第28話

 彩が寝込んでから最初の一週間は、何の心配もしていなかった。前回もそれくらいの期間寝ていたし、薬も届いたので、これで彩も遂に病から開放されるのかと喜んでいたくらいだ。俺は早々に退院することが出来たので、彩が撮りダメた動画の編集をしたり、バイオリンの自主練をしたり、これからの予定を考えたり、とにかく色々なことをやっていた。

 しかし一ヶ月経っても彩は一向に起きる気配が無かった。俺の胸中で不安が渦巻き始める。撮りダメられていた動画のストックが尽きる。だけど、一度で良いから目覚めてしまえば薬が投与出来るのだから問題ないと、俺は自分に言い聞かせた。

 三ヶ月が経過しても状況は変わらなかった。いくら何でもおかしい。俺はようやく気がついた。もう彩の夢の中では二年以上の時が経過しているのだ。一体、何が起きたのか。俺はベッドに横たわる彩に何度も問いかけたけれど、返事が帰ってくることは無かった。眠った状態でも良いから、薬を投与するよう彩の主治医に直談判もした。けれど俺の意見が認められることは無かった。

 そして今日で、半年が経過した。

 コンコン、と扉をノックする音が聞こえる。

 「兄さん? 入るよ?」

 返事もしてないのに、彩はズカズカと俺の部屋に乗り込んでくる。部屋の電気をつけるパチッという音が聞こえてきた。

 「ねえ兄さん、元気だしなよ……」

 そう言いながら千春は、ベッドでうずくまる俺の近くにやってくる。床には物が散乱しており、足の踏み場が少ないので歩くのが大変そうだ。

 「ほらこれ。平瀬先輩が持ってきてくれた、学校のノートとプリント」

 千春は俺の顔に向かって紙の束を突き出した。

 「そんなもん要らないよ……。高貴にも言っといてくれ。もうノートもプリントも持ってこなくていいって」

 先週から俺は、高校にも行かなくなった。もう通う意味を見いだせなかった。

 「はあ……」

 千春はため息を尽きながら、俺の勉強机に紙の束を叩きつける。そして突然、声を張り上げた。

 「ねえ兄さん!」

 鼓膜がビリビリと震える。

 「何だよ、うるさいな……」

 「いつまでそうやってウジウジしてるつもりなの?」

 仁王立ちしながら、千春は俺を見下ろしていた。

 「さあ? 一生……かな?」

 「ふざけないで! そんなの許されるわけないでしょ?」

 「別に誰かに許してもらう必要なんてないよ」

 彩がいないのでは、俺が頑張る意味も全く無い。

 「……。わたし、YouTubeやってた頃の兄さんは結構尊敬してたんだよ?」

 千春は突然話を切り出した。

 「今までリビングのソファーでボーッとテレビばっかり見てた兄さんが、突然真剣な眼差しで目標に向かって一直線に進み始めて、気づいたらチャンネル登録者数一万人を達成して……。やっぱり兄さんはすごかったんだ。兄さんもやる時はやるんだって、感心してたのに……」

 こいつ、そんなこと考えてたのか……。

 「そりゃどうも。でも、それは全部彩のお陰だよ。彩がいなければ一万人なんて達成できる訳ないからな……」

 「それはもちろん、彩先輩も凄い人だとは思うけど……。でも、一万人達成には兄さんの力も不可欠だったと思う。あの時の兄さんは、キラキラ輝いて見えたもん。今の兄さんとは大違い。背筋だってピンと伸びてたし、すごくかっこよかった」

 「それは目の錯覚だよ。俺が輝いてるわけないだろ。もしもそう見えたなら、それは輝く彩の近くにいたからだ。照らされて光って見えただけだよ。俺は何をやってもダメな人間だからな……」

 「そんなこと言わないでよ」

 「事実なんだから仕方ない」

 「……」

 「……」

 部屋に気まずい沈黙が流れる。

 「千春は随分と元気そうなんだな。俺とは違って……」

 こいつは普通に学校にも通ってるし、部活だって続けている。

 「私だって彩先輩と会えないのは悲しい。でも、だからって兄さんみたいに部屋に閉じこもってるわけにはいかないでしょ? 彩先輩がそんなこと望んでると思う? そんな訳ない。 兄さんは、そんな簡単なことも分からないの?」

 千春の言っていることは至って正しい。ディベート大会だったら、間違いなく千春の勝ちだろう。

でも……

正論だからって、皆が皆、千春のように行動を起こせる訳ではないのだ。俺は、こいつのように強くはない。だからこそ千春の正論は、俺の心を強くえぐる。

 「良いよなぁ千春は」

 俺の口が、自らの意思とは関係なく勝手に動き出す。千春の眉がピクリと動く。

 ダメだ、この続きを言ったら取り返しがつかなくなる。またこの前みたいな失敗を繰り返すのか。

 頭ではそう分かっているのに、話すのをやめることは出来なかった。

 「所詮、彩との関係はプリン仲間程度だもんな。だから彩が寝たきりでも、そうやって平気でいられるんだろ?」

 部屋の温度が急激に低下した。

 千春は全身を小刻みに震わせると、俺の頭の下の枕を引っこ抜く。そして、それを全力で俺の顔面に投げつけてきた。

 「もう兄さんなんて知らない!」

 そのまま扉を叩きつけるように閉めて、部屋を後にする。

 あぁ、何やってんだ俺……。

 今すぐ千春を追いかけて謝罪するべきだということは分かっている。でも、もうそんな気力も沸かなかった。

 現在の俺の心の中の空模様はどうだろう? 雨? 暴風雨? いや、もはやそんなレベルではない。

もう心が壊れてしまっているから、空模様など関係ない。地球そのものが無くなったら、天気という概念が無くなるのと一緒だ。

 せっかく自分の生きる意味を見つけたと思ったらこのザマだ。もう笑えてくる。

 もう一眠りするか。

 睡眠はもう十分すぎるほどとっているが、かといって他にすることもない。だから俺は、もそもそとベッドから抜け出すと、千春がつけっぱなしにしていった部屋の明かりを消す。そのままベッドに戻ろうとした時、勉強机の上に置いていたスマホが震えた。せっかく立ち上がったので、俺はスマホを手にとってからベッドに戻る。久々に画面をつけると、LINEにはいくつもの連絡が入っていた。その大半は高貴からのものだったが、一つだけ他の人からのものもあった。そのユーザーの名前は、上島……

 「彩?」

 俺はベッドから跳ね起きる。しかし、続く名前は奏汰だった。

 弟さんの方か……。

 一瞬だけ沸き起こった高揚感は、しかしすぐにかき消される。

 けど、どうして弟さんから連絡が?

 俺と弟さんは、何回か顔を合わせたことはあるものの連絡先の交換はしたことがないはずだ。

 一体、何があったんだろう?

 俺は気になって、そのアイコンをタップした。LINEにしては長い文章が、パッと画面に表示される。

 《陽斗さん、突然の連絡申し訳ありません。上島奏汰です。陽斗さんの連絡先は、姉から教えてもらいました。今日は一本の動画を送信させていただきます。この動画は、半年前に姉から託されたものです。『もしもわたしが半年経っても目覚めなかったら、陽斗くんに送ってもらえる?』と頼まれていたので、今日、こうして送らせていただきます。動画の内容は僕も見ていないので分かりません。しかし姉はきっと、陽斗さんに伝えたいことがあったのだと思います。見てもらえると嬉しいです》

 文章に続けて、一つの動画が送信されていた。

 彩の動画……?

 そんな話、初耳だ。彩はそんなこと一言も言ってなかった。

期待と恐れ、両方の感情を抱えながら、震える指で俺は再生ボタンをタップする。

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