第24話
二〇二二年一月二九日、ゆずプリンチャンネルの登録者数は一万人を突破した。チャンネル開設から三ヶ月での一万人突破は、かなり上出来と言っても良いペースだ。すぐに一万人突破の報告動画を撮影してアップした所、視聴者からも多くの祝福のコメントが寄せられた。
チャンネルのこれからの発展を願うコメント、彩をべた褒めするコメント、千春の再出演を熱望するコメント、そして意外なことに《ゆずさんもこの短期間で随分バイオリン上達しましたね! これからも楽しみにしています》という俺に関するコメントもあった。
こうやって動画のコメント欄を見るのは、やっぱり楽しい。こうしていると、彩の優れた才能が多くの人に広まっていることを実感出来る。本当にYouTubeを初めて良かったと思う。
唯一気がかりなのは、チャンネル創設初期から批判コメントばかり繰り返している一人のユーザーだ。わずか数時間前にも《プリンちゃんも、プリンちゃんにまとわりつく、ゆずとかいう男も俺は許さない。今日こそ、ふたりとも痛い目に遭わせてやる》というコメントを残していた。単なるいたずらだとは思うが、例え文字だけだとしても、こうして直接悪意を向けられると気分は悪い。
たった数行のコメントでも、これだけダメージを受けるのだ。これまで一日に数百件もLINEで誹謗中傷を受け続けていた彩はさぞかし辛かったことだろう。今は俺の勧めで、浅村さんのLINEをブロックしているので、少しは負担も減っただろうが……。
眉間にシワを寄せながら、俺はコメント削除のボタンをタップする。その時、一階から声が聞こえてきた。
「兄さん、準備出来たよ~!」
「オッケー。今行く」
俺は大きな声で返事すると、階段を駆け下りた。そうだ、眉間にシワなんか寄せている場合じゃないのだ。だって今日は……
パーン!
リビングへと続くドアを開けた瞬間、銃声のような音が部屋に響く。少し遅れてから、色とりどりのテープが俺の頭にひらひらと落ちてきた。
「おい千春、びっくりするだろ」
自分の頭をはたきながら、俺は不満げな視線を千春に向ける。
「驚かせたくてやったんだもん!」
千春は自慢げに胸を張った。いや、それ自慢することじゃないから。
「でもこれでクラッカーのテストもオッケーだね。彩先輩、喜んでくれるかなぁ……。あっ、散らかったテープは兄さんが片付けといてね」
「おい……」
千春は興味を失ったように俺から視線をそらすと、パタパタと忙しそうに動き回る。いつもソファに寝転がっているのに珍しい。まあでも、こうして俺たちのことを祝ってくれるのは嬉しいけれど……。
今日は夕方から、我が家でチャンネル登録者数一万人突破のささやかなパーティーを開催する予定なのだ。発案者は千春。昨日の晩、一万人突破の動画をアップしてすぐに俺の部屋に飛び込んできた。この行動の早さは、千春の長所の一つだ。
しかも運のいいことに、今日は彩も目覚めていた。今朝LINEを送ったら《楽しみです!》と返信が帰ってきたので問題ないだろう。あとは今日一日、突然眠らないことを祈るばかりだ。
テープの回収を終えたところで、台所の千春から声が飛んできた。
「じゃあそろそろ兄さん、彩先輩を呼びに行って来てよ。わたしは最終の仕上げをやってるから」
千春は腕まくりしながら、目の前のプリンを見つめている。
「分かった」
俺は彩に《今から迎えに行く。病院の外で待ってて》とLINEを送った。すぐに《了解です!》と返事が帰ってくる。
「行ってきます」
コートを羽織り、首にマフラーを巻いて俺は玄関の扉を開ける。そして歩道に足を踏み出しかけたその時、郵便受けから不自然に一枚の用紙が飛び出ているのを見つけた。
何だこれ?
何となく気になって、俺は用紙を手に取る。どうせ広告のチラシか何かだろう。そんな軽い気持ちだった。だから俺は、目に飛び込んできた文面が信じられなかった。
《今日、お前のせいで彩ちゃんは痛い目にあう。俺はお前の家も、彩ちゃんのいる病院も知っている。お前だけは許せない。せいぜい自分の無力さを嘆くと良い。 asa0112より》
乱雑な文字でそう書き殴られていた。
全身に悪寒が走る。外は寒いはずなのに、背筋を汗が伝う。俺は慌てて顔を上げ、周囲を見渡す。しかし誰もいない。
asa0112。間違いない、これまでずっとコメント欄で誹謗中傷を繰り返してきたアカウントだ。しかしどうして俺の家がバレた? 家の外観は一度も撮影していないのに……。
グルグルと思考の渦に飲み込まれそうになる自分を、俺は叱咤する。今は彩の方が先決だ。
《彩! 今すぐ病院の中に戻るんだ!》
俺は急いでLINEを送る。こいつに彩が入院している病院がバレているということは、入り口で待ち伏せされている可能性があるからだ。
俺は用紙をぐしゃぐしゃに丸めてコートのポケットに突っ込むと、病院に向かって全力で走り出した。大した距離では無いはずなのに、今日は無限に遠く感じられる。
一瞬で全身に汗が吹き出す。体が酸素を求めている。肺が軋むように痛い。
オレンジ色の夕日が背後から俺を照らす。前方に伸びた長い長い影が、決して追いつけない俺を馬鹿にするように先をゆく。脳内で、俺自身が囁いている。
なに必死になっちゃってんの? 俺らしくないじゃん。
その囁きは意味を持った電気信号として脳から全身へ伝達され、俺の走りを減速させようとする。
けれど俺は、大きく首を横に振って全力であらがった。
確かに俺らしくない。いざ病院についてみれば、彩は何事もなく笑顔で俺を迎えてくれるかもしれない。この全力疾走は無意味なものになる可能性だってある。
けれど……!
俺は動きを緩めようとする両足を力強く叩いた。
もしも彩の演奏する姿が、そして笑顔が見られなくなる可能性が一%でもあるのなら、俺は絶対に歩みを止めない。いつまでも側で彼女が輝いている姿を見ていたいから。
「彩!」
病院の入り口近くに到着すると、そこには人だかりが出来ていた。
その人だかりをかき分けた先には……左手で彩の口元を押さえつけ、右手で彼女の喉元に刃物を突きつける男の姿があった。見た目は大学生くらいだ。
「おい! 何してんだよ!」
全身の血液が沸騰しそうな感覚に襲われる。体が勝手に動き出す。しかし……
「それ以上近寄ったら、このナイフで彩ちゃんを刺す」
その一言で、たちまち俺は無力化される。
いや、諦めるな……。警察が来るまで時間を稼げれば俺の勝ちだ。
これだけ人だかりが出来ているのだ。間違いなく誰かが警察を呼んでいるに違いない。
「お前は誰だ……?」
俺は目の前の男をにらみつける。予想が正しければ、こいつはきっと……。
「浅村(あさむら)正雄(まさお)だ。柚木陽斗くん。君にはいつもお世話になっているよ。主にYouTubeのコメント欄でね。後、彩ちゃんに僕のLINEをブロックするよう入れ知恵したのも君なんだって?」
彩の言っていた浅村さんとは、間違いなくこいつのことだろう。浅村は目を大きく開かせると、血走った眼球でこちらを見つめた。
「あんたはLINEでもYouTubeでも誹謗中傷が酷すぎるからな……。どうしてそこまで彩のことを嫌う?」
「彩ちゃんを嫌う? 君は一体何を言っているんだ。僕は彼女の演奏が大好きなんだよ」
浅村の言葉に、俺は眉をひそめる。言っていることとやっていることが一致しない。そんな俺の様子を見て浅村は、やれやれ仕方ないといった様子で首を振る。
「僕が彼女の演奏を初めて聞いたのは、去年のバイオリンの発表会の時だ」
突然、浅村は己の過去について語り始める。
「妹もバイオリンを習っていてね、それでついて行ったのさ。正直バイオリンなんて、これっぽっちも興味無かったから、早く家に帰りたいって思っていたけどね。まあ発表会は大体予想通りだったよ。皆、上手なのかもしれないけれど、僕には正直良し悪しなんてよく分からないし、家でゲームしている方がずっと楽しかった。けれどただ一人、俺を感動させる演奏をしてくれた人がいたんだ。それがこの子、上島彩だ」
浅村は黒目で彩を指し示す。
「あんな体験は初めてだった。彼女の演奏が始まった途端、全身に電流が走った気がしたよ。あの音色と共鳴している感じに、僕は激しく感動した。だからね、発表会が終わった後に僕は勇気を出して彼女に話しかけたのさ。もっと彼女の演奏が聞きたかったから。それで頑張ってLINEの交換までして、僕の感想を彼女に伝えたんだ。でも、そこからが僕の悪夢の始まりだった。せっかく連絡しても、彩ちゃんはそっけない返事ばかり。せめて僕と同じ長さの文章を打つのが礼儀だと思わないかい? まあ百歩譲ってそれはいいとしても……それからもっと信じられないことを彼女はしたんだ。なんとバイオリン教室に来なくなったんだよ。妹からその話を聞いた時、僕はどうしていいか分からなかった。直接LINEで尋ねても、《バイオリンを続ける気力が無くなったから》って返信しか帰ってこないし……。僕はもうね、あの日、希望を失ったんだ。唯一僕に出来ることは、彩ちゃんにLINEを送り続けることだけ。でも、どんなに彼女に送ってもたまにしか返事は帰ってこない。彼女と会話しようと思っても、彼女がどこに住んでいるのか分からない。本当に絶望としか言いようのない状況だった」
首を横に振りながら、浅村は大きくため息をつく。
「でもね、そんなある日、突然手がかりは現れたんだ。彼女の演奏が聞けなくなって絶望した僕は、YouTubeでバイオリンの演奏動画を日々漁っていたんだよ。せめてもの代わりになればと思ってね。でも、どれも僕の感性には合わなかった。つらい日々が続いた。もうダメだと思っていた。そんな時だよ、僕がYouTube上で彩ちゃんと再会したのは」
浅村は不気味に口角を吊り上げる。
「それはもう嬉しかった。でも、嬉しかったのはほんの一瞬だけだ。僕には、もうバイオリンは辞めたって言っていたのに、実際には彩ちゃんはバイオリンを続けていた。それも、ゆずとか言う訳のわからない男と一緒にね。つまり彼女は俺に嘘をついていたってことだ。嘘がダメだってことくらい、小学生でも知ってるよね?」
彩の喉に刃物が、より一層強く押し付けられる。彩からうめき声が聞こえるが、俺は何も出来なかった。
「だからそのことを直接教えてあげないとって思って、手がかりを求めて僕は必死に動画を見続けたんだ。コマ送りで見たり、時には拡大して見たり。苦労したよ。でも、僕は見つけた。水たまりに近所の道路標識が写っていたんだ。きっと雨がやんで、すぐに撮影したんだろうね。夜の動画だったから暗い上に、写っている看板も凄く小さいから解読するのは大変だったけど、でも僕はやり遂げたんだ。あとはその標識の場所を特定して、周囲で待機していれば、いつか絶対に見つけられるって確信した。だから寒い中、僕はずっと待ったよ。そして遂に君たちを見つけた」
浅村は、ギリリと奥歯を噛み締めた。
「随分と楽しそうにしてたね? 僕にこんなにつらい思いをさせておきながらさ……。正直僕は、すごく腹がたった。これは普通に言葉で注意するだけじゃ済まされないって思ったよ。だから今僕は、こうして彩ちゃんにキツイお仕置きをしているのさ。そして彼女を誑(たぶら)かした君にもね」
長い独白を終えて、浅村はより一層目を見開いた。
対する俺は、この話を聞いてどう思ったのか。
ふざけんな?
もちろん、そういう感情はかなりある。けれど、俺が真っ先に思ったのは……
「お前と俺は、凄く似てる……」
ということだった。
浅村は不快そうに眉間にシワを寄せる。
「僕と柚木陽斗、君が似てるだって? 失礼なこと言うな! 君は彩ちゃんを嘘つきの道に引きずり込んだ張本人じゃないか」
「いや、やっぱりよく似てるよ。俺とあんたは、どちらも彩の演奏に一目惚れしたんだよ」
俺は舌で唇を湿らせてから話を続ける。
「あんたが言っていた音色と共鳴する感じ。俺だってよく分かる。初めて聞いた時、いや、今でも全身が震えるよ。彩の演奏が聞けなくなって、YouTubeでバイオリンの動画を探しまくったのも一緒だ。皆上手なんだけど、彩と同じレベルで心に響く演奏は無いんだよな。本当に俺たちよく似てるよ」
浅村を説得するうちに、自分の考えまで整理されてゆくのを俺は感じていた。
「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。お前、彩ちゃんだけでなく僕までも誑かそうとしているな!」
浅村は両目を強くつぶり、大きく首を左右に振っている。
「嘘じゃない。俺とお前はそっくりだ。もっと前に知り合っていたら、きっと良い友だちになれたと思う。いや、今だってまだ遅くない。お前は、ほんの少し道を間違えただけなんだ。だからそのナイフを離すんだ! 今ならまだ戻れる! もしもそれ以上先に進んだら、もう崖しか待ってない。これが最後のチャンスなんだよ!」
警察はまだか。
周囲を見渡すけれど、その気配は無い。
「僕が一体何を間違えたっていうんだよ! 変な言いがかりはやめろ!」
「彩に脅迫のメッセージを送ったり、後をつけたり、そしてなによりも今、首にナイフを突きつけていることだ」
俺と浅村は似ている。けれど彩に対する接し方という点では決定的に異なっていた。
「俺は……間違ってない。俺は、俺は……」
浅村はナイフを落とすと、両手で頭を抱えた。
「彩!」
俺が合図すると、彩は急いで駆け寄ってくる。
「良かった……」
俺は彩を強く強く抱きしめる。彼女のぬくもりを全身で感じる。もう二度と、こんな目に合わせないように。
「陽斗くん、ごめんなさい。わたしの不注意のせいで……」
「悪いのは俺だよ。本当に、本当に無事で良かった……」
彩を無事に救出出来た。その喜びと安堵で俺の頭の中は満たされていた。
だから、ついさっきまで張り詰めていた神経は一気に弛緩していた。
「俺をほったらかしにして、二人で何やってんだよ! やっぱりお前達は許さない!」
気づけば浅村はナイフの柄を両手で握り、こちらに向かって突進していた。俺たちとの距離はおよそ三メートル。
油断した。
自分の詰めの甘さを後悔しながらも、俺の体は勝手に動いていた。ギリギリのタイミングで浅村と彩の間に滑り込む。
その瞬間は意外とあっさりしていた。
ナイフの先端が、俺の腹にするりと収まる。状況に脳が追いつかず混乱していると、浅村が腰を抜かして後ろに倒れた。
「ぼ、僕は悪くない。悪いのはこいつだ……」
俺を指差したまま、ゆっくり後ろに後退りする。
「あ、陽斗くん……」
彩が、真っ青な顔でこちらを見つめていた。彩の視線の先に目を向けると……紅の池が出来ていた。
俺、刺された?
脳が状況を認識した瞬間、重くて鈍い痛みが腹部を襲う。立っていられなくなって、俺はその場に倒れた。みるみるうちに視界が薄れてゆく。
「陽斗くん。陽斗くん!」
彩が俺を呼ぶ声が、脳内で反響して聞こえる。「大丈夫」と伝えたくて口を動かすが、漏れるのは僅かな空気ばかり。
遠くから鳴り響くパトカーと救急車のサイレンの音を最後に、俺の意識はプツリと途絶えた。
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