「……」
「嬢ちゃん」
促すように言うと、彼女は一つ頷いて、不器用に泣いた。
「死ねばいいって、思ったんです。頭の中で、夢の中で、あの人達を何度も殺しました。現実に殺さなければ、法的にも、倫理的にも問題ない、でも、しんどかった。そうしたら、死んでしまったから、だから……!」
少女は、龍の滑らかな鱗に取り付いて悲鳴を上げた。
「教えて下さい、龍神さんっ! 私が、殺したんですか!? 私は、オカシイから、あの人達の言うように、私が、オカシイから、だから、あの人達は死んだんですか!? 私が、死ねって思ったから、私が、あの人達みたいに、生きられないからっ!!」
「違う」
龍はきっぱりと言って、優しく彼女を撫でた。
「違うよ、嬢ちゃん。死を選択したのは、その二人だ。嬢ちゃんは、それに関しては全く責任がない。お前にも、俺にも、生きとし生ける全てのものに、死をどうこうする力はない」
「でもっ」
「でもも何もない。嬢ちゃんがおかしい? 部外者から言わせてもらやぁ、こんな子供を残して死ぬ親の方がおかしいね。そんな奴に、嬢ちゃんが罪を覚える必要はない」
「……でもね、龍神さん」
少女の声は、今にも消えそうだ。
「私、父と母のこと、好きだったんです。本当に、大好きだったんですよ」
それで、おしまいだった。
精根尽き果てた様子で、少女はコトンと眠りに落ちていった。
「………子供は皆、そう言うよ」
龍は呟いて、そっと少女を抱え直した。
「なぁ、嬢ちゃん」
少女には、届かない。
「俺は、嬢ちゃんには自由であってほしい。だから、嬢ちゃんの意志は最優先されるべきだと思ってるよ」
その少女はスヤスヤと、安らかに眠っている。
「だけどな、嬢ちゃん。俺には、正義があるんだ」
健やかな、愛おしい寝顔に顔を近づけて、龍は囁いた。
「それはな、大切な友達に、幸せに生きてもらうことだよ」
悠久を生きる自分とは違う、か弱い生き物。
頑丈な体も、強靱な四肢も持たない、脆くて儚い生き物。
人間は生きるべきだ。生きられる限り、生きてみるべきだ。
死は、ただでさえ弱い彼らから、可能な限り遠くにあって欲しい。
「だから、嬢ちゃん。お前の意志を、俺は無視する」
龍の体が妖しい光を帯びる。水が意志を持って動き始め、龍の周りに渦を巻く。
青い光と黒い闇が交差して、複雑怪奇な文様を作り出した。
「嬢ちゃん、生きてくれ。ただそれだけが、俺の願いだ」
ごめんな、と告げて、龍はそっと、少女の体を投げ上げた。
文様がその体を受け止め、優しく包み込み、溶かしていく。
やがて、少女の体は光の粒となって、あるべき所へ帰っていった。
龍は疲労困憊して、水槽の底にどうと倒れた。
「あぁ、しんどい。魂返しマジしんどい」
これで、少女は無事帰ったはずだ。どうやら、眠っているうちに、魂だけでこちらへ来てしまっただけのようだから、きっと、朝になれば、今夜の記憶は薄れて夢のようにぼんやりしたものになっているだろう。
だが、少女に起きたことは、何も変わらない。
『私、父と母のこと、好きだったんです。本当に、大好きだったんですよ』
少女の声が、脳裏にこだまする。
それに対する答えを、龍は持っていなかった。
大好きな親を、殺したいと願う矛盾に対する正しい応えが、龍には分からなかった。
だから、ごめんなと、ただ詫び続ける。
その葛藤を抱えたまま生きさせたのは、きっと彼女を不幸にするだろうから。かといって、どうすれば良かったのか、龍には分からないから。
ごめんな、嬢ちゃん。俺には正解が分からない。
ごめんな、嬢ちゃん。
ごめん。
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