第14話
落下。
それは翼のない生物にとって死に直結しかねない現象だ。蟻ほどに小さい個体は別としても、落下は生物に多かれ少なかれダメージを与える出来事であり、その距離が長くなればなるほど
であれば、地面の崩壊によってヘルズネクト大渓谷に呑まれた人達は生き残ることが出来るだろうか? 底さえ見えないこの場所で。まあ、様々な要因が重なれば一人二人生き残りがいる可能性はあるが、一つ二つの幸運があっても即死を免れるだけだ(それを幸運と呼んで良いのか分からないが)。
でも。
そんな危機的状況で、アグニ君は。
「よし、これで全員!」
全ての人たちを救い上げていた。
爽やかな笑顔で額の汗をぬぐい、崩れてしまっているモスニビ大橋の手前に最後の老人をそっと下ろしながら満足そうに白い歯を光らせる。辺りには気を失って昏倒している人達がゴロゴロ転がっているが、誰一人として死んでない。怪我くらいあるかもしれないが、崖に落ち込んだ人間の脳漿は、潰れたトマトのように谷底を汚しちゃいないのである!
「やれば出来るって本当だったね」
あははは! と笑うアグニ。
だが、目の前で繰り広げられた奇跡体験でアンビリーバボーなことに──そんなわけないでしょ!? あり得ないのよ、物理法則的に! とか考えるのはマシン
「そんなだからWeb小説系俺ツエェはダメなのよ! 前後の雰囲気とか、心理描写とか、もっと大事にしなさいよ!? なんなのバカなのそれ美味しいの!?! アグニみたいなチートが溢れてるから衰退していくのよ、若い連中の国語力とか読解力とか、ノベル業界とか!! もう、本当にいい加減にしてぇ!!!」
ニーポはアグニの頭の上で全身を産まれたばかりの小鹿のようにプルプルさせながら泣きわめいていた。
「だいたい、あの谷がどのくらいの深さなのかなんて知らないけど、どうやったらフリーフォールしていく人間を助けられるの!? アグニだって落ちてたじゃない! しかもあの数よ!? さらに一緒に落ちた馬まで担ぐってもう変態の域だってーのよ!! あんた、異世界転移物のチート魔術師なの!?」
「あ、それ知ってる。読んだことないけど記憶のなかに情報だけある」
「言葉の意味すら分かんないわよ、もーっ!!」
ポカスカ妖精ニーポちゃんに変貌してアグニの頭を叩く150ミリのプリティー。
実のところで言うなら、地面の崩壊のタイミングでニーポはアグニから離れることはできた。だって彼女はフライング
だが、ニーポの焦りや、無意識の保護欲なんてこれっぽっちも必要なかった。
だってそこはアグニ君。体内に蓄えられた宇宙だって開闢出来ちゃうくらいの磨力量と、世界を跨ぐ想像力&知識量で、瞬間的ではあるものの空気を足場に空中をものすごいスピードで跳ね回ることなんてお茶の子サイサイなのである。
そんなアグニ君の頭の上で暴れていたニーポはポカスカに疲れたのか、大きな溜め息を吐いた。
「……あんた、ほんとーにどうかしてるのね。人は単身で空を飛べないって常識すら覆して、何十人の人を助けられるんだから」
「いや、飛んでないよ。空気を蹴ってるだけ。服や靴に仕込んである磨法も使ってるから単身でもないし」
「そうか、君が間抜けか」
「ひどい」
「ひどいのはアグニよ。頭にあたしがいるって知ってて、あの速度での移動とか。それに……はあ、謙遜なのかなんなのか分からないけど、飛んだようなものなのよ。原理はちょっと違うだろうけど、鳥だって羽ばたくことで空気を叩いて、自分を浮かばせる気流を作ってるんだし。翼も広げず、羽ばたくこともなかったら鳥だって飛べない。アグニの磨法がどんな科学原理を利用して、どんなイメージを産み出してるかは知らないけど、結局、自力で空中を移動してるなら、それは飛行なの。飛んでるの。文芸的表現として大空を駆けるとか言っても良いけど、『それ、飛行ですから』って心の片隅でつっこんでいいことなの」
「……そっか、おれったら空飛ぶ男なのか。水没する前に水面を蹴ったら溺れない的な感覚で空気蹴ってたよ」
「マジそれで空中移動とか物理全般に頭下げる事案発生よ?」
「申し訳ありませんでした」
アグニは誰に対してなのか頭をペコリと下げたのだった。
閑話休題。
崩落に巻き込まれたはずの人間が全員無事にモスニビ大橋手前の崩落していない部分へと救出された現実に、その場は、パニック状態になっても良いのかすら分からず混乱していた。大橋を利用しようと次々に顔を見せる人達も、橋をすでに利用し渡っていた人達も、崩落という現象と救出という現実に、自分は今何をしたら良いのか分からなくなっている状況。
そんななかで、アグニはボンサック型バッグを肩に担ぐとニーポに言った。
「さぁて、急ごうかニーポ」
「アグニはやけにノーマルね。こんな状況なのに。変態なの? カッコツケマンなの?」
「やめて、変態のレッテルを張らないで。格好をつけてもないから。──まあ、確かにこの状況で普通に動き出したら注目されるし、下手したらこの事故と何か関係があるのかって疑われちゃうのは分かるんだけどさ」
「けど、なによ?」
アグニは視線を投げる。方向は大渓谷。崩れた先の、見えない谷底。どんよりとした黒い雲の下で、谷底を覆う真白い霧が不気味に蠢いている光景を視界に収めて。
「もう、来るから」
「来るって……何が?」
戸惑う様な声の揺れかただった。ニーポの心にさっきまでとは違うざわつきが生まれる。
けれどアグニは──「……」
口を引き結び、頭のニーポを無遠慮に鷲掴みすると、肩に担いだボンサックではなく、襟から服の中へと落とし込んだ。『え、ちょ、待って! そういうプレイなの!?』とか言って空気を読まない桃色思考な妖精など意識から追い出す。そして、全身の衣服や装飾品に施されている磨法陣の起動と操作を開始した。
──全身摩擦耐性上昇。筋力向上。重力及び速度による身体機能低下の極度緩和。神経系、循環系の保護。一切の身体ダメージを装飾品へと空間転換……っよし!
準備を終えて、アグニは一気に駆け出した。助けて転がされている人々を避け、モスニビ大橋の崩れた通りを
その瞬間──ヘルズネクト大渓谷の底から魔族が現れた。白く淀んだ霧を纏った魔族は昨日見た時のような人間の姿ではなく、角のある山羊の頭と下半身、上半身は筋肉質だが乳房のある人間のもので、背には黒いコウモリの羽を生やす巨大な化け物。一言に換言するなら、悪魔の様相。それが、雄叫びを上げて追って来る。
お互いに、磨法の効力で通常では出せない速度を叩き出しながらの追い駆けっこが始まる。
──ヤバイヤバイヤバイヤバイ、ちょー怖い! なにあれキモいちょーリアル!! 山羊の目だけで結構クルっていうのに巨大化してるし、歯とか剥き出しにして涎とか垂らして叫び声モンスターとかもうハンパない! しかもあの姿でオッパイついてるとかアンバランス過ぎて吐きそうなんだけど!?
高速で走り抜ける橋の上は利用客や馬車の列が障害物として次々に現れ、走りにくいことこの上無い。表情を恐怖に歪めるアグニは磨法の力も使った大音声で叫び続ける。
「魔族だ! みんな、地面に伏せろ!!」
だが声を聞いて咄嗟に身を屈めることの出来る人など半数もいない。魔族の叫びが届いてやっとその不気味さに振り向き、山羊面の巨体を目にしてようやく悲鳴を上げて尻餅をつく程度。
アグニは人や馬車の間を縫うように走りながら舌打ちをした。
──やっぱり、剣戟や磨法武器の派手な光と音じゃなきゃ信じられないか。魔族なんて言われたって実物を見るのはこれがはじめてだろうし!
現状で幸運なのは、追ってくる山羊面が他の人間を襲っていないことくらい。それでも何が起こるか分からないからアグニは途中途中で「魔族だ伏せろ」と叫びなから、大渓谷にかかる大きな橋を爆走していく。
服の内側をよじ登って襟から顔を出すニーポは、移動速度の相対的な突風のなかで文句を言う。
「ねぇ、ちょっと! 後ろのあれ、昨日の魔族よね!? なんでさっきみたいな瞬間移動じみたスピード出さないのよ!」
「逃げきろうと思えば出来ないことじゃないけどね! もしここで後ろのあれが俺を見失ったらこの場の人達がどうなるか分かんないじゃん?! いやだよ、後で橋の利用者が全員死んでいましただの行方不明になりましただのってニュース聞くのそんな寝覚めが悪すぎるもの!!」
「フェイクニュースよ! プロパガンダよ! っていうか、あたしは逃げたいの! あんなオッパイ付き山羊マスクに追い駆けられたくないのよ! だってほらちょー怖いじゃない!!」
「おしっこ漏れちゃう?」
「この状況から抜け出せるならおしっこだって漏らすわよ!!」
「でもダメ~。桃髪
「サディストなの!?」
「俺がサディスト……? こらこら、こんなのでSだなんて、本場の人に怒られる、ぞ?」
「本場とか知らないし興味もないわよぉ!」
アグニの鎖骨から向こうを覗けば山羊面が「BuMeeeeeeeeeee!」と馬のように嘶きながらコウモリの様な黒い羽ばたかせて来る。草食性の歯を剥き出して涎を撒き散らしながら襲いかかってくる
『ちょこまかと煩わしい!!』
人の声ではない複重した男女とも獣ともとれる言葉が苛立ちをもって放たれた。大きく開かれた口の前に古く濁った紫色の磨力が渦を巻く。
「ア、アバ、アババババババ!! なんかスッゴいの来るけど?!!! 磨力量ヤバイんですけどぉ!?!! アグニィ、アグニィィ!!!」
「ッッッ!」
高速度で逃げ回るアグニは馬車を避ける合間に後ろを確認して顔をひきつらせる。
──ってぇぇ! ニーポの言うとおりなんかすんごいのくるんですけどぉ! あれは不味くない? 不味いよね!? 周りの人達どころか橋ごと崩壊する超絶不味いレベルだよね!!
ちぃっ! と舌打ちしてアグニは思考を切り替えた。人が居ない場所まで自分を囮にして誘導する予定を、空飛ぶ山羊面を人の居ない場所まで移動させなきゃと方針を改める。もちろん手段は、力尽くだ。
「暴発なんてしてくれるなよ……!?」
アグニは方向を転換し、大口開ける山羊面の顎下に向かって一気に跳躍。そのまま蹴りあげた。
「!?!!??!!?!?」
ガチバギンッと噛み合わされた歯が砕ける音と一緒に、その巨体が空高く吹き飛ぶ。追い掛けてきた慣性を塗り潰す撃力が山羊面の目を白黒させる。
けれど其処で終わらない。
「その図体で落ちてきたらそれはそれで大変だから、ナッ!!」
アグニはニーポにも理屈の分からない磨法を使った。空気を蹴って真上に吹き飛んだ山羊面を追い掛けて、未だ見えない橋の終わりに向けてさらに一撃を見舞う。蹴られた背中から激しい音が鳴り響くが、蹴られた山羊面に気にしていられる余裕などなく超速で吹き飛んでいった。
そして──「あとは……っと!」
着地する前に空中に残ったままの磨力の塊を掴み取って、ヘルズネクト大渓谷へと投げ入れる。本来であれば磨力の供給と維持をする行使者が居なくなれば霧散するものだから放って置いても良かったけれど、何故かその場にとどまり続けていたから念のため後片付けするアグニくん。
──もしかしたら魔族と
着地して、一呼吸。再びアグニは橋を駆ける。向けられる周囲の目にはどう映ったのか、考えたくもなかった。そもそも何が起こったのか理解していなくても、圧倒的な暴力は目にするだけで恐ろしいとアグニは知っている。
──勇者様が巨大なドラゴンを退治して姫に惚れられるなんて、あれ、どう考えても無意識の脅迫だから! 実際はこんな風に嫌な眼を向けられるだけですから!!
アグニは皮肉げに口角を片方だけ持ち上げると、吹き飛んでいった魔族を追うため、さらに速度をあげた。他の人間には気付けないアグニの表情に、ニーポだけが気が付いた。
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