第25話

 黒、黒、黒。

 俺の視界は、たった一つの色に覆い尽くされていた。まぶたを閉じても開いても、映る景色は変わらない。

 ここはどこだ?

 まるで水中にいるような気分だ。全身を動かすと、僅かな抵抗が手足を押し返す。

 ああ……。

 ここで俺は思い出す。自分は刺されたのだと言うことを。

 俺、死んだんだな……。

 そのことを意識した瞬間、心が、体が、氷のように冷たくなっていくのを感じた。

 でも、これで良かったんだ……。

 そんな考えが、頭をよぎる。

 もともと俺は、長過ぎる人生を憂鬱に思っていた。あと百年も生きるなんて冗談じゃないと考えていた。だから、こうして唐突に人生が終わったことは俺にとって嬉しいことのはずなのだ。少し死に際に痛い思いはしたが……。

それに……無意味だと思っていた俺の人生も、最後の最後に僅かだが意味のあるものになった。何せ、彩の命を守ることが出来たのだから。

もしもあの時、俺が動いていなかったら刺されていたのは彩だろう。それだけは、絶対に阻止しなければいけない。だって、彩のバイオリンの才能は本物なのだから。彼女には、これからも多くの人にその音色を届ける役目がある。

凡人一人の命で、光り輝く才能の持ち主を助けることが出来たのだ。こんなに割の良い取引があるだろうか。

 なんだか眠くなってきたな……。

 こうして己の最後を振り返っている間にも、体はどんどん感覚を失ってゆく。手足が、指先が、凍りついて動かない。後はここで、ゆっくり氷の彫像になるのを待つばかりだ。

 皆、おやすみ……。

 俺は全身の力を抜くと、まぶたを閉じる。脳裏に浮かぶ景色はぼやけ、波紋が広がる。意識が段々、曖昧になってゆく。

 こうして俺の人生は終りを迎えた。

 ……はずだった。

 しかし一向に俺の意識がシャットダウンする様子は無い。むしろ一旦そこまで沈みかけた意識が、引き上げられているような気がする。

 一体何が?

 状況が飲み込めず混乱していると、ふと手先に異変が起きていることに気がついた。

 温かい?

 ついさっきまで氷のように冷え切っていた指先から、ぬくもりを感じる。まるで、誰かに手を握られているような感覚だ。

 しかし、この空間には俺しかいない。ならば、これは一体どういうことか。俺は一つの可能性に行き着いた。

 もしかして、俺はまだ生きているのか?

 死にかけて、病院のベッドの上に横になって皆に手を握られている。そう考えれば今の状況も納得が行く。

ならば……。

俺は神経を研ぎ澄ませた。すると周囲は途端に騒がしくなる。

「陽斗! こんな所で倒れてるんじゃない!」

「陽斗! しっかりしなさい!」

「兄さん! 起きなさいよ! じゃないと兄さんの部屋、わたしが勝手に使っちゃうんだからね!」

「おい陽斗! お前が学校に来ないとつまらないんだよ。お陰で最近はスリーポイントシュートの精度も落ちてるし……。責任取れよ!」

父さん、母さん、千春、高貴、皆の声が少しくぐもって鼓膜に響く。そして最後に、

「陽斗くん、陽斗くん……」

か細くって、今にも消えてしまいそうな透明の声が聞こえてきた。

もしかして彩、泣いている?

その声は細かく震えていて、少なくともいつもの彼女とは全然違う。

もしも俺のせいで彩が泣いているのだとしたら……。

それはダメだ。

彩を悲しませたくない。彩に涙は似合わない。俺が一番好きなのは……

ニコリと微笑む彩の姿が脳裏に浮かぶ。

あぁ……一度欲が出てしまったらもう止まらない。

ついさっきまで死ぬ覚悟が出来ていたというのに、今は笑顔の彩が見たくて見たくてたまらなかった。

もっと彼女と一緒にいたい、もっと彼女とYouTubeを続けたい、もっと彼女のバイオリンを聞きたい。次々と欲望が湧いて出てくる。

チカリ、と端の方で何かがきらめいた。みるみるうちに、それは明るさを増してゆく。俺は右手を、そのきらめきに向かって伸ばした。

辺り一面が真っ白に照らされる。

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