第9話
結局のところ洗礼は受けた。いくら十字架が異色的嫌悪感を催すとしても、教義に妖精を敬うとあるのなら、それを疑うより信じてみる方がいくらか建設的だからだ。『疑うって何も生まないから、もし騙されてもまずはやってみたらいいんじゃない?』と言ったアグニの言葉も背中を押した。何より。
「万一、騙されてニーポが困ったことになっても、絶対俺が助けるよ。──大丈夫、任せて!」
なんて笑顔で言われたら、ミニマム妖精ニーポちゃんの小さな胸に収まりきらない乙女心もキュンキュンしちゃう。
──ああ、もう。好感度メーターが上がっちゃうじゃない! とかなんとか考えちゃうのも仕方がないのである。
さて。洗礼の証を受け取って、『いやー、妖精とは珍しい! しかもその妖精が我々の神の洗礼を受けたいと申し出てくださるなんて、私の人生のなかでこれほど幸運な日は他にありませんぞ!』と興奮冷めやらぬ(派手な衣装が目に痛い)牧師に別れを告げたあと、アグニ達は村をまわった。特産品やら出店やらを見て、触って、時には食して堪能し、明日の乗り合い馬車のチケットを購入して、宿屋に入る。時刻的には宵の口。村の蹄鉄屋が自前の窯の火を落とす頃。二人は夕食の為に、二階建て宿屋の一階にある食堂で、料理を待っていた。
「でも美味しかったわよねぇ」
「えっと……ああ、あのお店?」
二人とも先に運ばれてきた飲み物のストローの先を咥えて、ちょっとだけ呆けていた(ニーポサイズのストローやグラスがあるのはどうしてなのか、アグニには分からない)。
「そう。昼間行った、ほら……注文の多い……」
「注文のない化け猫店」
「そう、それ。美味しかったわよねぇ」
「あれは……本当に美味しかった。俺が食べたヤツで特に旨かったのは白身魚のムニエル。しっかりとした魚の身なのに、口のなかでホロホロとほぐれて……(ごくりんちょ)」
「あたしはアレね。花の蜜を複数種類合わせて作ったみたいなソースのパンケーキ。木の実や果物もちゃんとソースに合わせて選ばれていて。ああ、思い出しただけで……(ごくりんちょ)」
と言っても、この二人。美味しい料理を思い出しているから呆けているわけではない。今日一日、思い返してみればハードだったから今さら疲れが出ているだけだ。アグニにすればとても大切な叔父夫婦との別れから磨法の多用とモンスターの討伐がほぼ連続して起きているし、ニーポにしたらなにもしていないように見えて実は皇帝国の一大派閥から逃げてきたという消耗甚だしい状況だったのだ。それに。アグニの磨力量は宇宙を開闢したところでまだ余るんじゃないかというくらい有り余っているが、磨法は想像力──いわば精神力を使う。筋肉の運動にカロリーを使うように、磨法を使うには磨力以外にも必要なものが多い。故に、気を張っていた昼間を過ぎた今、二人は口に咥えたストローをそのままに呆けているのである。
そんなとき、だ。
「なんだあんたら、あの店に出会えたのか」
背後から急に声をかけられた。気が抜けてる最中に声をかけられたもんだからアグニは椅子からひっくり返りそうになり、ニーポは飲み物を吸い込んで噎せかえった。別にコミュ障と言うわけではないが、人の声に少しばっかり怒りを覚える二人である。
「おお、ごめんよ。そんなに驚くなんてね」
振り向いた先にいたのは大きなおばさんだった。両手の香ばしい匂いが立ち上る料理皿をテーブルに広げて、豪快に笑う。
「ちょうど耳に入った話があの店のことだったから、ついね」
「やっぱり、有名なんですか、あの店」
「有名かって、この村じゃ知らないヤツなんかいやしないさ。なんだ、この村は初めてかい?」
「ええ、今日着いたばかりです」
「へぇ! 初めてで早速かい。そりゃ、白髪の
「何がしこたまの幸運よ! あんたのせいで死にそうだったわよ!?」
「はっは、そりゃすまなかったねぇ!」
おばちゃんはやっぱり豪快に笑う。ニーポは悟った。このおばちゃんには何を言っても仕方ないタイプだ、と。だから、あきれたように話を進める。
「で、どう言うことよ。幸運って」
「なに、その通りの意味だよ。あの店は神出鬼没なのさ。今日姿を見せたからって、明日も同じ場所で店を開いてるなんてないんだ」
言われてアグニとニーポは顔を見合わせた。いまいち話を飲み込めない。屋台ならいざ知らず、今日入った店は門構えもしっかりした場所だった。神出鬼没なんて不思議でしかない。
大きなおばさんは大きく笑う。
「はははっ! 初めてのお客さんだったら分からないのは仕方ないね。なぁに、もし明日起きても気になるなら見に行ってみるといいさ。肝を抜かすことになる」
あっはっはー。大きなおばさんは大きな笑い声を上げて戻っていった。アグニとニーポは互いに顔を見合わせた。もし気になったら、なんて言われたってもう二人の心のなかは決まっている。
「ちょーモヤるから見に行こうか」
「ちょーモヤるから見に行くわよ」
そう言って、二人ともうなずき合うのだった。
その後。二人のまわりには何人かの人間が集まってきた。化け猫の店に以前入ったことがある連中や、羨む連中が話をしに来たり聞きに来たり。男女問わずあんな料理が出た、こんな料理が出たと自慢したり、いつか俺も行ってやるぜと息巻いてみたりする酔いの回った客達に囲まれて、騒がしいやら喧しいやら。楽しくないわけではない。が、今の体力的に言えば少し勘弁してほしいこと請け合いで、だから部屋に戻ったときには
「やっと眠れる……」
「そうね……あ、アグニ。ランプ、よろしく」
「えぇ……ニーポ消してよ。飛べるんだし」
「いやよ。もう動きたくないもの」
「俺だって。そうだよ」
「それに、光石型じゃなくてオイルランプなんて前時代的なものでしょ? あたし、近付くだけで熱いのはイヤ」
「ニーポのケチ」
「アグニのわからず屋」
ぷふー、と一緒に息を吐き出すアグニとニーポ。互いにとろんとした視線でにらみ合って、しかし。どちらともなく目蓋が下がる。
「ああ……ムリ。ちょー眠い」
「あたしも……ねぇ、アグニ」
「ん?」
「一緒のベッドだからって……エッチなこと、ダメだからね……?」
「しないよ。ニーポ」
「ふぅん。それ、あたしが小さいからっていう理由じゃあないで……」
「ニーポ」
「な、なによ……?」
「俺、ニーポを嫌なことから守るから……絶対、守るから……」
アグニは灯りも落とさないベッドの上でのっそりと腕を持ち上げて、ニーポの小さな頭を指先で撫でた。ニーポの目蓋が驚いたように持ち上がるが、すぐに重さを思い出してとろけてしまう。
「……ふん。へんなの」
「へんかな?」
「へんよ」
「そっ、か……へん……かぁ……」
意識を保っていられたのはそこまでだった。ポスっと落ちるアグニの手。ニーポはゴツゴツしたその手を見やると少し距離を詰めて、アグニの指に手を伸ばす。
「ほんと、へんなヤツ……」
そしてニーポも意識から手を放す。今までの逃走の日々と比べたら心地よい暗闇が体を包み込むようで、一気に眠りのなかへと旅立てたのだった。
──その夜。
村の人間が寝静まり、外出している人間が誰一人いなくなった時間。
ねっとりとした闇が動いた。
沼から溢れた障気が地を這うように、気付いた時には足元を濡らす暗い海のように、それは音もなく、けれど着実に迫る。
メミゴタバという村。
一つの宿屋。
見上げる闇纏う影は、
「……正義の神よ」
「……正義の神よ」
宿屋に下ろされた錠を外し、煙が如く入っていく。下調べは済んでいる。ターゲットの眠る客室の前で、今よりさらに息を潜めて己が存在を薄めていき、もうこのまま暗闇に溶けて消えてしまえるのではないかと思うほどに、それは自分を小さく小さくまとめていく。
「……正義の神よ」
磨法は使わない。匂いにすら気を配らなければ成功率の落ちる寝込みの暗殺に、発動に際して光が漏れる磨法は害でしかない。
ドアを開けると少し空気が変わった。オイルランプの芯が不完全燃焼した臭い。鼻につく。ランプを消さずに眠ったのかと思うこともなく、スルリと忍び込む闇は床の軋み一つ鳴らさずにベッドに近づくと、上掛けも掛けずに眠るアグニと、その横でアグニの左手にしがみつくように眠っているニーポを見下ろした。
「……正義の神よ」
一言呟き、持ち上がっていくナイフ。欠けた光でも月は濡れたような輝きを
だから、躊躇なんてない。
右手で柄を、左手で
手慣れた動作。狙うは首。脛椎を刺し潰すように体重を掛けて、闇は一気にナイフを振り下ろす。
──直前、眼が開く。
アグニは慣れない暗さのなかで闇を見据えた。振り下ろされるナイフを弾き飛ばし、眠っているニーポを掴むと、ベッドの横にある窓を突き破って地上へと飛び降りた。そして叫ぶ。
「夜盗だ、殺されるぞ! 備えろ!!」
アグニの
臨戦態勢を解かず胸元からニーポを服の内側へ落とし込み、磨力を身体強化にまわして、飛び降りてきた壊れた窓を中心に警戒する。
──いきなりこれか。世の中どうなってんだ。
しかし、数分の時が経っても襲撃犯は姿を現さなかった。先に周囲の家や宿屋の明かりがついて、男衆がそれぞれ武器になりそうなものを手に集まってくる。
結局、この襲撃がなんだったのか分からないまま、壊れた窓と、部屋の壁に突き刺さった状態のナイフだけが取り残された。
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