第27話

 目覚めてから一週間、俺は日常生活が送れる程度に回復した。傷口が開く可能性があるので激しい運動は禁止されているが、制限はせいぜいそれくらいだ。退院するのも時間の問題だろう。お医者さんによれば、あと一センチ刺された場所がズレていたら即死だったらしい。本当に運が良かったようだ。

この一週間、色々な人のお世話になった。父さんと母さんは、俺の着替えや荷物を病室まで持ってきてくれた。千春は手作りのプリンをごちそうしてくれた。高貴は学校のノートやプリントを見せてくれた。これまでの俺の人生で、これほど人の親切が身にしみたことはない。本当にありがたい。千春や高貴は、俺が退院したら物凄い見返りを求めてきそうで少し怖いが……。

そして彩はというと……。

「彩先輩の寝顔、可愛いね」

「ああ。だからっていたずらするなよ?」

「し~ま~せ~ん」

そう言いながら、千春は彩の柔らかなほっぺを人差し指でツンツンとつついていた。「プリンみたいにぷるぷるだ~」とかなんとかつぶやいている。

彩は、俺が目覚めたのと入れ替わるように夢の世界へと旅立った。彩と俺は同じ病院に入院しているので、こうしてお見舞いも楽に行ける。

それにしても、こうして千春と彩のお見舞いに行くことになるとはな……。

俺が寝込んでいた三週間に、彩は俺の家族に自らの病について説明したらしい。誰かに付き添ってもらわないと外出さえ出来ない自分のせいで、俺が刺されたのだとずっと嘆いていたようだ。彩にそんな罪悪感を背負わせていたなんて、自分のことしか考えていなかった俺は全く気づかなかった。死の淵から生還することが出来て、本当に良かったと強く思う。

「彩先輩の病気って、もうすぐ治るんだよね?」

千春はじっと彩に視線を向けたまま、ついさっきまでとは打って変わって真剣な表情でつぶやく。

「来週あたりに届く薬を投与すれば、治る可能性が高いって言ってた」

きっと治る。俺はそう信じている。

「そっか。じゃあ病気が治ったら私、プリン祭りを開催して彩先輩をお祝いする。色々あって一万人突破のお祝いは出来なかったからね」

千春の口元には、笑みが浮かんでいた。

「その節はすまん」

「まあしょうがないよ。でもその代わり、今度は兄さんにもたくさん働いてもらうからね!」

「お手柔らかに頼むよ……」

一体何をさせられるのか怯えながらも、俺は千春から彩に視線を戻す。

「じゃあまた明日」

「プリン祭り、楽しみにしていてくださいね!」

最後に彩の手を握ってから、俺たちは彼女の病室を後にした。


 それから更に三日経った日の夜のこと。病室のベッドの上でノートパソコンを広げて作業をしていた俺のもとに、彩から連絡があった。どうやら目が覚めたらしい。逸る気持ちを抑えて、俺は彼女の病室へ足を運ぶ。

 「久しぶり」

 「お久しぶりです」

 彩は小さく頭を下げた。

 「彩の体感時間的には……三ヶ月ぶりくらいになるのかな?」

 「ええ。それくらいだと思います」

 「えっと……長い間、一人で寂しかったでしょ。でも明後日には遂に薬が届くらしいよ」

 遂に待ちに待った日が来るのだ。

 「確かに寂しかったですね……」

 「でもあと少しの辛抱だよ。薬さえ手に入れば、余命六四〇年の生活からも開放だ」

 少しおどけて俺は言ってみたけれど、彩からの返事はしばらくの間無かった。

 「彩?」

 「あっ、すみません。少しボーっとしていました……」

 慌てて彩は、ベッドの上で居住まいを正す。

 「そうですね。陽斗くんと同じ余命百年くらいになるかもしれません」

 「余命を縮める薬って、何だか不思議だよね。普通と逆だから」

 「ええ」

 彩はフフッと小さく声を上げて笑う。

 その後、俺たちは病室でぽつりぽつりと言葉をかわした。俺が寝込んでいる間も自主的に動画を撮影してくれたことへの感謝や、彩に罪悪感を背負わせてしまったことに対する謝罪。あとは彩が寝込んでいる間に起こったや、逆に彩が夢の中でやっていたことなど……。

 話題は腐るほどあったので、ずっと雑談を続けるつもりだったのだが……何故か今日に限って会話が少しぎこちない。なんというか、彩の顔を直視して話が出来ないのだ。

原因は分かりきっている。俺が彩のことをいつも以上に意識しているからだろう。彼女の艶のある黒髪、ぷっくりとした唇、スラリと通った鼻筋。今までは、可愛いな……くらいにしか思わなかったのに、今は視界に入るだけで心臓が暴れだす。

 結果、彩から不自然に視線をそらして会話することになるのだが、そんな精神状態でまともに話せる訳がない。おまけに今日は、彩の返事にもキレが無かった。まあ俺が挙動不審な上に、誰かと話すのも三ヶ月ぶりだから仕方ないことだが……。

 ダメだ。

こんな精神状態では会話を続ければ続けるほど俺の評価が下がってしまう。そんな気がした。

 一旦心を落ち着けてから、また明日話そう。

 「じ、じゃあ、そろそろ消灯時間だし、今日はこの辺でお暇(いとま)しても良いかな? そもそも本来、今は面会時間外だし……」

 会話が途切れた所で俺は立ち上がる。しかし、左腕に微かな抵抗を感じた。

 「待ってください」

 彩は、その白い指先で俺の薄青色の病衣をつまんでいた。

 「もう少し……お話しませんか? わたし、少し行ってみたい所があるんです」

 僅かに潤んだ琥珀色の瞳で見つめられて、俺が彩の話を断れるわけがなかった。


 一度俺の病室に寄って上着をとってから、彩に引っ張られること数分。俺たちは病院の屋上へ来ていた。

 「この病院、屋上なんてあったんだ……」

 広さは体育館くらいあって、想像以上に開放感がある。辺りには、チラホラと花々が植えられていた。

 「ええ。朝の十時から夕方の五時まで開放されているんです。いつも賑わってるんですよ?」

 「へえ、そうなんだ。ん? っていうか今、既に夜の十時過ぎなんですけど……」

 「抜け道があるんです。他の人には内緒ですからね?」

 彩は右手の人差し指を唇の前に立てる。

 「随分とお転婆なんだな」

 「誰のせいでこうなったと思ってるんですか?」

 そんな軽口を叩き合いながら、俺たちは木製のベンチに腰掛けた。相変わらず彩は俺の病衣の袖を握っているので、座った時の間隔はほぼゼロだ。

 俺たち以外に誰もいない屋上は静かだった。背もたれに体重を預けて、二人で空を見上げる。そこには、雲ひとつない夜空が広がっていた。

 「いつの間にかベテルギウスも赤くなってたんだな」

 ここ最近、病院に籠もってばかりで空を見上げる機会が無かったので気が付かなかった。

 「最初は真っ青だったのに、たったの数ヶ月で随分変わりましたよね……」

 「本当。彩みたいにね」

 空を見上げながらなら、こうやって軽口を叩くことも出来る。きっと彩を直視したら、また何も言えなくなってしまうのだろうけど。

 「どういう意味ですか?」

 「分かってるくせに」

 「いい意味で言ってますか?」

 「もちろん」

 「ならいいですけど」

 悪い意味なはずがない。以前に比べてずっと、彩は心を開いてくれるようになった。それは、とても喜ぶべきことだ。

 こうやってベテルギウスを見ていると、真っ先に思い出されるのは白ワンピースでバイオリンを演奏する彩の姿だ。やっぱり彼女にはバイオリンが一番似合う。

 「あっ、そっか」

 俺は気づいた。

 「どうしました?」

 「もしかして彩、入院してからは、ここでバイオリンの練習やってたんじゃない?」

 「……バレましたか」

 彩はバツの悪そうな顔をする。

 「道理で頑張って抜け道を探すわけだよ……」

 「いくら個室とはいえ、流石に病室で演奏するわけにはいきませんから……」

 「そう言えば、最近俺、全然バイオリンやってないな。俺も彩も寝てばかりだったし……」

 「それなら今から、久々のバイオリンレッスンやりましょうか?」

 「良いの? とはいっても、俺のバイオリン家に置いてきてるんだけどね……」

 「一応わたしのバイオリンは病室にあるんですけど……消灯時間過ぎてから演奏するのは、いくら屋上とはいえ控えてるんです。万が一、寝ている患者さんを起こしてしまったら申し訳ないですから……。なので、構えの確認でもしませんか? 久々でしょうし、こうして基礎を確認するのも悪くないと思います」

 「じゃあ、そうさせてもらおうかな。えーっとこんな感じだっけ?」

 俺は左肩にバイオリン本体を乗せ、右手で弓を持つ構えを取る。

 「いい感じです。三ヶ月前とは大違いですね」

 「彩の教え方が上手だからだよ」

 「おだてても何も出てきませんよ。でも、もう少し左手は上げたほうが良いですね」

 彩は俺の背後に回ると、俺の左手を押し上げた。

 「これでいい?」

 「はい。あと、右手はもう少し下に」

 「オッケー」

 「頭はもう少し傾けて」

 「はい」

 「また左手が下がってしまいました。上げましょう」

 「そうか……?」

 「ええ」

 「こうか」

 「あっ、また右手が……」

 というようなやり取りを繰り返すこと三周。

 「ねえ……。わざとやってるでしょ」

 今まで、こんなに念入りに構えを確認されたことはない。

 「……すみません」

 申し訳無さそうな彩の声が背中から聞こえてくる。

 「まあ良いけどさ。こうしてもらうと、ちょっと暖かいし」

 腕を通して彩の体温が伝わってくる。

 「わたし……人肌が恋しいんです。今回は三ヶ月も一人ぼっちでしたから……」

 「一人は寂しいよな……」

 夢の中でずっと過ごしてきた彩の気持ちを完全に理解することは出来ない。けれど、俺も似たような悪夢は見たことがある。だから暗闇の中、一人で取り残されるのが恐ろしいことはよく知っている。

 「はい……。寂しいです」

 「俺に出来ることなら、何でも言ってよ」

 「じゃあ……こうしても良いですか?」

 そのまま彩は、背後から俺に抱きついた。柔らかな感触が背中を通して伝わってくる。

 「もちろん」

 そのまま俺は直立不動の姿勢をとっていた。というか、その体勢しか取れずにいた。

 冬の夜風に吹かれて一旦は落ち着いていた俺の心拍数が、再び急上昇する。

 自分が意識している女の子に、こうして抱きつかれたら誰だってこうなるだろう。

 こういう時、どうすれば正解なのか俺は知らなかった。だから、考えに考え抜いた挙げ句、自分のやりたいようにすることにした。

 「ねえ彩」

 「どうしました?」

 「ちょっと一旦、腕を解いてもらっても良い?」

 「あっ、そうですよね……。こんなにピッタリ抱きついて、陽斗くんに迷惑をかけてしまいましたね……」

 彩は寂しげな様子でゆっくりと両腕を放した。その瞬間、俺は勢いよく反転し、彩を抱きしめる。

 「背中はもう十分温まったからさ……今度はこっちが良い」

 こんな強引な真似をして彩に嫌われないだろうか、とか、そんな悩みは今の俺には無かった。思うがままに行動するのは、得意分野だ。

 俺の行動に、彩は無言で答える。最初の数秒こそ驚いていた様子だったが、すぐに俺の体に両手を回した。

 ハニーミルクのような、ふわりとした甘い香りが鼻腔をくすぐる。いつの間にか俺の心臓は、落ち着きを取り戻していた。

 生きててよかった。

 俺は強く思う。もしもあのまま死んでいたら、こうして彩と一緒にいることは出来なかった。

 以前なら、こんなこと絶対に考えなかっただろう。人生なんて所詮暇つぶしに過ぎないのだから、生に執着することなど無意味だと思っていた。そんな俺が変われたのは、間違いなく目の前の彼女のお陰だ。

 ああ間違いない。俺はようやく自分の気持ちに自信を持つことが出来た。やっぱり俺は彼女のことが……。

 「彩」

 「なに?」

 「彩に伝えたいことがあるんだ」

 俺が手を離すと、それにつられて彩も名残惜しそうに両腕を開放する。安心してほしい、すぐにまた抱きしめるから。でも今だけは、彩の目を見て話さなきゃいけないと思った。

 「彩」

 俺は目の前の女の子の名前を呼ぶ。

ベテルギウスの赤い光を反射する透き通った瞳。それを縁取る、きれいに整えられたまつげ。雪のように白い肌に、寒さで少しに色づいた頬。そして白い息を吐き出すピンク色のみずみずしい唇。俺はその美しさに思わず見惚れる。辺りには誰もいない。俺たちを見守るのは、夜空の星々のみだ。思いを伝えるのに、こんなに適した場所はない。

 気づけば俺の口からは、するりと言葉が漏れていた。

 「好きだ」

 たった三文字の言葉。けれど破壊力は十分だったようで、彩は「えっ……」と小さなうめき声を上げたまま、その場に立ち尽くしている。

 「俺は彩が好きだ。彩はいつも輝いていて、俺のことを照らし続けてくれる。初めて会った時の衝撃は今でも忘れないし、もしかしたらその時点で俺は彩に一目惚れしていたのかもしれない。俺はこれからも、彩の隣で輝いている姿が見たい。どうかこの先も、俺のことを照らし続けてくれませんか」

 俺は彩の瞳を見つめながら返事を待った。彼女も俺のことをじっと見つめている。その瞳に映る俺の姿は、気のせいだろうか、少しずつ濃くなっているように見えた。

 彩の口角がキュっと少し上がる。穏やかな笑みが俺の視界を包み込む。そしてピンク色の唇が開きかけたその瞬間……。

 俺の両腕にずしりと体重が預けられた。サラサラとした黒髪がふわりと広がり、遅れて甘い香りがやってくる。

 「……そう来たか」

 俺の胸の中で、彩はスヤスヤと寝息を立てていた。

 これだけ条件が整った状態で告白したというのに、締まらない最後になったことは少し残念だ。まあでも、これはこれで俺らしい。せいぜい後の笑い話になるくらいで、悲観するほどのことではないだろう。

彩の隣で彼女の輝きが見られる限り、もう俺は迷わない。YouTubeにバイオリン、やるべきことをやるだけだ。それが俺の生きる意味なのだから。

俺は胸の中の彩をもう一度抱きしめた後、彼女の膝裏と背中に手を通し、そのまま抱え上げた。俗に言うお姫様抱っこというやつだ。初めてやってみたが、彩が軽いからだろうか、意外に病み上がりの体への負担は小さかった。

 告白の返事は、次に目が覚めた時に聞けばいい。明後日には薬も届くのだ。焦る必要は全くない。

俺の体はフワフワとした高揚感に包まれていた。これからのことを考えながら、俺は鼻歌交じりに彩を病室のベッドへと運んだ。

それから半年が経過しても、彩が目覚めることはなかった。

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