第一章――流浪祭①――

 四月の頃だった。リヴァノーラの最南端にあるラムド村で、早起きな雄鶏が鳴いていた。その鳴き声と言ったら、国中に朝のおとずれを告げようとしているかのようだった。東の空はまだ白み始めたばかりだというのに。

 けたたましいその声を、ほとんど間近で耳にする者がいた。

 ドライフラワーのつり下がった窓枠にある、木製のベッドと、ベッドの上の布団の間から、細い腕が無気力にたれている。一度起きようと試みて、あきらめてしまった手だった。

 だが隣人の所有する雄鶏が、夢の世界に戻るのを許しはしなかった。そもそも雄鶏と言うのは、朝が本格化すればするほどうるさくなるものだった。

 細腕がさっと布団の中にひっこみ、いもむしのようにもぞもぞとしだした。くぐもった声が布団の塊からもれた。


「わかってます、起きます…起きればいいんでしょう、起きれば……」


 もうひとしきり蠢いてから、とうとう布団がはねのけられた。

 白い寝間着に包まれた体を起こすのは、小柄な少女。こわばりをほぐすように、うんと、伸びをした。


「久しぶりによく寝たぁ~」


 そして伸び終えると、顎がはずれないのが不思議なほどの大あくびで、まだ重めな目蓋をこすった。


「でも、あともうちょっとだけ寝ていたかったかも……」


 ぼやきつつも少女はカーテンを引き、窓を開けた。室内の古い空気がハーブの香る新鮮な空気と取りかえられていく。

 窓の外に広がるのは四方を柵で囲まれた、小規模なハーブガーデン。少女、ライアの母が生前に切り盛りしていた、この家唯一の財産だった。

 ライアはしばらくの間、窓枠にもたれてガーデンを見つめた。朝食のお茶にするためのミントやレモングラスを朝摘みする母、エレナのまぼろしが見えてきそうだった。そんな気分になるのは、昨夜見た夢のせいだろうと思われた。


(懐かしい夢を見た…)


 内容は思い出せなかった。母が夢におとずれるのは、本当に久しぶりと言ってよかった。エレナが亡くなってからもう五年近くがたっており、彼女のいない悲しみはだいぶ薄れていた。

 朝から感傷的になるのは良くないと思い、ライアは両頬を軽くたたいて気を引きしめた。ラムド村にすむ者は、日の出から忙しくもたもたしてはいられない。

 ライアはまだ名残惜しいベッドからするりと降りて、ベッド脇に用意しておいた水差しで手早く顔を洗った。そして白と茶のエプロンドレスに着替え、その上からさらに、赤茶のベストを着こんだ。春とは言え、まだまだ肌寒い。日陰になる場所には未だに残雪が残っているのだ。最後に羊皮のブーツをはいて、小さな手鏡に顔を映した。

 おなじみの琥珀色の瞳が、ライア自身を見返していた。それで確かめながらライアはあちこちはねている、赤毛をてぐしで整えてから部屋を後にした。

 すぐ隣の部屋をノックしようか一瞬考えたが、結局何もせずに通りすぎることにした。部屋の住人はノックごときで起きやしない。どうせ昨日も日付が変わる直前まで起きていたに決まっている。

 細いうえに短すぎる廊下を抜けると、すぐに台所兼居間にたどりつく。その狭い居間のテーブルも通りすぎて、ライアは家の外へと出た。

 外はまだ日は昇りきっておらず、空気はまだ冷ややかだ。やかましく鳴く雄鶏は、太陽をせかしてるようでまぬけだった。

 すぐお隣のロス家にライアは向かった。ロス家は、麦や野菜を乗せるための荷馬車に小さな馬小屋、そして雄鶏の鳴く家畜小屋を備えている。すこし離れた所には羊の囲いも持っていた。

 よそ様の家のドアをノックせずに開けてしまえるのは、親しい間柄だからにほかならない。

 ロス家のつくりはラムド村特有の簡素さだ。ライアの家よりも居間が一回りほど広く、二階建てである程度の違いはあったがけして贅沢ではなかった。

 かまどの前でかがみこんでいるなじみの姿を見つけると、ライアはあいさつをした。


「おはよう、シーナおばさん」


 ロス家の奥方シーナは、どっしりと体格の良い体を起こして振り向いた。丸みのある血色のいい頬が、かまどの熱で暖められて赤く上気していた。


「ああ、おはようライア。もう少し寝ててもいいんだよ、試験続きだったろう」

「平気、ちょっと眠いけどね」


 世話好きの笑顔をむけてシーナは続けた。


「家畜の餌やりや水汲みはもうすませてしまって、あんたのやることはもうないよ。今日はゆっくりしてるだろうと思ってたしねぇ。ノアはまだ寝てるんだろう?」

「うん。昨日も遅くまで起きてたみたいだったから、ほっといてきた」

「早起きはライアを見習ってほしいね。勉強熱心なのは、良いことだとは思うけども。食事ができたら呼ぶからそれまでにライア、もうちょっと身なりを整えな。なんだいその頭、ブラシでとかしもしないで、みっともないったら」


 ライアはぎくりとして頭に手を伸ばした。整えたはずの毛先が、またはね始めていた。


「若い娘なら、もうちょっとそこらへん気を使うべきだよ。でないと良い人がつかまりゃしないんだから」

 はじまったと、ライアは思った。

「わたしまだ十五だよ、おばさん」

「もう十五だろ。一月前になったばっかりだからって、いつまでもぼやっとしてるんじゃないの。今のうちにきちんと将来の相手なら誰がいいか考えとかないと、いき送れちまうよ」

「はいはい」


 ライアは神妙さにかけた声で返事をした。ロス夫妻とはライアが生まれる前からの長いつきあいであり、ライア自身二人に対して身内のようにふるまうことができた。けれども男女関係のあれやこれやを説かれる時ばかりは、正直うんざりしてしまう。

 ひとしきり説教をされてから、やっとライアは解放された。


「とにかく、今はやることはないから家に戻ってな。なんなら頭でも洗っといで」


 そこまでひどくはないと、ライアはむくれた。しかし思わぬ休みに喜ばないわけではなく、いったん自宅に引き返すことにした。

 庭のハーブガーデンに、ライアは向かった。自宅を半分にしたくらいの土地に、隙間なく植えられたラベンダーやカモミールなど、もろもろのハーブが朝日を待ち焦がれながら風に揺れていた。

 ライアは迷いのない足取りで、ガーデンに踏み入った。ツンとした芳香を放つミントのもとにしゃがみ込み、その青々とした葉を茎ごと摘みだす。葉の裏にはかすかに霜が張っていた。頭をすっきりさせたかったので、今日はミントティーを淹れるつもりだった。

 朝のお茶の準備をするのは、エレナが病で倒れて以来ライアの習慣となっていた。食事を作ってくれるシーナはそれについて何も言及しなかったし、彼女の夫のロブは毎日おいしいと言ってくれる。

 ライアは時々、この二人の娘でないことが残念だった。エレナが母親でなければ良かったということではなく、両親のうちのもう片方に問題があるのだ。


(もう、八年目だ)


 いまいましくライアは考えた。この十年近い年月、それは子育てのほとんどを母とロス夫妻に任せて消えてしまったろくでなし――もとい、エレナの夫で、二人の子供の父親である人の不在をあらわす数字だった。



 すっかり朝がやってきた。餌をたらふくもらった雄鶏は満足して、うるさく鳴かなくなり、丈のまだ短い芝草や、木々の青々とした色、裸の岩山の荘厳な様があらわになった。

 ミントをお茶の分だけ摘み終えたライアが家に戻ると、台所のかまどでシーナが家から持ってきた朝食を暖めていた。ロス夫妻はエレナが亡くなってから、幼い姉弟を気にかけて一緒に朝食をとるようにしてくれている。

 ライアはポットに貯水桶から汲んだ水をいれて、もう一つのかまどに置いた。ミントはひとまず籠に置いておく。

 さて――この村の若者ならば、もういい加減起きるべき時間帯である。ライアはこの家唯一の壁掛け時計を睨むと意を決して、使い古したスキレットとこの家唯一の銀製スプーンを手に、寝室へと向かった。

 自分の寝室の更に奥。廊下の突き当たりのドアを開けると、とたんにむわっとインクのにおいが漏れ出した。

 この部屋はいつだってこもったインク臭に満ちており、カーテンは閉めきられて日がまったく差さず、陰気なことこのうえない。おまけに人が寝ているはずのベッドは、数冊の本を残してもぬけのからときている。

 ベッドの主はどこにいるかと言えば、ベッドわきの何冊も本の積み重ねられた勉強机に倒れこむようにして寝入っていた。

 眼鏡のずり落ちたあどけない寝顔を見てライアは、弟が目覚めたとき少しでもこの愛らしさが残っていますようにと、大陸の守護神である風の女神に祈った。


(限定の可愛さだけど…)


 そしてスプーンでスキレットを、盛大に打ち出した。


 ――カンカンカンカンカンカン!


「朝よーごはんよー起きなさーい!今日の朝ご飯はおばさん特製のくるみパンと、オニオンスープと、ふかしイモと、摘みたてミントティーよーさっさと起きなきゃ全部食べちゃうからー起きろ起きろ起きろ――!」


 雄鶏にも負けないほどやかましいライアの目覚ましに、ややあって弟は動きだし、蠅でもはらうような仕草をした。

 今だとばかりにライアは陰気なカーテンを思いきり引いた。勉強机は窓際にあるので、今や痛いほどとなった朝日が弟に燦々と降り注いだ。

 光を嫌う魔物の如く弟は苦しそうにうめき、手のひらで顔を覆い、こすりながら重い目蓋を押し上げた。姉と同じ琥珀色の瞳が今は剣呑な光を放って、すぐそばでスプーンとスキレットを構えてるライアを睨みつけた。


「おはよう。お目覚めいかが?ノア」

「最悪」


 可愛さのかけらもなくなったしかめつらと寝起きの低い声で、弟のノアは即答した。まったく、寝起きのノアは弟だとは思えない。目が同じ色なだけの、赤の他人な気がしてくる。ライアは風の女神に、この差はあんまりです、と心で訴えた。

 ノアは一度頭を起こしかけたが、すぐにまた机につっぷした。


「あと五分たったら起こして……」


 ばか言うなと、ライアはノアの頭をスプーンで叩いた。


「今何時だと思ってるの、朝ご飯できあがってるのに。おじさんももうすぐ羊囲いから帰ってくるんだから、起きて着替えなさい」


 ノアは叩かれた頭をさすりながら、うらめしそうにライアを見上げた。


「ぼく昨日は遅くまで起きてたんだけど……」

「だから今の今まで、起こさないでやったんでしょうが。朝起きれないほど、いつまでも本にかじりついてるのがいけないんでしょうが。自業自得よ、馬車に乗って学校に行きたいならとっとと起きる!」


 ラムド村には若者がほとんどいない。リヴァノーラ一の田舎村なのでほとんど皆大きな町に移り住む。ライアとノアも村を下りた先にある町、ネルサンの学校に通っている。移動は馬車。歩きで行くには、時間がかかりすぎるところだった。

 痛いところをつかれたノアは、やっとこさ椅子から体を起して不機嫌に言った。


「わかったよ……起きればいいんだろ起きれば……出てけよ、着替えるから」

「言われなくたって、そうします」


 つんとして部屋から出ると、大きな音でドアが閉められた。


「――かわいくない!」


 ドアを睨んで、ライアは悪態をついた。昔は何をするにもライアのあとをついて回ってたくせに、今やうっとうしがる始末だ。弟のくせにと、ライアは鼻息荒く台所に戻っていった。


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