第13話
それがいつ書かれたものか分からない。
ちぎられた紙切れにはこうあった。
『ありがとう。ごめんなさい』
文字は汚く、読むのに苦労した。
まるで、初めて言葉を書いたようなその置き手紙には、
宿屋の部屋のなか、それをじっと見るアグニとニーポは、暫くして閉ざされた口を開いた。
「ニーポ、これってどんな意味かな?」
「……知らないわよ。ありがとうって書いてあるんだから昨日のことでしょ。助けたんだし。ごめんなさいは、助けてもらったのに急に居なくなってるこの状況にたいしてじゃないの?」
「じゃあ、このニーポのヨダレみたいな跡は?」
「こんなメモみたいな置き手紙、あたしはヨダレを垂らしながら書かないわよ!」
「ならさ、この跡ってなんだと思う?」
アグニは濡れて乾いたのだろう紙切れの跡を指でなぞった。ニーポはアグニの肩の上からそれを見る。
「知らないって、言ってるじゃない。暑かったんじゃないの? それで汗が垂れたとか。もしかしたら風邪気味で洟が……」
「──俺は、涙なんじゃないかって思う」
言葉を被せたのは、ニーポが答えを出したくなさそうだったから。
「……」
けれど、違う。
ニーポは答えを出したくなかったのではない。明確に、答えを隠したかったのだ。フードの奥に隠れた真実を知っているから。数日前、馬車で眼にした事実があるから。アグニと彼女を引き離したかったのである。
でないと、きっと。
──アグニは辛い思いをする。
昨日聞いたアグニの過去が全てでないことは分かる。その過去を乗り越え、乗り越えさせた何かが、アグニにあることも伝わっている。その愛情がどれだけ大きなものだったのか知らずとも。
──けど、それで過去がなくなるなんてない。過去が今のアグニを形作っていることは確かだし、それをあたしは見てる。オークジャイアントもワイバーンも、昨日の魔族の時も、あたしや誰かを助けるために行動して、人混みに酔っちゃうくらい緊張しいのくせに誰かの不幸には敏感で。数日、たったそれだけ一緒にいたくらいの付き合いなのに……ああ、もう! だってアグニは、きっとあの子がどんな状況にいるか、考えただけで助けに行くって、遠くでワイバーンに襲われてた冒険者達を助けたあの時みたいに『助ける』って、言い出すに決まってるし!!
くおぅ! と煩悶するミニマム妖精ニーポちゃん。アグニの肩でパタパタ足を動かす。何か良い説明はないかと考えた結果、こんなことを言ってみちゃう。
「そうよ! ほら、あのあさぎ色フード付きローブったら、とっても良い子だったのよ! だから別れを伝えられないままこの置き手紙を残すことが忍びなかったの!」
「えー、申し訳ないなぁって思って涙が出ちゃったってこと?」
「そう! それ以外に考えられないもの! 昨日は助けてくれてありがとー、でも伝えるのが置き手紙になっちゃってごめんなさーい(てへぺろ)、って感じよたぶん!!」
「なにその遊びなれた感駄々漏れのビ○チ言語。涙流すタイプに思えない」
「洒落よ! 本気にすんな!! ──だから、ほら。さっさと行くわよ。朝から動かなきゃモスニビ大橋を渡りきれないかもしれないし」
ニーポはそう言って肩から離れると、置き手紙をさっさと畳んでアグニの荷物の中に突っ込んだ。なにか言いたそうな眼には気が付いていても、これが最善と信じて。
さて、宿を後にして南区画にある商業区まで足を伸ばせば、磨法で動く木馬が馬車を引いて走っていた。木馬に、磨力を込めた磨鉱石と磨法陣を備え付け、一定時間自動で街の要所を巡るように造られた自動人形の類いである。アグニ達はそんな
なに一つ行く手を遮るものはなかった。モンスターの襲撃も、昨日の魔族の仕返しも、なにもない。ニーポが逃げていると言うマギ研という磨法研究派閥にすれば、話のなかにだけでしか登場していない。それでニーポを疑うことはないけれど、思考の隅に存在感を隠していくマギ研より、
だから、順調に進む馬車といえば昼頃にはモスニビ大橋の近くにいた。偶然にも乗り込んだ馬車の乗客はアグニとニーポだけで、他愛のない会話を御者のおっちゃんも巻き込んで繰り広げながら進んでいく。
けれど、そのなかで。
アグニとニーポの会話にいつもの勢いがない。御者のおっちゃんからすればずいぶんうるさい客だと思われたかもしれないくらいにいつも通りだったけれど、当人達の間に蟠る僅かなずれ込みは確かにあった。
何よりも、だ。
アグニは
アグニの優先すべきは、ニーポだ。ニーポを守り、
しかし、それを言うなら。アグニはあの女の子だって魔族から助けてしまっている。一様は、ニーポを守ったら序でに女の子も守れていた、が正確なところではあるけれど、事実としてアグニが守って、その後の出来事から逃がしてもいる。なら、その責任は自分が背負うものなのではないかと、アグニは考えているのだ。
──それに……。
アグニが気にしていることは、それだけではない。昨日、
だから会話がズレる。御者のおっちゃんには分からない程度の些細なズレでも、アグニとニーポは自分の笑顔に、自分の笑い声に、いつもとの違いを感じてしまう。
本当に良かったのか、と。
アグニは勿論、結論を出したニーポも小さなズレに戸惑いが滲んでいた──。
「お客さん、橋が見えましたよ」
御者のおっちゃんがそう言うと、アグニ達はそれぞれ眼を向けた。視線の先にはあまりにも立派な渓谷橋。その瞬間、二人とも息を飲んで仰天し、御者のおっちゃんは二人の様子にカッカと笑って見せる。
「ね、大きいでしょ? 国外から来た人達はみんなモスニビ大橋を眼にするとだまちゃうんだ。それくらい驚く大きさと全長なんだから仕方もないけどね。実際、定期馬車の御者を始めて十年になるあっしからみてもね、まだまだ畏怖の念ってやつは忘れられないんだから。あの橋は人が造ったもののなかでも素晴らしいものなんだよねぇ」
おっちゃんはまたカッカと笑った。
「ヘルズネクト大渓谷に架かるモスニビ大橋は、この国の首都である
「地下迷宮っていうと、つまりはダンジョンってことっすか?」
「そう、あんちゃんの言う通りだ。向こうに着いたら下を覗き込んでみると良い。一千年前に起きたとされる大厄災によって大地が割け、魔物が湧くように這い出てきたらしい地下迷宮──『
「へぇ、そんなに素晴らしい景色なのね。良かったじゃない、アグニ。世界漫遊し始めてすぐに忘れられない景色がみられるなんて」
「そうだね、ニーポ。楽しみだ」
「……」
「……」
「ただね、お客さん。これだけは忘れないでちょうだいよ?」
御者のおっちゃんは二人の微妙な空気には気づかず話を進めた。何の演出か声のトーンをぐっと低くしたしゃべり方で、幾分ゆっくりと口を開く。
「橋の上から覗き込んでいると、たまにこの世のものじゃない何かが見えることがあるそうだ。それは
御者のおっちゃんが話を締め括った時にちょうどモスニビ大橋入り口に到着した。アグニの頭の上でニーポの表情がひきつっていたことをアグニは気づかない。
馬の足を止め、御者のおっちゃんはシテヤッタゼ感満点のいやらしい目付きで口角を持ち上げると、なにもなかったように決まり文句をアグニ達に言うのだった。
「本日は
突然のカラクリ人形じみた応対に少し背筋がゾワとするのは先程の妙な話が原因だろうか。アグニは急なおっちゃんの変化に上手くついていくことが出来ず、「どもっす……」と一言置いて足早に馬車から降りた。馬の横を通るときヒヒンと
閑話休題。
モスニビ大橋は大きい。長さも長けりゃ幅も広く、馬車が三台並んで通れるほど。周囲には何もなく、ただ広い平原に急に現れるようにそれはある。近くによって見てみれば、ヘルズネクト大渓谷に架けられた橋だと分かるが、ここに谷があると知らなければ、遠くからも見えるこれが何であるのか分からない巨大建造物だ。
「しかし、ニーポちゃん……やっぱりと言うか、ここもヒューマンばっかりなんだねぇ。
「アグニはバカなの? それとも人酔いした青白い顔を心配させまいとする明後日方向的心遣いなの? それとも単純に変態なの?」
ニーポはアグニの頭の上で呆れたため息を吐き出しながら、ぺしと
「前も言った通り、ここにはヒューマンしかいないわ。……いいえ、ヒューマン以外が表立って行動するには、飼い主が必要なの。この国ではね」
「奴隷ってこと?」
「Exactly.勿論、獣人だろうがヒューマンだろうがあたしから見れば有機生命体以外の何者でもないけど、
あんたみたいな猫耳愛好家も少なからずいるけれどねと補足しつつ、
「もしこんな場所に
「愛護の対象かぁ。そういえばそんなこと叫んでた人、
「そんな強者の理論が罷り通ってる国で、ヒューマン以外が大手を振って歩くなんて、出来ると思う?」
「……そっかぁ。ツマンナイナァ」
アグニはガッカリしつつも、辺りを眺める。充分な幅を取って遠くまで架け渡される渓谷橋に、ヘルズネクトから吹き上げられる強い風。谷に転がり落ちないよう石造りの柵が谷の際に、それより豪奢な手すりが橋を彩っている。牙を剥き出す魔物の形相を象ったレリーフが意匠を凝らして刻み込んであるのは、魔除けなのか。
──あれが魔除けなのだとして、敵意を剥き出しにする魔物の像が、同じ魔物に効果があるとは思えない。勝手なイメージだけど、威嚇に反応して逃げてくれるなら魔物なんて呼ばれてないと思うし。
生態学的に考えれば確かに一般動物と大きな差異を持った生き物ではあるが、生物学的に考えると呼吸、摂食、排泄、繁殖、睡眠は勿論、解剖してみれば骨格、体液循環、筋組織や臓器類と他の生物とあまり違いはない。なのに、魔物という呼ばれかた。そこには生き物としてではない、存在レベルの違いがあるのかもしれない──とか、いつか読んだ本の受け売りのようなことをぼうとしながら考えるアグニ君。頭の上のニーポもやはり人の流れを眺めつつ、ぼうとする。
だから、というにはあまりに無理があるけれど、多くの人の歩く姿を眺める二人はどちらともなく口を開いた。
「ねぇ、ニーポ。気を使ってくれてありがとう」
「ねぇ、アグニ。変な空気にしてごめんなさい」
ほとんど同時に発せられたそれはちょうどきれいに重なりあって、二つの音を打ち消しあった。谷からの吹き上げる風に二人の前髪がなぶられる程度の間が空いて、アグニから踏み出す。
「ニーポが急いだ理由って、あの子がヒューマンじゃなかったから……だよね? それも、少し特別なタイプの」
「……知ってたんだ」
「知ってたっていうより、思い出した。フードの影に隠れた瞳の色が珍しくて、そういえば昔に書庫で見た本にあんな色の眼をした亜人種が載っていたなって。──
「ヨナキメ。戦死者が山と転がる戦場で、夜になると姿を現して鳴き声をあげる種族。女性個体しか存在しない珍しい種で、その個体の特異性から他の人形種族に玩具として扱われてきた哀れな異人種……ほら、アグニは言っていたじゃない。命で遊ぶ奴は嫌いだって。だから、一緒にいさせちゃダメだって思ったのよ」
「昨日、俺の過去とか聞いてるし余計にそう思ったんだ?」
「そうよ! まあ、あの子は被害者の方だからワイバーンの時みたいに怒るってことはないでしょうけど、一緒にいたら色んなこと思い出しちゃうかもしれないじゃない! ……それに、ほら。あの子の飼い主って、あの子を襲ってた魔族でしょ?」
「あの二人、
ニーポはアグニの白髪の上で溜め息を吐く。
「さんざん言ってきた通り、ここ
そこで、アグニはピンと来た。何故ここでそれを察したのか分からないが、人の流れを眺めながらアグニは何の気なしにこう言った。
「そっか。ニーポは、俺があの女の子の事情を知ったら放って置かれるって思ったんだ?」
「な……ッ!」
瞬間、ニーポの動きが固まった。
「まあ、今までの行動を見てればそう思うのは仕方ないかもだけど、俺はニーポを放ってどっかに行くなんてないよ。わざわざニーポが危ない目に遭うかもしれないし所に行こうとも思わないし。何度だっていうけど、俺はニーポを守るよ」
「ちょっ、ま! 違u……~~ッッッ!!」
「なんなら、指切りする?」
そう言って立てた小指を頭の上のニーポに差し出すアグニは、それをクイクイと誘うように動かした。文字通り頭上にいるニーポはなんとも言えない表情で顔を真っ赤に染めて、プルプルと肩を震わせる。
と、そのとき。
「!!!!!!」
突然。
その場の空気が変わった。谷底から突き上げる突風が地獄に満ちる怨嗟のような轟音と共に気流を乱す。瞬く間に曇天が広がり、眼が届く範囲にいる全ての人間が、アグニ達を見つめて動かなくなる。
「え……なに、これ?」
ニーポが漏らす言葉。隈無く向けられる視線の矢は威力を持っているように二人の皮膚をざわつかせ、アグニは一歩、構えるように腰を落としていた。
「ニーポ、バッグのなかに入って……」
飲み込まれる息。無理矢理押し出されるように額から汗が流れ落ちる。ニーポはアグニの言葉に従えるだけの余裕がない。
そして近づく、圧倒的嫌悪感。
ゾワッ!! っと。
眺めていた人々など知り合いでなければ敵でもない。にも拘らず、強制的に敵意を引きずり出されていく様な気色の悪い感情の変化が自分自身を粟立たせていく。そのなかで、内蔵を引っ掻き回すような悪寒を伴う咆哮が轟いた。
「BuMeeeeeeeeeeeeeey!!!!!!」
直後、地面が崩れる。地に這う稲光のような亀裂が大きく走って、モスニビ大橋付近一帯がヘルズネクト大渓谷へと滑り落ちた。
そのなかには、アグニとニーポの姿も在った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます