第二章――その名はエディリーヌ①――
『エレナへ
長らく留守にしていたが、近々帰るつもりだ。
しかしこの手紙が届くころに、私がまだそちらにいないようなら、
すまないが、君から二人に伝えてほしい。
それでは元気で。
アウレオルス・フィージィ』
たった一枚の半分もうまらない数行の言葉は、あまりにも簡素だった。アウルの人柄を知る者ならば、あいつならば仕方がないとため息を吐くところだが、シーナは違う。
働き者で世話好きの彼女には、アウルのような無愛想で無関心で無神経な人物が信じられない存在だった。ノアにも若干その気があり、手遅れになる前に矯正せねばと日々思っているくらいだ。
よってこのような手紙を送ることは、シーナに叱ってくれと言っているような物だった。
「あの大馬鹿者ときたら。書くべきことはもっと他にあるだろうに」
「いやまったくだ」
羊囲いから戻ったばかりのロブがそれに同意した。彼はまだ泥のついた野良着のまま、テーブルの向こうの妻と対峙していた。
「近々って一体全体、いつのことを言ってんだい。具体的な日時が書かれてやしない。おまけに元気でだって?エレナはとっくの昔に亡くなっちまってるよ、それを知りもしないで、あのとうへんぼく」
「いやまったくだ……」
ロブは、はちきれんばかりに額に青筋を浮かべるシーナを刺激しないよう、ひたすら彼女の言うことには、頷くことにつとめていた。内心はこっそりと、アウルに同情するところもあった。帰ってきたらきっと、張り手のひとつはもらうに違いない。
「しかし、良いことじゃないか。こうして帰ってくると報告してきたんだ。消印は二月も前だ。もう案外、近くまで来てるかもしれない」
「どうだかね」
楽天的な夫になびかず、シーナはふんと鼻を鳴らした。
「その二月も前ってのが気になるんだよ。手紙の内容もそうだけど、さっぱり急ごうっていう気が感じられない。まだあっちこっち、ふらふらしてるに決まってるんだ」
「けど、ほら、二人に伝えてほしいと書いてあるよ。あの子らのことだろう、これは。帰ってくると、伝えてほしいって意味さ。子供らのことを気にかけているし……」
「そんなの親なら当たり前のことだろう!そもそも妻も幼い子供もいるって言うのに、何年も家を留守にしておくのがおかしいんだよ。あいつが出て行った時、ライアもノアもまだ二桁にもなっていなかったって言うのに!あの、ろくでなしの流浪の民め!」
苛立ちの治まらないシーナを見て、ロブは姉弟たちがこの場にいなくて良かったと思った。
シーナの怒りは、ロブにだってわかる。アウルは正直、父親としてはふさわしくない男だ。姉弟に対してどんな感情を抱いていたのか、さっぱりわからない。
だが若いころの情熱が平坦な日常の中でくすぶり散っていくのを、やるせなくなる気持ちもわかるのだ。ロブにだって恐れ知らずだった昔の若さが、恋しくなることもある。
「まぁまぁシーナ、そのへんにしておけ。とりあえずいつ帰ってきてもいいように、アウルの部屋を掃除して、うまいもんでも用意して、待ちわびようじゃないか。ほら、お前の得意な苔桃こけもものケーキ、アウルの好物だ。作ってやればきっと喜ぶぞ」
「……あぁ」
返事をしたシーナの声は、ぞっとするほど低かった。背中に雪玉を放り込まれたような悪寒がロブの全身を駆け巡り、冷や汗がどっと噴き出した。
「唯一、あれがまともに感想を言った、あの苔桃ケーキね」
ロブはしまったと思ったが、もはや後の祭りだった。ゆっくりと立ち上がったシーナが、自分の倍以上に巨大な大女に見えた。
そして顔を真っ赤にしたシーナが、首をすくめる哀れな夫に怒りを爆発させた。
「――帰ってくるからって、なんで、このあたしが、あいつの好物を作ってやらなきゃならないんだよ!あんたときたら昔から、アウルの味方ばっかりして。そんなに喜ばせたいのなら、自分で作ればいいだろう。あんたと言い、あのろくでなしと言い、どいつもこいつも、人を馬鹿にするのも大概にしろ!」
ロス家から聞こえてきたシーナの怒鳴り声も気にとめないほど、ライアは上機嫌だった。それもこれも、今朝シーナから手渡された若草色のドレスのおかげだった。
彼女の若いころの物を繕い直した品なので、形は古いのかもしれないが気にはしなかった。お小遣いをもらったことも驚いたが思わぬ贈り物に、ライアは飛び上るほどびっくりしたし嬉しかった。
おしゃれしていこうとエリカと言い合っていたものの、実のところどうすればいいかわからなかったのだ。学校が一週間前に休みに入ってからは、相談のしようもなかった。
シーナに何か言ったわけではなかったが、彼女はせっかくのお祭りなのだからとドレスと靴の一式をライアに差し出したのだった。
ドレスを身にまとってみれば、喜びはさらに増した。少々すそが長く、油断すると引きずる気がしたが、歩くたびにふわりと膨らむスカートの感触は、今までにないものだった。
今日のために昨夜念入りに洗った髪も、毛先がはねすぎるということもなく、いつもより手触りが良い気がした。首筋にかかる毛先がくすぐったい。いつも肩のあたりで整えてきたが、伸ばしてみても良いかもしれない。
居間でくるくると歩き回っていると、同じように着替え終わったノアがやってきた。落ち着いた濃紺のベストに身を包んだノアは、意外にも晴れ着を着こなしていた。ライア同様、少々袖が長そうだったが、あまり気にはならなかった。いつもの仏頂面が、何やら大人びて見える。
これで髪を整えてあのまん丸の眼鏡さえどうにかなれば、完璧だろうとライアは思った。
「素敵じゃないノア」
ライアの賛辞に、ノアは肩をすくめた。
「今日一日のために、大げさなんじゃないの」
「今日だけとは限らないじゃない、お祭りは七日もあるんだから。こっち来て、髪整えてあげる」
「いいよ別に」
「だめ。ほら座って」
なかば引きずられる形で椅子に腰かけたノアだったが、座った後はおとなしく髪をとかされていた。ライアはブラシを動かしながら、密かに、ノアの髪に赤毛が混じっていないか探したが、憎らしいぐらいにとけるような琥珀色で統一されていた。
ライアの髪も昔はもう少し淡かったのだが、年々赤みが増していき、もはや琥珀色とは呼べなくなってしまった。
「赤毛も琥珀色の目も、お父さんとおそろいなのよ」と、エレナが笑っていたのを思い出す。
ライアとしては、エレナの収穫間際の麦畑を思わせる金髪や、良く晴れた空のように明るく青い瞳がうらやましかった。せめてノアのような髪色でいたかったものだ。
「あいつさ」
ノアがぽつりともらした。
「帰ってくるって、本当だと思う?」
今朝の手紙はすでに二人で読み終わっていた。あまりに短すぎて拍子抜けし、シーナのように二人とも怒れなかった。
「さあね。本当だとしても、手紙を出してからもう二月も経っているし。いつになることやら」
「言っとくけどぼくは、帰ってきてもいないものと思うし、父親扱いなんてしないから」
「わたしだって今さらそんな気になれないわ。お父さんがどんな人だったか、ほとんど覚えていないんだから」
「ライアってなんだかんだで甘いから」
ライアはノアの正面にまわり、ブラシを鼻先に突きつけて言った。
「あのね十年近くも我が子をほったらかしにするような親に、甘い顔するほど優しくないわよわたしは」
本気をこめて言ったのだが、ノアは信用の無い顔つきだった。
「そういう親だってこと、本当にわかってるよね?おばさんの嫌味を、鵜呑みにして真に受けるんじゃなく」
「ああもう、お父さんのこと考えるのやめよう!今は十年に一度のお祭りを楽しむの。ほら、眼鏡とって」
ライアの手が眼前にのびてきたため、ノアは慌てて眼鏡を押さえた。
「なに?よせよ」
「晴れ着には似合わないでしょう。そんなまん丸なの」
「そういう問題じゃない」
「そんなのかけてるから、ますます視力が落ちると思うの。たまには取って鍛えなさい」
「目が悪いから、眼鏡をかけるんだよ!ライアにはわからないだろうけど、これがないと、隣に並ぶ人間の顔すらぼやけるんだ。ぼくに一歩も動くなっての?」
椅子に座ったまま身をよじらせるノアに、ライアは追撃の手を休めず、抗議を聞く気もなかった。少々いじわるをしてやろうという気持ちが、わきあがったせいもあった。
「わたしが手を引いてあげるから、大丈夫だって」
「そんな情けない真似、できるわけないだろ。やめろってば――」
しかしじゃれあいもそこまでだった。ライアがドレスの裾を踏んでバランスを崩し、ノアと額どうしを思いきり打ちつけて怒鳴りあいになったためだ。
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