第二章――その名はエディリーヌ④――

 それは涼やかな旋律だった。一点の濁りもない、透き通った高音が壇上より響き渡った。

 人々は水を打ったようにさっと静まりかえり、舞台へとその目を注いで一人の歌い手に注目した。

 ローズ嬢の歌い方は、静かで厳かだった。ともすれば、深い悲哀にもとれそうな程憂い気だ。しかし一身にこれだけの人々の視線を受けて臆する様子もなく、くぐもりもせず、彼女は高らかに歌い続けた。


(すごい……)


 ライアは惚れ惚れした。

 天は二物を与えずという言葉があるが、彼女に当てはまるはずもなかった。二物どころか、三物も、四物も、与えられているような人間がこの世にはいるのだ。ライアの記憶が正しければ、ローズ嬢は賢くもあった。試験ではいつだって、上位に入っていたはずである。

 彼女が一曲歌い終えると、残りの少女達がコーラスに加わって、二曲目を歌い始た。声が重なりあうと、讃美歌はなお、荘厳になった。女神の使いが人々の前に現れ、歌を聞く者の心を洗い流して、まっさらにしていくようだった。


「きれいな声……ローズ嬢がこんなに歌がお上手だなんて」

「けれど、貴族のふるまいとは言えないよ」


 感動しながらささやいたライアだったが、弟はまた別のことを考えていた。


「頭を下げられたんじゃないの?今日一日だけって」


 ライアの言い分にノアは首を傾げた。


「ありえなくはないけどさ、相手はケタ違いの貴族なんだ。それを快く了承するとは思えない。そもそも頼もうって発想がわかない。実際、エディリーヌ・ローズは学校じゃ浮いてるよ。美人だし頭も良いけど、悪目立ちしてる」

「確かに割と一人でいるね、彼女。孤立してる」


 ティネーフがノアに同意し、ライアも首を傾げた。


「誰とも関わりを持ちたくないなら、どうして合唱団と一緒に舞台に並んだっていうの。一人で一曲歌いあげもした。何のために?」


 ライアの言い分に、ノアが目を見開いた。


「ライアにしては良いとこに気がつくね。そこだよ、気になるのは」

「わたしにしてはって何よ」

「そもそもなんでたった一人で、わざわざネルサンに来たと思う?お付きの一人や二人、連れていてもおかしくないのに。民衆の暮らしを知り、寄り添う貴族って言えば聞こえはいいけど、孤立してちゃ意味が無いと思わない?」


 するとティネーフが呟いた。


「エリカだったら、何か知ってるかも」


 ライアはきょとんとした。


「どうしてエリカが?」

「エリカだってあれでも貴族の一員だよ。気楽な末っ子だから、忘れがちだけど。ぼくらよりは何らかの交流があるはずだ」

「お友達ってこと?」


 ティネーフはやんわり首をふった。


「それはない。あの二人は友達にはなれない」

「まぁ、公爵家の長子と男爵家の末っ子じゃ、立場が違うだろうね」

「いや、それ以前に……」


 そこで、ティネーフは言い淀んだ。


「とにかくエリカの方が詳しいと思うから、気になるなら聞いてみると良いよ」

「それってティネーフは……」


 ノアがまだ追及しようと口を開いた時だった。突然、地鳴りのような怒号が劇場に鳴り響いた。


「なに?」


 驚き縮こまりながら三人はあたりを世話しなく見渡した。まわりの観客もざわついている。すると観客の一人が悲鳴をあげて舞台を指差した。

 三人が舞台を見おろすと、見たことも無い獣が壇上の影からのっしりと現れ合唱団に近づいている所だった。

 獣の、ずんぐりとした巨体と荒く黒い体毛は、イノシシに似ていた。しかし馬ほどもある体はイノシシにしては巨大すぎたし、その太くて短い足には鋭いかぎ爪と、大きな顎からは牙が隙間なく生えていた。

 か細い少女達の体など、容易に引き裂くと想像できた。


「なんだあれは」

「これも出しもの?」

「芸人達の演出だろう?」

「おいどうなっている」


 人々がざわつくなか、ふたたび獣が低く長く吠えた。


「魔獣だ!」

(魔獣?)


 誰かがそう叫んだ。

 もはや舞台どころではなかった。二度目の咆哮をきっかけに、舞台間近の観客からありの子を散らすように次々と、我を忘れた人々が声を上げて逃げだし入口に向かっていくのがわかった。それは下の階だけではなかった。上の階からも我先にと、階段を駆け降りる人が多くいた。

 階段場にいたライア達は、巻き込まれまいと慌てて隅に寄ろうとしたのだが、ライアは一歩遅れて、転げ落ちるような危うさで下に流されてしまった。


「ライア!」


 二人のうちのどちらが、彼女を呼んだかわからなかった。二人ともだったかもしれない。とにかく転ばなくて済んだことにほっとしてあたりを見回すと、いつのまにか下の階におり、壇上がよく窺えた。人がすいたため、遮るものがなくなったのだ。そのため、魔獣が恐ろしく近くに感じられてライアは戦慄した。

 壇上では、声を上げることも逃げることもできずに、合唱団の少女達が青い顔でしゃがみ込んでしまっていた。魔獣にいつとびかかられてもおかしくない距離だ。震えながら泣いているクレアの姿を見つけた。たった今まで素晴らしい歌声を披露していたローズ嬢の姿もあった。

 ほかの少女らを庇うように、彼女だけ先頭に立ち魔獣と対峙していた。しかし同じく蒼白な顔で、唇が震えている。魔獣はいらいらとした足取りで、ローズ嬢に鼻先を近づけていた。

 すると魔獣の鼻先に何か棒状のものが叩き付けられた。魔獣が一瞬ひるみ後ずさったその隙に、壇上に上がる人物がいた。――驚いたことに、それはイーグルだった。

 身軽な動作でイーグルはローズ嬢と魔獣の間に立ちふさがり、手にした棒で何やら構えをとったが、それがなんなのか、ライアは深く考えられなかった。エリカはどうしたのだろう?

 するとイーグルに触発されたのか、果敢にも壇上へ何人かの人間が上り、魔獣と対峙した。大声を出し、椅子を振りあげ威嚇したが、それは余計に魔獣の神経を逆なでしていた。

 魔獣が一層毛を逆立て身を丸めた時、ライアは思わず叫んだ。


「だめ、やめて!」


 すると、跳躍する寸前の所で魔獣が動きを止めた。それほど長い時間ではないが、跳躍しようとしていた姿勢のままぴたりと静止していた。そして誰もが身構えている中、魔獣は唐突に壇上の人々に背を向けた。目の前の獲物に興味を無くした魔獣は威嚇をやめ、むきだしにしていた牙を引っ込めてゆったりと、壇上から下りて歩みだした。ライアのいる方向へ。


(え?え?え?)


 ライアは魔獣の向かう先を知って、頭が真っ白になった。

 まわりの人々に目もくれず、先ほどの興奮はどこへ行ったのか。魔獣は落ち着いた足取りだった。魔獣が踏みだすごとに人の波が割れ、阻むものもないためライアのもとに着くのはあっという間だった。

 ライアはしびれたように、その場から身動きできなくなっていた。ライアに気づいたのだろう、壇上からイーグルが、こちらに向かおうとしてるのがわかった。


(魔獣なんて、魔獣なんてありえない。リヴァノーラには、魔物を拒絶する結界があるはず。そのはず……そう習ったのに……)


 考えることができたのも、これで最後だった。

 恐怖でざわめきも人々の姿も、白い靄の中に遠のいていった。見えるもの、聞こえるものは、目前の魔獣の姿とその呼吸だけであり、次第に自分のこともわからなくなった。

 何故ここに立っているのか。何故。何故?

 やがては恐怖さえも感じなくなり、ライアは、魔獣の瞳にこわばった表情の自分自身を見つけた。そして、声を聞いた。


 ――やってきた――みつけた――みつかった――とうとう――


 霧の向こうからささやいているような、たどたどしい声だった。木々の葉がこすれ、ざわざわとなる音に近く、その中からなんとかわかる言葉がそれだった。よく耳をすませば、まだ何か聞こえそうな気がした。

 無意識に、ライアが目の前の魔獣に手を伸ばしかけた時、明瞭な声がそれを遮った。



「ひれ伏せ!」



 途端、閃光が矢のように頭を突き抜けて、ライアはたまらず目を覆った。ぷつりと、細く繋がっていた糸が切れるような感覚があり、立っていられなくなるほどの目まいに襲われ、ライアはそのまま意識を手放した。


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