親殺し

「龍神さん、龍神さん」

「何でぇ、嬢ちゃん」

「親を殺したいと思うのは、よくないことですか? 本来、親とは尊ぶべきものなのだと思います。学校ではそう教わりますし、母の日、父の日なんて日もあります。一般的に、親とは、子供にとって、神のような存在なのだそうです。ですが、この世には親を殺す子供も一定数います。これは昔の話ですが、そういう場合適応されていた『尊属殺人』という罪は、普通の殺人より罪が重かったそうです。教えて下さい、龍神さん。親に殺意を抱くのは、よくないことなんですよね?」


 公民の教科書から目を上げて、私は水槽の中の龍を見た。教科書の中では、デフォルメされた子供達が、わざとらしい恐怖を顔に浮かべて話している。

 龍神さんはちらりとこちらを見ると、静かな声で断言した。


「よくないことではないな。殺意は自由、人の感情は自由だ。心の中で、相手を何千回、何万回殺そうと、現実でそいつを殺さないなら、それは悪いことではないよ。法的にも、倫理的にもな」

「ですが」


 親ですよ? と、その言葉を言うより早く、龍神さんが言った。


「関係ない」


 厳しい声だった。


「相手は親という名前の生き物じゃない。一人の人間なんだ。周りと区別する必要はないし、そもそも分けなきゃいけないと言う人間の考えが、俺にはよく分からない。親子だって、人間関係の一つの形にすぎないんだから、相性くらいあるさ。血が繋がってるってただそれだけの理由で、100%相性がいいなんてことがあるもんか。嫌いな相手なら、そりゃ殺意を覚えることもあるだろうよ。親だろうが子だろうが恋人だろうが、関係なし」


 あまりにもさっぱりとした声に、今更ながら、あぁ、彼は人外なんだなぁと、私は思った。


 道徳教育に溺れた私なら、そんな割り切り方は出来そうにないし、出来たとしても、そんなことを考えてしまう自分に吐き気を覚えてしまいそうだ。

 だが、私の思いなど露知らない龍神さんは、軽やかに続けた。


「嫌いな人間には近寄らない、近寄らせない。それを徹底してりゃ、殺人は心の中だけにしておけるはずだぜ。もっとも、嬢ちゃんがシリアルキラーとか何かそういうのだったら、もっと別の方法を考えなきゃいけないんだが」

「……でも、嫌いな親から逃げるには、殺すしかないですよね? だって、親からは逃げられないですし、私……達は子供で、経済力も、家事能力もありません。近所の大人や先生に頼っても、きっと、余所の家のことになんて、誰も首を突っ込もうとは思わないでしょう。困らせて、そのうちに親が来て、また酷い目に遭うだけ。……そもそも、ご飯と睡眠をもらえているだけ、多分幸せなはずなんです。殴ったり、蹴られたりしたこともない。だから、不幸だって言うのは、きっと、贅沢なんです。だから、その……」


 上手く言えないのは、きっと、私の中で、それが上手く整理できていないからだ。息が苦しい。伝えたいことが上手く伝わらなくて、相手の顔がどんどん歪んでいくこの瞬間。

 結局、私の言葉が届かない落胆には、いつになったら慣れられるんだろう。


「逃げの手段は殺すだけじゃないぜ、嬢ちゃん」


 だが、龍神さんは答えてくれた。顔も歪ませなければ、飽きたように外も見ず、冷静に、淡々と、真剣に、私に向かって語って聞かせようとする。


「全ての人間には、他の人間を助ける権利がある。そして、その権利を正しく使える偉い人間は、結構いるもんなんだぜ。嬢ちゃんが今まで引いてきたのは、ハズレだ。だが、この世の中、ハズレばっかりじゃない。そういう人たちのところに、ヘルプって言やぁいいんだ。それで逃げられる。嫌いな人間のために、嬢ちゃんがわざわざ人生を棒に振る必要はどこにもない」


 でも、本当に殺したくてどうしようもなくなったらな。龍神さんは言って、牙を見せて、にっこり微笑んだ。


「ここに来な。楽しいお喋りで全部忘れさせてやる」


 人じゃない優しい。考え方も、寿命も、何もかもが違うけれど、私をちゃんと受け入れてくれる


 あぁ、確かに、世の中ハズレばっかりじゃないんだな。


「ん? どうした、嬢ちゃん?」

「……大当たり」

「え?」

「いいえ何でも。ありがとうございます、龍神さん」


 公民の教科書で顔を隠しながら呟くと、龍神さんはおかしそうに笑った。

 朝から胸に澱んでいた、冷たいナイフのような感覚はもう消えていて、それに、私はとても安心した。

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