第2話
クノソラム村のアグニと言ったら、元気な少年だった。
両親を尊敬し、産まれた村を誇りにし、村人に対して分け隔てない感性を持って接して、何よりその知識と磨力の量には村の大人が舌を巻くほど。しかし清廉潔白ではなく、年相応のイタズラもするような、そんな子供がアグニという少年だった。
そんな少年がいる小さな村に、ある日、軍隊を率いる兵隊の将校から凶報が伝えられる。
曰く──。
「近年、隣国との摩擦が激化していることは存じであろう。国王は戦が起こらぬよう様々な策をお巡らしになったが、まさにここで、看過できない問題が生じた。故に、いつ戦の火蓋が切られるか分からぬ状況になったがため、この村を前線基地として接収することとなった。感謝せよ! お国の為にお前たちの村が役に立つのだ!」
それは村にとって死刑の宣告だった。
戦になれば村の備蓄は全て国のものとなり、その村で生産されたあらゆる物を使用する、ないしは食事や井戸の水を飲むことすら許可制になる。
それだけならば未だしも、成人男性は病人以外のすべてが兵として命懸けの戦いを強制され、女子供に至っては駐屯兵に押し付けられる僅かな金銭で弄ばれる。
それを知っている村の大人たちは憤った。なかには声をあげたものもいた。だが、改善などされるはずがない。声をあげた者など次の日には戦場で後ろから切り殺された。だから、成すが儘だった。
そんななかで。
十日間の我慢はアグニの怒髪が天を衝くのに十分な時間だった。
「もう無理だよ、母さん。父さんが戦地に行ってもう五日帰ってこない。母さんは三日前から村の集会場で兵士連中に、奉仕、活動を……ッ!!」
だんっ!! と食卓が揺れる。握る掌には血が滲む。
「俺が、みんな殺してくる。敵も味方も、国の兵士なんか知ったことか。ここは俺たちの村だ!急に出てきて村の接収だあ?! ふざけるな!! 父さんも、母さんも、村のみんなも! ただ普通に暮らしてただけだ! それがどうして、こんな目に遭わなくちゃならないんだよ!」
震える拳に決意を握り込んで、幼いアグニ少年は激情を滾らせた。
けれど、母は優しく笑う。そんな考えは捨てなさい、と。
「良い、アグニ? アグニにはとっても大きな力があること、母さんは知ってる。それに沢山の、どこで知ったのかも分からない知識を、いっぱい持っていることもちゃんと分かってる。アグニはうんと優しい子だもの、父さんと母さんのこと心配してくれているのよね。それだって、きちんと知っているのよ。なんたって母さんはアグニの母さんだもの」
アグニの母はこのとき胸を張った。けれどそれは一瞬。アグニの、激情で震える手をそっと包み込んで、言い聞かせるように言う。
「でもね、母さんは……アグニに危ないことをしてほしくないの。強い力も、沢山の知識も、それを気持ち良く使ってほしい。人を殺すために、戦争のためなんかに使ってほしくない。母さんは大丈夫。父さんだって、きっと……っ……きっと、帰ってくるわ。そしたらまた、三人で暮らしましょう? そのときまで我慢すれば、平気だから。母さん、待ってられるから。アグニも、ね? 父さんの帰りを、この戦が終わるのを、母さんと一緒に待ちましょう?」
このときの母の手の暖かさと、震えを堪える力みをアグニは忘れない。耐える母を前にして、息子である自分が耐えなければ不誠実だと、奥歯を噛み締めた痛みを覚えている。
──けれど。
唐突に決まった前線の後退。
悪夢が自ら逃げ出して、さらに酷い非情が村を多い尽くした。
敵軍の侵略である。
男は老いも若きもすべて凶刃に倒れ、女はすべて犯され尽くした。
そのなかで、アグニは閉じ込められる。
家に唯一ある大きな衣装箪笥の下、床のさらに下に穴を掘り、アグニを埋めたのである。
「音が完全に無くなるまで、決して出てきてはダメよ!」
母の言葉は夕刻のことだった。
アグニの体はブルブルと震えていた。怒りもそう、恐怖もそう。何より自分自身の不甲斐なさが悔しくて、悔しくて、悔しくて。力がある、知識があると威勢を張ったところで、目の前で顔見知りが斬り殺されるような状況ではなにも出来なかった。人を殺すなんて簡単だと思っていたのに。
──ちくしょう。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう!!!!!!
埋め尽くす。乱れて荒れる感情が頭のてっぺんから足の先まで詰まっていく。
それは、とても痛かった。
物質としての形も無なく温度もないそれは、しかし、体を燃やすほど熱く、無意識の力みで全身を縛り、食いしばる歯の根からは血液が吹き出すほど。
その時──家の裏手から聞き覚えある声の、けれど同時に聞き覚えの無い悲鳴がアグニのなにかを引き裂いた。
「ああああいああああああぁぁぃぁぁぁぁぁぁぁあやあぁぁぐぇぃぁぁぁぁぁああああああつつつつつつつつっ!!!!!!!!!!!」
思わず衣装箪笥を下から押し倒し、穴から飛び出していた。開け放たれたままの裏口に目を向け、母の姿を探していた。いいや、今も聞こえる悲鳴に意識を引っ張られたと言うべきか。
「母さん!」
慎重さなんてどこにもない。とにかく一瞬でも早く無事を確認したかった。だから走った。広くもない家を、裏口に向かって。
そして、アグニは知る。
この世界が如何に腐っているのかを。
「かあ、さ……」
夕刻の暗さ。
夜が来る前のほんの短い、
それ以上に紅い恥辱が、屈辱が、少年の目に
剥ぎ取られた服。露になった乳房。腰を振る下衆。なにより、母の手足が見当たらない。
「ああん? なんだお前は」
ギョロりとして血走った目がアグニを射貫いた。振り向いた男に微塵の正気もない。もちろん、周囲の他の兵士たちにも。
ひっ、と喉が勝手に鳴る。すがるように向ける母は大量の白濁と血液にまみれ、重なる視線の先には両目で瞳孔の開きかたが違う眼球がカタカタと揺れていた。大量の出血によって意識が途絶える寸前。失血死間近の母は、しかし。
「……アグニ、アグニ……?」
隠れていなさいと伝えたはずの息子の姿を見た直後、状況に相応しくない激情でもって吠えていた。
「なにをやっているの! 逃げなさい、アグニ! 全速力をもって、駆けなさい!!」
怒りではない。言い付けを守らなかった息子への落胆でもない。
守護の観念。
絶対の心配。
四肢を千切られ、肉体を弄ばれ、魂までを汚されて尚、死の淵から息子を守ろうとする母の言葉。
だが、侵略者たちがそれを黙って認めるはずはない。
「おい、そのガキを捕まえておけ!」
胸に幾つかの勲章をぶら下げる下衆な兵隊が叫んだ。叫んだその兵隊は股ぐらの怒張を母から引き抜き立ち上がると、状況に萎縮して逃げ出そうにもぎこちなく、あっという間に捕まったアグニのところまでのっそりと近付いていく。種族はヒューマン。人。人間。人類種系ヒューマノイドではない。同種の人間の兵士が、真っ赤に染まったその手で母の髪を乱暴につかんで引き摺って来る。下衆は周りの己れの部下だろう他の連中に目配せすると、いいことを思い付いたと言わんばかりに口角をグニャリ、と気味悪くつり上げた。他の兵隊連中も同じように笑う。
「班長殿、アレをなさるおつもりで?」
「そりゃあ、良いことです! ガキも死に際の母親に孝行できるってもんだ!!」
爪先同士がぶつかりそうなほど間近まで寄った下衆は、怯えて震えるアグニを至近で見下ろして言った。
「犯せ」
「へ……ぇ?」
「そうすりゃあ、見逃してやる」
「おかすって……?」
「言葉の通りだ。まさか、知らねぇわけでもねぇだろう。この村に慰安婦の集会場が設けてあったのは報せを受けてる。なら、一度くらい覗きに行っただろう。なあ、糞ガキ?」
それは図星だった。軍に村が接収されてから、毎日何処かへ出掛けている母の後をつけていったことがある。なにか変なことをされているのなら助けようなんて考えたことが。
そのときに、知った。
この世界の色の一部を。
そもそもを言えば、アグニは知識だけなら誰に教わるでもなく多くの事を知っている子供だった。何故それを知っているのか自分でも分からず、アグニが暮らす世界ではまだまだ解明されていない科学的なことさえ、頭のなかにあった。
だから、言葉の意味を知らず疑問系になったのではない。意味が分かるから信じられなかったのだ。
少し視線を動かせば、頭髪を鷲掴まれてぶら下がるように揺れる母。両脇からドワーフと人間のハーフのゴツゴツした手が戒めてくる。
「ほら、早くやれ」
下衆が軽い調子で母を放り投げた。手足を失った肉体では受け身をとることも出来ず、己れが垂れ流す血で湿った土の上を母はザリと跳ねる。
もう、呻くことすらない死に体。それでも母はアグニを見つめていた。微笑んでいた。アグニと目が合えば、たったひとつ、そっとうなずいた。
『ごめんね』
アグニは確かに聞いたのだ。酸素に喘ぐ
だから分からなくなる。
今の状況が。
己れの立場が。
──どうして謝るの、母さん……っ。謝るのは俺の方じゃないか!
下衆がアゴで部下に命令する。その合図を受けてアグニを捕まえていた兵隊が動いた。両脇の兵は互いに腰に差してあったナイフを引き抜くと、アグニの服を、ベルトを、下着すらを切り裂いて、血色褪めた母に覆い被せる。
「ほぉら、まずは口づけからだろう?」
無骨な手がアグニの頭をおさえ、母の顔に押し付けた。幼い頃に額に感じた慈しみなど何処にもない行為。口づけという結果があるだけ。肉が、骨が、悲鳴をあげる。
──ああ、ごめん。ごめんよ、母さん……。
体は凍えたように震えているだけで、兵隊たちの腕を振りほどくことはできなかった。ナイフに染み付いた赤黒いなにかが心底恐ろしかった。あまりにも無力。大きな力を持っていようが、様々な知識を有していようが、自然に振るえなければ意味がない。どんな状況、どんな危機にあっても、使いこなせなければ無いものと変わらない。
涙が溢れる。嗚咽が漏れる。
そこへ、下衆の足がアグニの尻を踏みつけた。
「なにやってんだ、ガキィ。早く腰を振れよぉ。雨に打たれて薄汚れた野良犬が発情したような滑稽さを見せて、楽しませるんだよぉ。お前のかあちゃんを、おまえの一物で喘がせるんだよぉ!」
途端にどっと笑いが起きた。周囲の兵達も手を叩いて囃し立てる。──早くしろ。最期に大きなプレゼントをしてやれ。とっととしねぇと死体になっちまうぞ……雑多な言葉が雨のようにアグニの体を打ち付けた。髪を強く引っ張られて、母を見下ろす格好になる。
母の体を汚す、なんの
その時だ──。
「守ってあげられなくて……ごめんね」
それは微笑みだったのだと思う。出血が多すぎて、暴行にさらされ過ぎて、心を踏みにじられ過ぎていて、汚く歪んだものになっていたけれど、それでもアグニには毎日見ていた母の、綺麗な微笑みだったのだと……。
だから、なのだろうか。瞳孔の開きかたが違う母の目から光が完全に失われる直前で、下衆は囁く。嫌らしく、ねっとりと。
「残念。時間切れだぁ」
ぶんっ! と。言葉の終わり、血糊で錆び付いた禍々しい戦斧がいままさに尽きようとしていた命を、母の首を、切り飛ばした。
「……ぁ」
宙を舞う首。母の頭は地に落ちて、座り込んだ格好のアグニの所まで転がった。半開きのまぶたから覗く眼。意識も意志も命すらない瞳と、目が合う。
アグニは手足も頭もない身体と、己れの足元へ転がってきた母を交互に見つめた。そしてそれをそっと拾い上げると優しく抱き締めた。
そこまでだった。
抱き締める。
その行為までだ。
アグニの意識があったのは。
「あ、ああ……ああああああああああああうあああああああああああああああああああああああああああああああああああああいあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああはあはあはああえあぅあああいああいあああああああああああああ!!!!」
磨力の暴走。
想像を絶対のものとして世界に顕現させる力の暴発。
磨力の烈風が村一帯を覆い尽くした。
想像は夢想ではない。工程と結果を完全に知識として持っているときに、それを補強する添え木のようなもの。燃焼とはどう起こるのか。加速とは何なのか。それをさらに強化することの出来るもの──それが、磨法。
そして、この時。
アグニが強烈に想像し、己れの強大な磨力が形を成したもの。それは目の前で叩きつけられた母の死だった。
故に、アグニの莫大な磨力によって現実に顕現された磨法は、クノソラムに居たすべての敵兵の、いいや生き残っていた村人を含め、すべての人間の首を切り飛ばした。
本来、生物を磨力単体で殺害する事などあり得ることではない。だが磨力の暴走、磨法の暴発がイレギュラーを引き起こした。アグニの精神状態もイレギュラーを引き起こす要因だった。
アグニの磨力が村から命を狩り尽くすまでに、時間はかからなかった。
それからアグニは──。
夜が明けるまで母の首を抱えていた。
なんの感情も映さない濁った硝子玉のような目玉をただぼうとさせたまま、磨力の暴走のせいで真っ白に色抜けした髪を風に揺らしながら、母の頭を抱いていた。
男が現れたのは日が上り始める早朝の事だった。乱れる息を落ち着けながらアグニの前で足を止め、数瞬、奥歯を噛み締めた。
「……よく生き残った」
反応の無いアグニを抱き締めて涙を流す男。
それは、母の兄。
伯父にあたる人物だった。
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