第3話

 ジーグフルード・カルパトス。


 それが、15年前に磨力の暴走を引き起こしたアグニを、強く抱き締めた男の名前である。


 伯父だと明かしたその男はアグニをそのまま自分が暮らす帝都に連れ帰り、一緒に住むことになった。


 アグニは始め、言葉を失っていた。イタズラ小僧だった頃の面影など何処にもなく、少年という年頃に似合わない白い髪とやつれた頬、落ち窪んだ眼窩からは一見して老人のようでもあった。


 そんな彼を懸命に慈しんでくれたのが伯父であり、その妻──メリッサ・カルパトスだった。


 その頃のアグニは、突然奇声をあげることもしばしば。今まで自分で行えていた排泄も満足に出来ず、赤と茶と黒があまりにも目立つ悲惨な絵をそれはもう乱暴に描きなぐり、たまに外に連れ出してもらっても、露出の多い服装の女性や品の無い男衆のがさつな笑い声を聞くとひきつけを起こして、酷いときには小便を漏らして嘔吐してしまっていた。


 それは何かの切っ掛けで治るというものではない。アグニという人間を一から作り直すよう、酷い現実に握り潰された心をもう一度育て上げるように、年単位の気の遠くなる時間を共に生活して、愛情を注ぎ続けなければならない。犬や猫を一匹育て上げるだけでも億劫になる時があるのに、人を一人育て上げるのは、それも気を狂わされてしまった少年をとなれば、半端な覚悟で成し遂げられはしない。


 けれど、夫妻はそれを成した。


 戦災孤児となった少年。頭の狂った子供。そんな周囲からの奇異の眼は少なからずあった。伯父の家が騎士階級にあり、それを腕一本で掴み取ってきた元商家の次男坊であれば、やっかみも大きかった。


 それでも──。

 アグニは立派に育てられた。


 騎士である伯父からは戦うための武力と、世を渡っていくための知識を。伯母からは他人を慈しむ心と家庭の技術を──受け継ぎ、繋げて。


「──そして、御二人には大きな愛を貰いました!」


 アグニは帝都の外れで15年間共に暮らした二人に大きく頭を下げていた。


「本当に、行ってしまうの?」


 寂しげに言うのは伯母であるメリッサだ。


「帝都でもやりたいことは見つかると思うの。ほら、料理のお店を開くのだって良いじゃない! アグニが作る白身魚のパイは絶品なのだし、もし違うなにかをやってみたいって言うなら、ダーリンがお城勤めなんですもの色々口利きだって出来るわ。だから帝都を出るなんて、言ったらいやよぅ。アグニちゃん!」


 メリッサはアグニの手をギュウと握ると、頭二つぶん上にある精悍に育ったアグニの顔を見上げた。


「メリッサ母さん……」

「アグニちゃん……!」


 眼と眼で通じ合う、とかなんとかいう歌のフレーズが脳内を駆けた理由をアグニは知らない。


 にゅっと横から手が伸びて、年齢の割には張りのあるメリッサの頬はにょーんと引っ張られた。


「ハニー、話はもう、何度もしたろう? 世界を見たい──アグニはそこまで大きくなったんだ。世界にある国を飛び越えて、様々な土地に赴き、清濁併せ呑む覚悟が出来たとも言える。それを喜ばなくてどうする」

「らって、らってぇ……」

「寂しいのは分かるさ。私も一緒だ」

「ダーリン……」

「ハニー……」


 伯父夫婦は互いに見つめ合うと、ひしと抱き締め合った。


 ──ジーグ父さんとメリッサ母さん、夫婦仲がめちゃくちゃ良いから、なんだかこっちが恥ずかしくなるときもあったけど、この二人だったから、俺は……。


 と、二人にたいして感謝の念が絶えない義理の息子の前で伯父夫妻はそのままベーゼを……、


「ゴホン! あー、二人とも、いまは朝で、ここは帝都の東正門なんだ。もう少し慎みってやつを……」


 まだ早朝とよばれる時間帯であっても、人の眼はちらほらある。両親がアグニに憚らずいちゃいちゃするのはいつもの事でもうなれたが、それを他の人間にみられるのは照れてしまう。義理であっても息子なのだ!


「──じゃあ、もう行くよ。ジーグ父さん、騎士団の仕事が大変なのは分かるけど、仕事のしすぎでメリッサ母さんに寂しい思いさせないように。メリッサ母さんは、ジーグ父さんを気遣うのは良いけど過保護になり過ぎないように。ジーグ父さんだって爪くらい一人で切れるんだから」


「お、おう。気を付けよう」

「むー。アグニちゃんがそう言うなら、これから気を付けるわ」


 伯父夫妻とアグニはそれから少しの間見つめ合った。肩にかかったボンサック型のバッグの位置を直すのを切っ掛けに、アグニは二人に背を向ける。


「行ってきます!」

「ああ、行ってこい! そして、たくさんの事を学んでこい! 世界の良いところも悪いところも、全部その眼で見つめてこい!」

「身体には気を付けるのよ! ご飯は好き嫌いせずにいろんなものを食べるのよ! 困ってる人が居たら手を貸してあげるのよ! 夜は暖かくしてお腹出さずに眠るのよ! えーと、えーと。あとは、えーと…………!」


 アグニはその声を背中で聞いて頬を緩ませた。ああ、メリッサ母さんはいつも心配性だな──と。


「それから……! それから、アグニちゃんのお家はずっとここにあるから! 絶対に無くならないから! いつだって、どんなときだって、帰ってらっしゃいね! 気を付けて、元気で、やっていくのよっ!」


 その声は寂しさに揺れて、けれど旅に出る決意をこれでもかと後押しする。


 15年間たくさんの苦労を掛けて、愛情を受け取ってきたアグニは、背中を向けたままギユッと握った拳を高く突き上げて、叫ぶように答えた。


「分かってるって! 父さん母さん! 二人とも元気で!!」


 それは晴れ渡った空が気持ちの良い朝。

 アグニは抱えきれない応援を胸に、世界を見渡す為の旅に出るのだった──。


 さて、そんなアグニは。


「くそぅ。涙が止まらねぇよぅ……」


 帝都の東正門からずっと手を振っていた両親が完全に見えなくなる場所まで移動してから、座り込み&両手で顔を覆っていた。これから帝都に向かう行商人やら、帝都から出てきた炭坑夫やらが街道で座り込んでいる白髪二十代男を奇異の眼でみるが、アグニはそれどころではない。


「もう帰りたい……」


 アグニというこの二十代男、極度の寂しがりなのである。過去を知っている者からすれば「うん、まあ、仕方ないんじゃね?」と頷いてくれるかもしれないが、知らない者には変な奴だ。たまたま帝都から一緒のタイミングで歩きだした若い女性の二人組なんて、伯父夫妻とちょっとかっこいい別れかたをしたアグニの顔をチラッと見た瞬間に引いたほど。だって、拳を突き上げた時にはもうぐっちゃぐちゃの表情で滂陀ぼうだの涙を流していたのだもの。二十歳を越えたいい大人が。いまもまだ泣き暮れて、小声で帰りたいと呟いているのだもの! そりゃ偶然同じタイミングで出発していたとしても、距離を取って足早に立ち去りたいと思うのが他人様である。


 けれど、数分前に未来への希望を家族揃って育んだ手前、戻ることも出来ない。ここで戻ったら自分は伯父夫妻におんぶにだっこで一生を終える気がする! と、アグニは鼻をすすり上げ、両手で顔を擦って、何度も深呼吸をして、さらに両の頬をパチパチ叩いて、もう一回深呼きゅ……と、とてもめんどくさい前準備を終えて立ち上がった。


「ぐすっ……ったくよぉ。覚悟は決めたはずだろう、俺ぇ……!」


 息をつき、もう一度湿ったままの目元をぬぐうとボンサックを担ぎ直して、辺りに視線を送る。周囲には誰もいない。後方、ずいぶん遠くに帝都の城壁が見える。東正門から伸びるように人の頭が列を作り、その様は帝都騎士の検閲官が仕事していることを教えていた。


 アグニは今から空き巣にはいる盗人よろしくこそこそした様子で街道脇にある林に入ると、人の目がないことを確かめる。


「よし、大丈夫だな──さて、と。いっちょやりますか!」


 吊り下げ式テントと言ってこの世界の人間には伝わらない知識を、産まれた時から何故か持っていたアグニは大きな布とロープをバッグから取り出した。


「誰に教わるわけでもないのに色々知ってる俺。ちょーすげぇ。ちょっと意味分かんなくて気持ち悪いときもあるけど。ちょーすげぇ」


 手際よくテントの設営が終わるといそいそとそのなかに入る。ここで「え、ちょっと待って。旅に出てすぐに近くの林でテント張ってなかにはいるとか、まさかこれが世界をみるための旅なの? 外出10分足らずでもう終了なの? バカなのチヌの?」とか思わないであげてほしい。これはこの世界特有の技術体系──『磨法』を行使するために必要な手順なのだから。


「──研磨した知識を想像力によって具現化し、物理現象として世界の法則足らしめる手段。略して『磨法』って……いや、略しすぎだから」


 テントのなかは朝であってもちょっとだけ暗い。林のなかでの設営だからという理由と、もうひとつ。テント内部の生地には、大きく魔方陣らしき幾何学模様がでかでかと描かれているから。不思議なことはさらに一つ。その模様は、見た者にというイメージを抱かせる抽象的な模様に仕上がっていた。アグニはその模様を見上げて思う。


 ──これが人の精神活動的ロジックと、世界に蔓延る物理学的ロジックを結び付けて、人が想像した結果を具象化する架け橋になる、だったか。でも、これって……。


「想像力が磨法って不思議を引き起こす訳でもないって言うのが、ややこしいよなぁ」


 人は、頭にある情報を基礎として、想像力を羽ばたかせる。子供の頃に空に浮かぶ雲を指差して「あれが全部わたあめだったらいいのに!」という夢想も、雲とわたあめの形状が似かよっている所からの紐付けでしかない。雨が降るを飴が降るに変えてみたり、絵本の登場人物が困っていたらその部分を破り捨てて新しく描いてみたり。であるのなら、想像力を具象化する技術体系が確立したこの世界など、もっとハチャメチャであっていいはず。しかし、そんなことになっていない。何故か


「人の想像と、世界の物理とを結びつけるがなけりゃ磨法は発動しないって……もうそれ、マジックパワーではないよな。いや、知ってたけど。理解してるけど。でもどうしてだろう。俺のなかの一般男性(三十路過ぎ)な部分が頭を抱えている気がする」


 要は、そんなこと本当に出来るとおもってんの、ああん? ということだ。


 本当に出来ると考えて、世界の物理法則との兼ね合いを磨法陣って形に描き出し、実際にそれを発動させるだけの集中力で世界に具象化させることが出来れば、磨法は発動してくれるのだ。


 そしてそれは、他人と同じことが出来る磨法だったり、真似の出来ない磨法だったりに分かれもする。


 そりゃそうだ、誰もが同じものを想像出来るとは限らないのだから──。


 アグニは独自に開発した磨法陣から視線を戻して、静かに目を閉じる。想うのは、15年間お世話になった伯父夫妻に連れていって貰ったことのある帝国領と隣国の領土が、山の連なりで分けられている関所。その近くの街──チチンマウ。の、近くの森に湧く泉である。


「家族で前に行ったときには人気もない静かそのものの泉だったし、あそこなら俺の磨法──ドコデモテントも誰かに見つからなくてすむ、はず」


 某RPGに出てくる合成魔物的羽というアイテムのように一度行ったことのある場所にしか行けないドコデモテントではあるが、見つかったらどうなるか何て想像するだけで恐ろしい。この世界の人間は自分が甘い汁にありつけると知ると、とことんまで残虐になることをアグニは知っているのだ。


 ──まあ、ジーグ父さんやメリッサ母さんみたいな奇特な人たちもいるけど……わざわざ危険になるかもしれないことを見せてやる必要もないからね。


 と言っても、想像力と知識がものをいう磨法という技術が、他人に奪われるなんて極めて稀だ。技術体系として確立されている磨法はあるし、それがこの世界の文明と人類の発展に大きく関係はしているのは確かだが、想像力+物理知識+磨法陣構築が出来なければ磨法の盗用など出来るものではない。


 アグニは何処からの知識でこの名前をつけたのか自分でも分からないテントのなかで、深呼吸を一つ。


「始めますか……」


 集中する。脳細胞を巡るパルスが形を作り、現実世界への扉としてテント内側に描かれる磨法陣が淡い光を放つ。


 ──想像するのは。昼と夜が入れ替わるように、テントに入ったときと出たときの変化。地続きであるはずの世界は、内と外という境界に隔たれて、新しい世界を境界内の者に提供する。即ち、箱に入った猫はこれまでの環境と異なる世界を見る!


「【異空繋ぐ天幕ドコデモテント】!」


 アグニは一声、力強く呟いた。瞬間的にテント内部の磨法陣がひときわ強く発光し、しかしそれはすぐに収まる。どこかの世界の人間には『バカにしてるの?』と不評だろう文言を唱えたアグニはそのまま耳をすませて、続いて鼻に集中した。


「……成功、かな」


 耳にはせせらぎ。鼻にはさっきまでなかった湿った草花の匂い。帝都にはない雰囲気が、空気となってテントの隙間から入ってくる。


 アグニはテントの外に出ると伸びをした。周囲は今までとは違う景色になっている。


「よし、うまくいった! 俺、ちょーすごい!」


 誰に向けるでもないドヤ顔を作っちゃうアグニ君は可愛かった。


 閑話休題。


 つまりは──移動磨法である。

 トンネルを抜けたら雪国だったという考え方を磨法として練り上げたと言えば分かりやすいだろうか? それともシュレディンガーの猫か。a地点でテント内部のアグニは、テントを出たときにb地点に移動している可能性を磨法という奇跡で補強したもの。それが【異空繋ぐ天幕ドコデモテント】だ。


 アグニは辺りを見渡す。泉湧く綺麗な森林空間に、人間という小汚ない存在はない。澄んだ泉の水面はよく研かれた銀食器のように姿を映し、清涼な空気は呼吸する度に身体の中から洗浄されているようだった。


「落ち着く……」

 つい緩む口元には楽しさが浮かんでいた。

「いつまでも此処に居たくなる……」


 しかし。

 そんな平穏はアグニがテントを片付けているときに簡単に打ち壊される。


「……?」


 気付くのは足音。ずいぶん慌てていることを教えるもの。森のなかを無理やり突っ切るようなガサガサという音も心をざわつかせる。


「なにか、くる……」


 動物か? との思いはすぐに崩れ、それが人類に分類されるだろう存在だと気付かされるのに時間は必要なかった。だって、言葉が通じるんだもの。


「だ、だ、誰か助けてくださいですぅー!」


 アグニが助けを求めるその声が聞こえる方に視線を向ければ、そこには、どうしてかケミカルな配色満載な装甲纏う女の子が、涙と鼻水にまみれた顔でこちらに来るところだった。

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