第8話イェシュケ宮中子閣下

「おお、よく来た、よく来た、一別以来だな。

 ようやく礼ができる事になったので、来てもらったのだ」


 エルザ様と俺は、姫君たちをお助けした、イェシュケ宮中子閣下から呼び出しを受けて、皇国の馬場にやってきた。

 イェシュケ宮中子閣下が、どこからか、俺がシュレースヴィヒ伯爵閣下の下屋敷馬場で上級武官登用試験の鍛錬をしていると聞きつけて、姫君たちを助けた御礼に馬場を借りてくれただけかと思っていた。


 だが、その程度の事ではなかったのだ。

 イェシュケ宮中子閣下のしてくださったことは、上級武官登用試験で使われるの全く同じ馬場を、整えてくださっていたのだ。

 いや、そうではなく、皇国貴族や上級士族のために事前に整えられている、上級武官登用試験会場と全く同じ馬場で、鍛錬させてくださるということだ。


 ある意味、試験問題の漏洩なのだが、そんな事は権力者にはよくある事だ。

 俺達底辺から這い上がろうとしている者は、それくらいの不正がある事は承知のうえで、それでも勝ち抜く覚悟で試験を受けている。

 全ての文武官登用試験で、大なり小なり不正があると覚悟していた。

 たまたま今回は、俺が不正利益を享受できる立場になっただけだ。


 伝説の英雄豪傑ならば、このような不正義なお礼は受け取らないだろう。

 だが俺は、清廉潔白な英雄豪傑ではなく、普通の人間なのだ。

 利用できるモノは、良心の許す範囲で全て利用する。

 そして今回の事では、俺の良心は痛まなかった。

 既に多くの貴族や上級士族が利用していて、利用しないのは、使う裏金に比べて得られる役職が低い、もう無役でいいと諦めている下級士族だけだった。


 今回もエルザ様の好意で、シュレースヴィヒ伯爵家の家臣でエルザ様の従騎士という立場で、皇国の馬場を使わせていただいた。

 普通の陪臣騎士は、皇国の上級武官登用試験を受けたりはしない。

 貴族家や準貴族家に仕える騎士は、貴族家や準貴族家が独自の基準で任命するのだが、皇帝陛下に謁見する可能性のある重臣は、上級文官登用試験か上級武官登用試験に合格しなければいけない。


 貴族家や準貴族家の重臣は、主君の陣代として戦地に出たり、皇城で皇帝陛下から命令を受けなければいけない可能性があるからだ。

 全ては、常在戦場を建前にしている、皇国の法体系がそうさせているのだ。

 建国皇帝陛下か定められた法が、一四〇年の長きにわたって皇国を縛っているとも言えるのだ。


 二代皇帝陛下の直系が七代で絶えてしまった時、建国皇帝陛下が直系が絶えた時のために創っていた、三大諸侯王家の一つから八代目の皇帝が選ばれた

 建国皇帝陛下の再来と言われるほど聡明だった八代目の皇帝陛下は、建国皇帝陛下の定められた法の解釈を、大きく変えられた。


 そのまま変えられた法解釈が適応されていれば、下級士族や卒族が今ほど苦しまなくてすんだのだろう。

 だが、今の皇室は皇位を巡る暗闘が激しく、国の運営が難しい。


 まず八代皇帝陛下と皇位を争った二つの諸侯王家が、現皇室を妬んで、色々と政策の邪魔をしている。

 九代目の皇位を継げなかった、九代皇帝陛下の弟達の子供達、今上皇帝陛下から見れば又従弟とその子供達が、今上皇帝陛下と皇子達を暗殺して皇位を簒奪しようとしている。


 そういう理由で皇国が混乱していると、俺は大爺様から聞いていた。


 そんな混乱する世の中では、多少の悪事には眼を瞑らないと生きてはいけない。

 だから俺も、忸怩たる想いを押し殺して、試験問題の漏洩ともいえる馬場を使って鍛錬を繰り返した。

 皇都警備隊足軽の身分を隠蔽して、シュレースヴィヒ伯爵家の重臣子弟の仮面を被り、黙々と鍛錬を繰り返した。


 どうせ合格しても、相応しい役職には就けないのだ。

 皇都警備隊足軽として、無能で性悪な総隊長や隊長にこき使われるのだ。

 それでも、幼い頃から積み上げた努力が、認められなかったら悔しいし、実力通りの成績が治められなかったら哀しい。

 事前に馬場の状態や的の位置が分かるのなら、全く同じ馬場で多くの人に見られながら何度も鍛錬できるのなら、小心者による狼狽が少なくなるかもしれない。


 エルザ様に鍛えられ、毎回見守ってくださるイェシュケ宮中子閣下の視線に加え、陪臣従騎士ごときという蔑みの視線を送る貴族士族子弟の圧力を受け、激しく消耗してしまい、上級文官登用試験の勉強があまりできなかった。


 今回落第したとしても、中級文官登用試験に合格しているので、一生上級文官登用試験を受け続ける事ができる。

 だから来年も受験すればいいと自分を慰めて、武芸の鍛錬に励んでいたのだが、思いがけない事が起こった。


「頼もう、頼もう!

 バルド・フォン・アルベルト殿は御在宅か?

 シュレースヴィヒ伯爵の騎士、エルザ・リッター・クラインと申す。

 バルド殿が上級文官登用試験を首席で合格したと聞いたぞ。

 お祝をしたので、ぜひ屋敷に来てもらいたい」


 上級武官登用試験の合格が発表された当日、まだ我が家でもお祝をしていないのに、馬を駆ってエルザ様が我が家を訪問された。

 心から喜んでくださって、祝ってくださろうとする気持ちを迷惑だとは言わないが、流石に早過ぎて驚く。


 首席合格という、自分でも信じられない状況なので、家族もどう祝えばいいのか慌てふためいていたのだ。

 そこに可憐な容姿に全くそぐわない、傍若無人という表現がぴったりの態度で、エルザ様がアーダに案内されて俺の部屋までやってこられた。

 そのまま皇都でも有名な料亭に連れて行っていただき、歓待していただけたのだが、それがまた地獄絵図だった。


 俺は絵にかいたような小心者なのだ。

 慣れない場所、緊張する場所では実力が発揮できないのだ。

 初めて会う高位高官の前では、自分でも何をしているか分からなくなってしまう。

 栄光あるアルベルト家の家名を継ぐには相応しくない、胆力のない男なのだ。

 そんな男が、不意討ちで、シュレースヴィヒ伯爵閣下とイェシュケ宮中子閣下に祝っていただいたのだ、粗相しない訳がないのだ。


 体質に合わず普段は絶対に飲酒などしないのに、飲めない酒を無理に飲む事になり、両閣下の面前で嘔吐を繰り返すという、皇国の役人ならば取り返しのつかない失態をしてしまった。

 まあ、どうせ俺は、合格しても役職に就けるわけではない。

 普通に考えても、もしアルベルト家の者が役職に就けるとしたら、俺が役職に就くよりも前に、当主の御爺様か跡継ぎの父上が役職に就くだろう。

 ましてこのような大失態を犯したのだから、当主の孫に過ぎない俺に、役職就任の芽はない。


 まあ、でも、酒席の座興と考えれば、笑える失敗だともいえる。

 まだ役職に就ける歳でもない半人前の若造が、栄達を極めている宮廷貴族閣下を前にして、狼狽して失敗を繰り返すという、ある意味よくある笑い話だからだ。

 これを老練な役人がやったのなら、眉を顰められ遠ざけられるだろう。

 だが俺の場合は、可愛い失敗だったと、二日酔いの頭痛から解放された後で、エルザ様から教えていただけた。


「なにも気にする事はないぞ。

 シュレースヴィヒ伯爵閣下とイェシュケ宮中子閣下だけでなく、酌をしてくれていた芸子達も、バルドの事を可愛いと言っていたぞ。

 皇都で一番の人気を誇る芸子も、シュレースヴィヒ伯爵閣下とイェシュケ宮中子閣下に、またバルドを連れて来てくれと言っていたぞ」


 もう二度と酒席は御免だ、絶対に行きたくないと心から思う。

 だが、シュレースヴィヒ伯爵閣下とイェシュケ宮中子閣下に誘われては、行かないわけにはいかなかった。


 まだこれから上級武官登用試験、高級文官登用試験、高級武官登用試験と三カ月連続で試験があるというのに、連日のようにシュレースヴィヒ伯爵閣下かイェシュケ宮中子閣下に呼び出された。


 もっとも、もう高級料亭に呼び出されるのではなく、両閣下の屋敷に呼び出され、食事の接待していただくだけなのだが、相手が両閣下では、美味しい食事も全く味がしないので、自分の小心ぶりに苦笑するしかない。


「さあ、腹一杯喰うのだ。

 今日も激しい鍛錬を繰り返したのだ、栄養をつけなければ明日の鍛錬に影響する。

 それにまだ成長途上のはずだから、その身体はもっと大きくなるはずだ。

 このまま油断する事なく身体を鍛えれば、私以上の武人に成れるかもしれないぞ」


 シュレースヴィヒ伯爵閣下の屋敷に招かれるたびに、何故かエルザ様がシュレースヴィヒ伯爵閣下と一緒に歓待してくださる。

 俺が歓待される理由も分からないが、何より常にエルザ様がシュレースヴィヒ伯爵閣下と一緒にいるの理由が分からない。

 もしかしたら、エルザ様はシュレースヴィヒ伯爵閣下の愛妾なのだろうか。


 身分違いなのは身に染みて分かっているが、それでも嫉妬してしまう。

 エルザ様ほどの美貌なら、シュレースヴィヒ伯爵閣下が愛妾にされたとしても、貴族家としては普通の事なのだ。

 今のシュレースヴィヒ伯爵閣下の権力なら、縁を結びたくて縁談を申し込んでくる貴族が山ほどいるだろう。


 シュレースヴィヒ伯爵閣下としても、権力基盤を安定させるために、政略結婚の手駒は多ければ多いほどいいのだ。

 多くの愛妾を置き、子供を確保するのが権力者の常道なのだ。

 そんな事は分かっているのに、嫉妬してしまうのは、俺の諦めきれない恋心なのだと思う。

 一方のイェシュケ宮中子閣下の屋敷でも、俺を更に緊張させることがある。


「バルド様、先日は誠にありがとうございました。

 あの御恩は生涯忘れません」


「いえ、もう忘れてください。

 イェシュケ宮中子閣下には多すぎるくらいの御礼をしていただきました。

 私には心苦しいくらいの莫大な御礼でございます。

 これ以上恩に感じていただきと、むしろ心苦しくなってしまいます」


 本当に緊張して、言葉を間違ってしまうのだが、イェシュケ宮中子閣下の屋敷での歓待に、わざわざロッテ姫とニーナ姫が表に出てきてくださるのだ。

 無役の時の家格は準男爵のイェシュケ家だが、ウィリアム卿の武勇と智謀で子爵待遇の役職についておられる。

 しかも本家は武断派で有名なイェシュケ辺境伯家だ。


 そんな家の姫君に歓待されたら、小心者の俺は蛇に睨まれた蛙だ。

 最初はろくに返事もできず、はいといいえしか言えなかった。

 最近ようやく会話になり始めたが、普通に話す事自体が、身分から言えば無礼非礼になるのだ。

 この状態を笑ってみておられる、ウィリアム卿の真意が分からない。


 もし俺が、上級士族の準男爵や士爵の家の者ならば分かる。

 無事に助かったとはいえ、日雇卒族に攫われかけたロッテ姫とニーナ姫に、よくない噂があるのは確かだ。

 あの時に純潔を汚されたという、悪意ある噂が陰で流れていると、フォレストが調べてきている。


 そんなロッテ姫とニーナ姫を、嫁に勧めるという可能性が、俺が上級士族ならあるのだが、皇都警備隊足軽の孫でしかない俺では、絶対にありえない話だ。

 俺を使って悪い噂を払拭させたいという可能性もあるが、その場合は俺がシュレースヴィヒ伯爵閣下の悪評を払拭させたのを知っていることになる。

 それはそれでとても恐ろしい。


 俺がそんな謀略を使ったことを知っているという事は、使おうと思えば同じ方法でロッテ姫とニーナ姫の悪評を払拭出来るという事だ。

 やれるのにやらないという事は、そのような謀略をイェシュケ宮中子閣下は好まれないという事だ。

 つまり、俺の事を恩人として遇してくださってはいるが、根本的には性が合わずに嫌いだという事になる。

 皇国の宮廷貴族に嫌われているというのは、生きた心地がしない危険な事だ。


「バルド様、バルド様がお酒を好まれないという話はお聞きしています。

 今度はお昼に来てくださいませ。

 わたくしがお茶で歓待させていただきます」


 まだ幼いニーナ姫が無邪気に誘ってくださるが、恐れ多すぎて、とてもではないが、お受けするわけにはいかない。


「恐懼の至りではございますが、恐れ多い事ながら、御辞退させていただきます。

 残念ながら、来月には上級武官登用試験があり、再来月には高級文官登用試験がございますので、その勉強と鍛錬をしなければいけません。

 イェシュケ宮中子閣下の御好意で、足軽の孫に過ぎない私が、皇国の馬場を使わせていただけております。

 一日たりとも無駄にするわけにはいけないんです」


「本当なのですか、父上。

 バルド殿は上級文官登用試験に合格されておられるから、もう騎士なのではないのですか?」


「はっはっはっはっは、そう簡単に行かないのが、陰謀渦巻く宮廷の悪い所でね。

 どれほど正々堂々を力を示しても、役職に就けない事もあるのだよ」


「父上の御力でも、正しい者を賞することができないのですか?」


「父の力などまだまだ小さくてね、やれない事の方が多いのだよ。

 だが、このままバルド殿が力を示し続けて、高級文官登用試験と高級武官登用試験を上位で合格するようなことがあれば、父のような小者でも、バルド殿を実力に相応しい正当な役職に就けられるかもしれないね」


「聞かれましたか、バルド様。

 もう我儘は申しませんから、高級文官登用試験と高級武官登用試験を頑張ってください!」


 イェシュケ宮中子閣下も、ニーナ姫も、無理難題を言ってくれる。

 皇国最難関の高級文官登用試験と高級武官登用試験に、俺が合格できるモノか。

 御爺様と父上でも合格できないくらい難しい試験なのだ。

 まして俺は比類なき小心者で、皇帝陛下の前で実力など発揮できない。

 ロッテ姫も期待するような表情を止めてくれ!

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