第15話
高い場所から落ちて背中を強かに打ち付ける。と、慣性の力が肺を押し潰して、中の空気を無理矢理吐き出させる。それと同時に、襲いかかる強い衝撃は横隔膜を痙攣させて、一時的に呼吸を難しくさせる。
頭と下半身が山羊で、上半身はムキムキオッパイで、背中にコウモリの羽が生えていても、それが両手足を揃えた人型生物であれば、生体構造は大きく違ったものにはならない。
だから、十キロほど先にすっ飛んでいった魔族は少なくとも呼吸困難で地面を這いつくばっているか、運が良ければ気を失っている。いや、そうでなければ生物学的に考えておかしいのだ。が。
「って、考えるのがそもそもの間違いだよねぇ。何処で得た知識なのか分からないけど俺の頭にあるこの知識、役に立つようで役に立たない……確かに逆も言えるけど、今回は役立たずのほうに一票かなあ」
蹴り飛ばした魔族を追ったアグニがその先で眼にしたものは、呼吸困難で身動き取れない姿でも、気を失っている姿でもなく、赤黒いオーラを垂れ流すように纏う山羊面魔族の姿だった。
『くくく……やってくれたなぁ、人間風情が! 魔族であるオレ様を本気にさせたなぁ!』
「本気にさせたとかスッゴいやられ役っぽいからやめたほうがいいよ、マジで」
「そうよそうよ、リアル山羊フェイス! あんたなんかアグニに蹴っ飛ばされたヨワヨワ魔族じゃない!」
と、アグニに続いて胸元から頭だけだして威嚇するニーポ。
魔族はその巨体からギロリと二人を見下ろす。
『ほう……このオレ様をおちょくっているのか、妖精族。それとも頭が小さすぎて容量が足りない愚か者なのか? まあ、どちらにしてもそこの人間はここで死ぬしかないのだ。本気を出したオレ様に挽き肉のように潰されてなぁ!!』
「ふ、ふん! アグニがあんたなんかに負けるはずないじゃない!」
『言い忘れていたが──本気を出したオレ様のマリョクは53万だ……そう、本気を出せば恒星さえ握りつぶせるほどの
「なん、だと……!?」
その瞬間、驚愕がアグニを貫いた。あまりの驚きに膝がゲラゲラ笑い出してしまう。それを見た魔族は愉快げに口角を持ち上げた。
『ヌァハハハッ! ビビりおったな、人間! 矮小な
「ああ、思い知った……」
「えぇ!? なに言っちゃってんのアグニッ!」
「だって、考えても見てよニーポちゃん。恒星を握り潰しちゃえるんだよ!? 恒星って言ったらこの星の何十倍、いいや何百倍もでっかくて、他の惑星一つくらい簡単に飲み込んじゃうくらいのエネルギー量を持った超絶スンンンゴイ星なんですよ!? それをニギニギしちゃえるって言うんだもん、そりゃあ思い知っちゃうよ!!」
「嘘にきまってんでしょ!?」
「えっ、嘘なの!!?!」
『嘘のわけあるかあ!!』
山羊面は突っ込んだ。どうやらペースが乱れたようだ。山羊面は仕切り直すように赤黒いオーラを垂れ流す。橋を渡って生態系が変化したのか、石と砂と岩石が転がる荒野の空気が一段と重たくなった。真黒い雲が空を覆い、真昼にも関わらず夜のような暗さが包む。
『……まあ、信じなくともよい。これからその身が理解することになる。オレ様に楯突いた事の愚かしさを後悔の中で知り、恐怖と共に死んで行くのだからなぁ!!』
「アグニに蹴られてたくせに(ボソ」
「言わないであげようニーポ。可哀想だよ(ボソ」
『聞こえとるわ、愚か者!!』
山羊面は平らな歯をギリギリと歯噛みした。けれど急に雰囲気を変えると、不敵に口角を持ち上げて中空を浮かび上がった。背中のコウモリの様な羽を羽ばたくこともせずに。
『──もういい。もう死ね。オレ様が赦す……。空間ごと引き裂かれ、臓腑を撒き散らす間もなく潰れて消えろ!』
磨法の行使に詠唱など必要ない。世界の理解と想像力を磨法陣という結合回路を用いて具象・顕現させる、この世界に根付いた技術体系の一つ。
だが、そこにあったのは【言葉の羅列】だった。
大股で歩いて三十歩ほどの距離を開けて、山羊面は中空に浮かびながら【言葉】を紡ぐ。言語として使用されていない【言葉】は耳にする者の心を粟立たせる。
その言葉に顔をひきつらせたのは、ミニマム
「ややや、やばいわよあれぇ!! 完全なまほうじゃない!?」
「まほうって普通じゃない?」
「ああ、ちっがうわよ!? まほうはまほうでも悪魔だとか魔神だとか、あっちの魔法なの!!」
「へぇ……で、何がヤババババババババハムートなの?」
「どこぞの世界を作り上げた神竜を引き合いに出してる場合じゃないってーのよ!?」
ニーポは今まさに発動されそうな魔法を見上げながら。
「いい? この世界の磨法っていうのは完成された世界の理論を、創造性を持った生物が想像力で変容させるものなの。世界を生物と規定すれば、物理領域に固定された遺伝子配列を変更するのが『磨法』なの」
「ならニーポが言う魔法は、世界そのものを生み出すものだとか言いたいの?」
「その通りよ……って、なんで分かるの!?」
「頭の中にそんな感じの情報がある。カラフルな表紙絵の軽い物語郡。『異世界転生したら炎竜王だったので無双してみた件』とかいう書物だった気がする。読んだことないけど、内容はそんなようなことが出来る主人公のお話だった記憶だけがある」
「アグニって変な知識もってるわよね……」
そんな説明台詞が繰り広げられている間も山羊面の詠唱は続いていた。辺りは一気にひりついた空気に変わり、強い酸性の霧に包まれているような感覚。詠唱が繋がるほど山羊面の周囲には幾何学的紋様が描き出されていく。
「おー、すんごい強そうだなぁ。派手だし」
「そうねぇ、派手ねぇ……とか!? 言ってる場合じゃないの!! あれがどんな魔法なのかは分からないけど、この辺り一帯を吹き飛ばすくらい余裕で──」
「──ならさ」
その瞬間。
アグニの体内から磨力が噴き出した。
「あれが完成する前にやっつけよう」
言い終わるのが早かったか。残像すら掻き消える速度で大地を蹴ったアグニは山羊面との距離を瞬きの間で詰めると、その脳天をズドンッ!! と蹴り下ろした。砲弾のように地面にめり込んで動かなくなる山羊面。中空に描き出された紋様が薄くなって消えていく。
何の事なく危機を脱したアグニは、山羊面に両手を合わせた。
「俺強系、なんのドラマも、ありはしない──アグニ、心の一句」
アグニは胸の内で何処で聞いたかも分からない経の一説を唱え、ふと見ればニーポが変だった。
「なん、だと……!?」
「どうしたのニーポちゃん。部活もので、新入りの実力を計りきれなくて信じられないものを見た時の現エースみたいな顔して。その顔、劇画みたいで台無しだよ? ある意味それも可愛いけど」
「ある意味とか!?」
「或いはスピリチュアル的必殺技が力業にねじ伏せられた敵側の驚愕顔」
「表現としてはそっちのが正しいけどあたしは敵じゃないからそれはやめて!」
ため息に似た何かを体から抜いて、ニーポは眼を向ける。地面にめり込んだ山羊面は
「本当に、アグニってトンデモ性能よね」
「いやいや、トンデモない」
「あんた……」
「……ごめん」
閑話休題。
「で、アグニ。どうするの?」
「どうする、って……あたくし的には放っておきたいざますけど」
「まあ、そうねぇ……」
巨体で山羊面でモンスター的不気味ボイスではあるけれど、生き物を殺すのは抵抗がある。いつもの通り道で毎回吠えてくる野良犬を一度蹴りつける程度なら出来るアホウもいるかもしれないが、それが完全に絶命するまで蹴り続け、踏みつけられるクレイジー野郎はそうはいない。もしいたのなら近付かない事をお勧めする。
だから、放っておきたい。
でも。
「このまま放って置いて、また追い駆けられても面倒なのよね」
「追い駆けてこないって確証があるわけでもないし、もし追い駆けられて次の町で暴れられても大変なんだよなぁ──いや、またやっつけられるけどね?」
「疑ってなんていないから念押しなんてしなくて平気よ。アグニって認証欲求強い子なの?」
「ぼ、僕なんて、どど、どうせなにやってもダメだから……」
「はぁ……どうしてここで自己否定系男子になるのよ。冗談は後にして。今度頭を撫でてあげるから」
「本当に!? わーい!!」
アグニの胸元から抜け出して空中浮かぶニーポは、フィーンと甲高いモーターのような音を響かせてアグニの肩に座った。
周囲には何もない。
目に留まるのは砂と石と岩。それらが強めに吹く風を、まるで唯一存在するものとして強調する。
その、はずだった。
「……ッ!!!」
それは感覚。全周から向けられる姿のない視線。動物や魔物のものではない明確な害意が、荒涼とする場を埋め尽くす。
「ニーポ、服の中に入るんだ……」
静かな言葉には張り詰めた緊張が満ちていた。
「え、どうしたのアグニ?」
「囲まれてるみたい」
小さな体がぴくんと動き、頬がひきつる。無意識にさ迷う眼のなかにはなにも映らない。
「だから、隠れて。相手は一人や二人じゃない。もしかしたら、ニーポを追ってる帝国の機関かもしれない。見えない相手に俺も何処までやれるか分からないから早く……!」
全周から注がれる殺意に、アグニも全周へと警戒を向ける。アグニは慌てたように首元から服の中に入ってくるニーポを感じながら注意を怠らない。
──これ、まさか軍用磨法の【
アグニは帝国国立図書館で読み漁った知識で当たりをつけて苦く笑った。自分の事を棚にあげてる感がすごいけど関係なんてない。
敵の包囲がじわりと狭まっていく事を感覚で知りながら、思考を巡らせる。
──何処まで囲まれてる? 相手はおそらくマギ研っていうニーポを追ってる奴らだ。もしかしたら軍人も居るかもしれない。……人数や範囲が分かれば逃げ出すことは出来ると思うけど、見えない相手にそれは不味いよな。偶然フルスイングしていた剣の前に突っ込んでいったら、身体と頭がサヨナラバイバイしたっておかしくないし、それがたまたまニーポの目の前だったら羽虫みたいにプチッと潰れる可能性だってある。それはダメだ!
飲み込まれる息。急に流れる汗。何処か選ぶ言葉に危機感がないのは育ての親の二人が危機感のない夫婦だからだが、アグニは言葉からでは分からない恐怖を感じていた。
アグニが魔族を一蹴できる能力を持っていても、魔物や魔族とは違う人間との争いに、過去が疼く。
と、そのとき。
「アグニ、アグニ!」
アグニの首元から頭を出すニーポが小声になりながらプルプルしていた。
「とっとと逃げちゃいましょうよ! アグニのトンデモ
「トンデモ
「え、なに? きゅうに弱気。気弱アグニン爆誕なの? こんなときに勘弁しなさいよ!」
「急じゃないやい。元々人間なんて大嫌いだい」
「家族大好きっ子の癖になにいっちゃってんの!? 家族だって人間でしょ?! あ……って事は、いまあたしたちを囲んでるの人間なの?」
そこに思い至ってニーポは鼻までアグニの服に潜り込む。相手が人間なら、その正体にも思考は追い付く。
「ま、まさか、マギ研……?」
「まあ、相手は帝国の
「それってヤバイの……?」
「ああ、今のところちょーやばい。この状況で相手の戦力が分からないとなると……」
「わからない、となると……?」
ゴクリ、とニーポの喉が鳴った。あの魔族さえ一瞬でポコパンして見せたアグニが冷や汗を流していることに、心臓が早鐘を打つ。
「……ねえ、ニーポ。話を聞いても自分の命を諦めないって……俺がもしやられても、飛んで逃げるって、約束してくれる? もしやられそうになっても、ニーポが逃げる時間だけは絶対に稼いで見せるから……!」
「アグニ……ッ。そう、そんなに不味い状況なのね……けど、あたしはッッ──!!!」
「このままじゃあ1.24%の確率でニーポは叩きつぶれた虫みたいにプチっとされちゃうかもしれなんだ! 1.24%の高確率でプチっと!!!」
「そんな確率でプチられてたまるかあ!!」
ニーポはアグニの顎下に向かって頭突きを見舞った。
「痛いよニーポ」
「うっさい! クライマックス感滲ませてなによその確率! 全然平気じゃないのよ!!」
「いやいや、1.24%って案外当たるらしいよ? 1/350の乱数抽選でも一回目で当選する可能性って結構あるんだよ!! って、顔すらしらない記憶のなかの知人が言ってるし」
「どうしてここで銀玉中毒者みたいにジャンバリなこと言ってんのよ!? それは錯覚だって教えてあげなさいよ!! はぁ……そもそも何処からその確率を弾き出したのよ。あたしみたいに計算機ついてるわけでもないのに」
「フッ! 確率の計算なんて経験値から算出できるんだぜ、baby!」
アグニはニーポにひっぱたかれた。
そして、そうしている間にも事態は動く。
周囲から向けられる姿のない殺意は包囲を狭めていた。荒野に吹く風は砂塵を巻き上げて身体を打ち、空を覆う真黒い雲の間には雷光が走る。そのなかで響くのは軍靴の音だ。
いまさっき渡ってきた橋の方向から
アグニは目に映らない敵はもちろん、進むはずの道と引き返せない道に現れた兵士達に注意を向けながら口角をひきつらせる。
「この状況──聖法貴国と、その国内国家である
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