第21話
苛立ちが目に見える形を取ると、何かないしは誰かが傷つけられる事になる。そしてそれは力の無い者に向きやすく、度を超えると生命の危機に繋がるものだ。
その夜、アグニ達が宿屋で襲われている頃。
「ええい! なんだあの態度は!? 大司教だぞ、国の高官であるのだぞ!! その私と同列? 対等? ……よくも、よくもこの私を、
足元には異種族女性の肉体が転がっていた。所々が赤黒く腫れ上がり、顔など見る影もない。大司教の手足を赤く染める血液が、その凄惨さを示していた。
「糞がぁ!!」
大司教の脂肪に覆われた醜い足が振り上げられる。もう呻くことすらない異種族の女の肉を何度も蹴りつける異様。その光景を壁際で怯えながら見つめる粗末な格好の異種族の他の女達は、眼をそらすことも、うつ向くことも許されておらず、ひきつった笑顔で涙を流し続ける。そして。
「次だ!! 動かず鳴かぬゴミでは満たされん!! 他の肉袋を引き摺ってこい!!!」
その言葉に結果を知る異種族の女達。動くのはシルバーブロンドの髪を撫で付けた初老の執事。厳めしく奥歯を噛み締めたような表情で主に一礼すると、壁際で待機する異種族の女達の前へと足を進める。その一歩一歩が彼女達の震えを大きくし、緊張を極限へと向かわせる。涙が溢れる。小便が漏れる。あまりの恐怖に顎が鳴るのを止められず、血管を収縮させるから体の末端など血の気がない。
そんな虜囚たる異種族の女達の前で足を止める執事は厳めしい顔付きのまま、中でも年長の者に尋ねる。
「生きましたか?」
「春の息吹を十と七。他の子達より三つも多く数えられ、大変嬉しく思っております」
真っ青な唇で。歯をガチガチと鳴らしながら。無様な笑顔を張り付けて。
それをじっと見つめる執事は厳めしく眉根を寄せて数瞬の合間を作った。
「では」
そして導くように半身で手を差し出す。
連れられる十歩もない距離の移動が彼女の足に重りをつける。地獄の底に通じる崖に向かって歩むように。
もどかしかった。
なにも出来ない自分が。
「遅いわ!!」
到着したとき。荒れた息を整える大司教は、用意された水をガボリと飲み干し、空になったグラスを女の顔に向かって投げつけた。狙いが誤って壁際まで飛んでいき、其処に居並ぶ幼い虜囚にぶつかる。
「チッ! 私のグラスを避けたのか!?」
「滅相もございません!」
「うるさい黙れっ! お前のような肉袋は自分から当たりに行くのがこの世の法だろうが!?」
「申し訳ございません!」
「笑いながら謝罪する奴が何処に居る!!」
そう言って女の髪を乱暴につかんで引き摺り倒すと、大司教は爪先を女の腹につき込んだ。
もちろん、私の前では笑い続けろと言ったのは大司教。だが、関係などあるはずもない。
汚ない言葉を浴びせ、踏んでは蹴り、蹴っては踏む。虜囚の女から漏れる謝罪の言葉と苦悶の喘ぎに欲望が満ちていく。笑みも浮かぶ。
「そうだ、これだ! 私は大司教である! あと一つ上へと昇れば国の頂点なのだ!! あのクソガキ、絶対に許さん。私は並ぶもの無い高みへと手を掛ける人間だ。あんな出生知らぬ貰い子と比べるべくもない、いと高き存在なのだ! はっはー! 分かるか、女ぁ! 分からぬだろうなぁ、お前のような穴袋には! 私の言葉が! 私の意思が! 私の偉大さがあ!!」
何度も蹴られ、何度も踏まれる女の体には赤黒い痣が浮かんでいく。そんな女の髪をつかんで唾飛ばすような距離でネチャリと笑う。
「影には殺してでも連れてこいと命じたが、ああ、もし微かにも生きていれば地獄を味あわせてやるというに……帝国の騎士を捕らえるのは骨がおれそうだが、その妻ならば易かろう。まあ、生きていなければクソガキの死体を送りつけてやっても面白いか? ええ、どうだ。面白いよな? 面白いと言わんかあ!!」
「ぁ……い。大司、教……さまの、言う……」
瞳孔の開きかたが両目で違う顔。鼻から口から粘度の高い血を垂らし。女は朦朧と答える。
大司教のヒキガエルに似た面がニタリと笑う──その直前で。
『火急! 火急のお伝えにございます!!』
部屋の扉の向こうから声が届いた。
慌てたような、ふためくような騒ぎ。
タイミングが大司教が愉悦に浸る半歩前であれば、舌打ちも漏れる。
「チッ……なんだと言うのだ。妖精でも連れてきたか?」
大司教は執事に視線を向けると顎をしゃくった。執事に開けられた扉から飛び込んでくるのは顔面を蒼白にした警備の一人。警備は抑えきれない体の震えもそのままに、所属する教えに習った敬礼の形を取る。両手を握り、左手を腹の前、右手を尻の上にあてがって、言う。
「お伝えいたします。魔族殿が帰還しました!」
「例の……? ああ、己が魔族だと宣った輩か」
大司教は興味もなさそうに鼻から息を抜いた。
「ふん、所詮は偽りを口にした凡百。今さら何をしに戻ってきたのか分からんが、見ての通り今は取り込み中だ。そもそも、この夜中に戻ってきて私に拝謁出来るなどおこがましいにも程が──」
其処で、場の空気が一変した。
押し潰さんばかりの圧力が大司教の言葉を縫い止めたかと思えば、扉の向こう、警備が背負う闇の中から伸びた巨腕が警備の男を鷲掴んだ。
『オレ様が、なんだって……?』
大司教のヒキガエルのような顔がひきつり、その眼前で警備が握り潰される。悲鳴が上がり、壁際に並んだ虜囚達が崩れ落ちる。
現れるのは山羊の面貌。筋張った筋肉が上半身を覆う女性の肉体。背には真黒い羽があり、不快や恐怖を無理矢理に煽るような巨体たる容姿には、所々に戦いの跡がある。
──魔族。
人の世を掌の上で転がして破滅していく様子で悦に入る側の、世界的上位存在。
それがいま、大司教と対面する。
『その目にせねば
「そ、そなたは……まさか己を魔族だと宣った、あのときの男か?!」
『……、ふん。形が違うだけで本質を捉えられない貴様ら下等生命に合わせてやるのは面倒だ。だから、このまま一つだけ尋ねる。正解を述べろ。──奴は何処に居る?』
高い天井に届く山羊の角。物理的に上から降ってくる問い。大司教は冷や汗垂らすひきつった表情のまま問い返した。
「や、やつ? 奴とは一体……?」
『文脈も追えんのか。貴様が何をなそうとして、そのために何を欲し、誰に協力を求めたのかなど貴様自身が一番分かっているだろうが。そうだろう、聖職者』
大司教は「うぐっ」と喉を鳴らすと眼球をぐるりと回して一拍。
「ち、近くの宿だ。この区画にはその一軒しか宿屋はない。すぐに分かろう……!」
『そうか』
言葉も短く反応する山羊面魔族は部屋を横断してバルコニーに繋がる窓から出ていこうとする。
「ま、待って欲しい!!」
引き留めるのは大司教だ。
「ど、どうするつもりだ?」
『どうする……? それを貴様に教えてやる必要はない』
「そ、それはこまるのだ。あの場には妖精がいる。我ら『黄金の稲穂』は妖精属を神の御使いとして敬う教えがあり、妖精をこちらに向かえたいという希望があるのだ。それに」
『それに、なんだという?』
「既にあの場には大司教であるこの私の私兵が向かい、作戦を実行している。そしてそれは直に完了するはずだ! なれば四半刻もかからず戻ってくる。今から向かってもすれ違うだけだ!」
『……ほう?』
山羊面は顔半分振り向かせ長方形の瞳を向けた。あまりに、全く、つまらなそうに。言った。
『早まったな。馬鹿が』
「へ……?」
直後だ。
轟と響く風切り音が遠くから伝わった。
山羊面魔族がバルコニーの向こう、糸のような月が浮かぶ闇に眼を凝らして、歯を剥き出す。
『そんなものを送ったら貴様の悪行が露見すると、考えなかったのか?』
そして、飛来する。
十数人の黒ずくめの暗殺者をロープで縛って一纏まりにしてから肩に担ぐ白髪の青年が。砲弾のように。小脇に身体を縮こめるナナと、頭に引っ付くマシン
ドッゴーンンンンンンウゥウンンッ! と。
着地した部屋の床に蜘蛛の巣状の
「駄目ですよ、一日も待てないなんて。我慢の出来ない男はモテないですからねぇ。大司教どぉの?」
そしていまここにクライマックスが始まろうとしていた。
何一つ盛り上りの無い、俺強系主人公の無双が数秒続いて終わりを告げる、あまりにも情けなく詰まらない物語の山場が。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます