第19話

 圧倒的。


 その言葉以外に彼を表す言葉が思い付かないくらいに、彼女にとってそれは救いだった。毎晩のように希い、一時たりとも頭の中から消えない望み。


 己の死。


 自殺することも叶わない自らの特性に苦しみ、首輪の形のコントローラーによって遣りたくもないことの強制が続いた五年間。


 ようやく望むことが達せられるかもしれない。


 彼女は嬉しかった。糸のような月が浮かぶ闇夜の暗がりで、尻に打ち付けられる吐き気を催す快楽の中にあっても、山羊の角を生やす男の生臭い息に頬を撫で回されても、彼女の希望が色褪せることはなかった。


「……ッ! くそっ、くそっ!! あのヒューマン族、魔族である俺様をなめ腐りやがって!!」


 当然、心地よさなど感じられる状態ではない。怖気おぞけが背筋を撫でるけれど。それでも。夢でも見ているようだった。


「──ッ。てめぇ、いま笑ったな?」


 山羊角の男は額に青筋を浮かべて組み敷く彼女を殴り付ける。


「そんなにおかしいか!? 魔族であるこのオレ様が人間一匹に殴られて!! 小汚ねぇ地面に這いつくばった事が!! あぁ!?」


 殴る拳に血液が散る。


「オレ様は魔族だぞっ! 生命体として格の違うオレ様を嗤うんじゃあねぇ!! この矮小な世界で泥水すすって生きてるような夜鳴鬼女ゴブリンがぁ!! 俺様に相手して貰えるだけで涙を流して感謝すべき存在だろうが!?」


 何度も何度も男は腕を振りあげ、その度に己をいきり立たせていく。そして疲れたのか、男はその五指を彼女の細い首へと巻き付けた。


「……ヘギュ!!」


 山羊角の男は彼女の悲鳴を聞くと満足そうに口角を吊り上げた。悲鳴あげるベッドの上で徐々に力を込めていく。


「そうだ、それだ。すがり付け、助けてくださいと懇願しろ。その目だよ! 舌を突き出して呼吸を求め、涙を流して生き汚く俺様を締め付けろ!! ハッハァー、良いぞ、いいぞ、イイゾッ! 無理矢理に犯され、命の狭間を垣間見ながら、何度も何度も痙攣する自分の浅ましさを噛み締めても繰り返される絶頂に、己がゴブリンであると思い知れ!!!」


 彼女の視界は火花が散るように明滅を繰り返していた。望む死がそこまで近付いている。けれどゴブリン故に、己の意思とは違う、進化の果てに手に入れた強烈な生存本能が生にしがみつかせる。その瞳が濡れて──次の瞬間。ビンッ! と幼い見た目の肉体が硬直し、両足が真っ直ぐに突っ張った。


 ガクガクと揺れる肉。吸い上げようと蠕動する度に意識が飛んでいく。その蠕動に釣られ、山羊角の男も大量の自分をぶちまけた。


 掻き回すようにぐるりと動き、最後に力強く押し付けると、ズル…….と引き抜く。


 いまだ痙攣収まらない彼女を見下ろして一息つくと、その右手で汗で濡れた彼女の髪を鷲掴んで痣だらけの顔を自分の鼻先に持ってくる。


「分かったろう? オレ様は強い。だろう?」

「……ぅ……ぁっ…………」

「そうだろう! そんな俺様が情けをくれてやったんだ。世界の底辺生命体であるゴブリンは俺様に感謝して、俺様の為に働かなけりゃあいけない。そうだな?」

「ぁ……ぃ……」

「なら、これから言うことを完璧にこなせるなぁ? 何故ならこれは、上位存在である俺様の命令なんだからなぁ」


 下卑た笑みを浮かべる山羊角の男は、光を写さない彼女の眼球をベロリと舐め上げた。その行為で水気の多い吐息を震わせる彼女の耳元に囁かれる指令。


 朦朧とした意識で告げられたその言葉は半ば聞き取れていなかったが、それでもその指令が彼女にとって希望であることは間違いなかった。


 ──あの男を殺せ。どんな手段を使ってでも。


 その一言さえ理解できれば問題ない。

 彼女は思う。


 ──あの人であれば私を殺してくれる。正義の神の鉄鎚を、糞尿にまみれた私の魂に打ち付けて破壊してくれる。やっと、やっと……ああ、これで私は……地獄に向かえる。私はきっと泣き叫ぶんだ。私はきっと許しを乞うんだ。けど、それでも。ああ、どうか、その手を止めないで。私を殺して。惨めに、惨たらしく、出来るだけ苦しませながら私を引き裂いて……どうか、どうか、……。


 

 手段を問わない。

 そう言われて、思い付く方法は千差万別だ。


 しかし、個人が思い付ける殺人の手法は、場の状況と、当人の能力によるところが大きい。


 その手にナイフを握っているのであれば、対象を『感電死させよう』と思考が行き着くことは少ないだろうし、目の前に崖があるなら『格闘技で決着をつけてやる』と遠回りな事などせず背中を押せば良い。


 逆に、自分の身体的特徴として腕力が少ないと分かっていれば、取っ組み合いは避けようとする。そして、進化の結果に手に入れた隠密能力が、俊敏性が己に備わっているのなら、その身体能力を活用しない手はないだろう。


 生き物を、とかく人間を殺そうとするとき、反撃や抵抗があるのは言わずもがな。もし圧倒的な力を持った相手を殺さなければいけないとなったとき、人は相手の隙をつこうとするはずだ。ならば、人がもっとも無防備になる瞬間は至極簡単だろう。


 故に、フードを目深に被る彼女は。


 闇夜を纏う。無音から削りだした靴を履き、秘密のささめきさえ静まり返る呼吸で口許を覆って、彼に近付く。


 立派な外観の宿屋。その最上階。

 幾重もの磨法結界があった。

 しかしそれは、全て事前に解かれていた。

 忍び込むのに何ら苦労はなかった。

 だらか彼女の眼前には寝具の膨らみがあるし、その膨らみに大きな刃を突き立てることも難しいことなんてなにもない。


 矛盾を抱え、矛盾に泣き、矛盾と生きる日々。


 ここで彼を起こし、起きたあとで刃を振りあげれば、彼は自己防衛として私を殺してくれるかもしれないと思うことはできる。


 でも、その行動を本能が否定する。

 生きたい! その為には成功させろ!!

 痛みを伴うほどの叫び声が頭の中で反響する。

 殺してほしい。けど死にたくない。


 どこかの少女が言う「好きなのに素直になれない!」などという矛盾を遥かに凌駕する、根源的思考解離が彼女を突き動かす。


 目の前には自分を殺してくれるかもしれない人が、願望を叶えてくれる力を持った彼が眠っている。──なのに、手には鈍く輝く大きな刃。


 力はいらない。刃の重さをずしりと両腕に感じながら振り上げて、己の小さな身体の全てを傾けて抱き付くように、振り下ろせばいい。


 しかしそのとき。

 ──あ、れ……?


 幾度も幾度も繰り返してきた行為の前で。

 ──なんで……?


 涙が溢れた。


 泣いている場合ではない。戸惑っている場合ではない。苦しくなっている場合ではない。


 もう五年の間だ。枯れ果てるまで、そんな感情は、そんな涙は、流し尽くして切り捨ててきた。


 子と笑う母を。真っ直ぐな青年を。知恵ある老人を。数すら忘れるほどに殺してきた。なのに。


 ──どうして……っ!


 小さい体、幼い容姿。肉体に見合わぬ大きな刃が、カタと震える。


 それが、合図だった。


 春の風が花びらをのせて頬を撫でるような柔らかさで──ぎゅっ、と。抱き締められていた。



 アグニの大きな手でフードの上から頭を撫でられ、震える体を暖めるように優しく。


「──ッ!!」


 あまりに不意。

 あまりに唐突。


 警戒心が服を着て歩くような夜鳴鬼女ゴブリンである彼女が、振り上げた刃を動かす合間も与えられずに。思考が白く弾けた。


 糸のような月が僅かに照らす室内に上ずった声が響く。


「え、えっと……ぎゅって、しないでくだ、さい……頭も、なで、なで、しないで……?」

「だめです」


「で、でも、離してくれないと、殺せない、です。殺せないと、ヒドイことされちゃうから……」

「余計にだめです」


「それに、こ、こま、っちゃうから……」

「困るの?」

「だって……」


 彼女は薄い薄い月明かりのなか、震える唇を懸命に押さえつける。


「あったかくて、やわらかくて……胸の真ん中が痛いんです……痛いのは悲しくて、悲しいのは、涙が、いっぱい、いっぱい……出ちゃう、から。すごく、すごく……困るんです……!」


 アグニはたどたどしく語られる彼女の言葉に一つ一つ言葉を返しながら頭をなで続けた。


「そっか。困っちゃうか」

「だから……その……」

「でも、だめです」

「ふぇ……」

「泣いても許しません。イイコイイコです!」


 そう言ってアグニは、彼女を抱き締めて、その頭をなで続ける。振り上げられたままだった大きな刃は自身を紅く染めることを忘れ、所在なさげにその手から離れるとベッドの上に転がった。


 糸のような月が浮かぶ夜。しばらく部屋に漏れるすすり泣く声。ベッドに座った格好のアグニはそれからしばらくして、抱き締める腕を彼女のフードへと動かすと、顔隠すフードを退けるのだった。


「二度目まして、。俺はアグニ。これからよろしくね」


 小さな手を握り、濡れそぼつ目を見つめて。ピョコンと尖る耳が震えるのを止めるように。


 笑う。


 幼い頃、父に母に、贈られた暖かくて柔らかいものを、今度は自分が目の前の少女に渡せるように。


「──って! いつまでやってるつもりよ!?」


 頭の上の暴れん坊妖精ニーポちゃんがアグニの頭皮をポコポコしだした。


「痛いよ、ニーポ」

「うっさい! 痛いわけあるかぁ!!」

「まあ正直、将来の脱毛予防に最適な強度」

「マッサージ器扱いだとぅ!?」


 ニーポのポコポコ──略してニーポコがさらに激しくなった。


「妬かないでニーポ。ニーポのこと忘れてなんかいないから。ちゃんと守るから」

「~~ッ!」


 闇夜のベールに隠された宿屋の部屋で、何故かニーポのポコポコは極限まで激しくなった。


 閑話休題。


「で、どうするの?」

 ニーポがアグニの頭の上から尋ねる。部屋に明かりは灯さない。どうせ、宿屋の周りを敵は取り囲んでいる。なら、中の様子を伝えてやる必要もない。


 アグニはと呼んだ女の子の首に嵌まった似合わないゴツイ首輪を何の気なしに引きちぎると、手を握り直し、瞳を見つめて言った。


「どうしたい?」

「え……?」

「ナナが決めたいでしょ?」

「えと、あ、あの……」


 ナナは戸惑った。さっきからこの男の言っていることが何一つ理解できない。自分は殺しに来た暗殺者で、男はターゲット。なのに、この状況はなんだ? 現状で暗殺は失敗していて、ターゲットは自分の手を握っている。抱き締められて、頭を撫でられ、『大丈夫。任せて』と声までかけられている。把握は出来ても理解ができない。しかも『どうしたい?』と委ねられている。今まで他人から自分の願いを問われたことなんて無い。命令されたことを泣きながら、這いつくばりながら実行してきただけで、自分の意思を尊重されたことなんて無い。だから。


「わかり、ません……私は、あなたを、あ、アグニさんを、殺せって、い、言われたから……」

「うん。じゃあ、殺す?」

「え、でも、困るって……」

「そうだね、困るね」

「なら、えっと……えっと……」


 ナナは赤く腫れた目を泳がせた。慌てた。戸惑った。いつまでも待たせていれば痛いことをされるかもしれないと思った。だって、いつもそうだ。ぐずぐずしていれば叩かれ、殴られ、それ以上のこともされてきた。


 でも──。

「ナナがを言えば良いよ。ひとつのことを除いて、言うこと何でもしてあげるよ?」


 目の前にいる白髪の男は今までの人間と違った。怒らない。急かさない。手を優しく繋いだまま、こちらの目を見つめてくる。──この人は他の人と何かが違うのかもしれない、とそう感じた。だから俯く。結び付く。この五年間で延々と願っていた事柄が達せられるかもしれない。この人なら私を


 本当なら口に出すのだって怖かった。

 他の種族より圧倒的な生存本能が爆音でアラートを鳴らしていた。


 けどこの瞬間を逃したらもう二度と私は殺される機会を与えられないかもしれない。正義の神であっても殺せない自分は、永遠に罪を重ねることしか出来ないかもしれない。決心するにはこの場しかない。だから。


 知らず、手に力が籠る。

 自分の中にある砂塵の一粒にも満たない勇気を探しだして、ナナは俯いたまま告げる。


「な、なら、えと……えと……私を……っ」


 それでも詰まる。言葉が震えて、涙がいっぱい、溢れる。


 それでも告げる。言葉という形の無いものを作り上げる。だってこれがきっと最後のチャンスだから。


「わ、わたし……私を、殺してくだ──」


 その、瞬間。

 アグニはナナの手を今より強く握り締めた。


「言い忘れてたけど──俺はナナを生かすよ。ナナをいじめる奴なんて近寄らせない。ナナが死ぬときは、ナナがお婆ちゃんにって、子供や孫たちに囲まれて、『ああ、幸せだった』って心から思えた時だけだ。それまで、ナナがそう思うことが出来るようになるまで、俺がナナの側にいる。俺がナナを絶対に殺させない。誰からも。自分からも、殺させてやるもんか。ナナは、幸せになって良いんだ。自分を、諦めなくて良いんだ。今まで悪いことをたくさんしてきたのかもしれない。たくさん、人を殺したのかもしれない。優しい気持ちを裏切ってきたのかもしれない。それは痛くて大きくて冷たい荷物だよね。それが抱えきれないくらい大きな荷物だって、俺も知ってる──でも!! それはナナがしたくてした訳じゃないって聞いたから! それを無理矢理させてきた奴を知ってるから!! ……だから、それだけは聞けないよ、ナナ。ナナが、どんなにそれを願っても、俺がその願いを打ち砕く。誰かがそれを望んでも、俺がそれを否定する。これから先、ナナに必要なのは笑顔だけだ。心を引っ掻くような涙なんて一滴たりとも流させない。体が凍える寂しさなんて忘れるくらい、世界には『温かい』があるって伝えていくから。だから、ナナのを教えて?」


「……ッ!」

 だから、なのだ。


 その言葉が深い深い記憶の底に鮮明さの欠片もない映像として残る誰かの笑顔と重なったのは。


 涙の筋が美しい笑顔。生まれて初めて向けられるあたたかさ。空気に幸せしか溶けていない、無条件で贈られた保護の眼差し。


 反論なんて浮かばなかった。

 否定なんて浮かばなかった。


 見つめる先に映る涙が誰を思って流れているのかが伝われば、真実を覆い隠す諦めの奥から、怖がりな本音は顔を出す。


「……す……、……ぇ……?」

「もう一回、言って」

「た、っ…………てぇ……」

「もっと、大きく」


 俯くナナのボロボロで、痛々しくて、それでいて精一杯の激情が放たれる!


「お願い、助けてぇ!!」


 それが

 だから。


「大丈夫。任せて!!」


 糸のような月が照らす部屋のなか。

 今にも陰りそうな明かりの下で、力強い笑顔が向けられた。

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