第23話

 気づけば二〇二一年は終わり、俺たちは二〇二二年を迎えた。ただ、新年を迎えたとは言え、やることは変わらない。冬休み中も、学校が始まってからも、俺と上嶋さんは頻繁に会っては撮影をしていた。

しかしここ最近、そのペースが急激に低下している。何故なら、上嶋さんの病状が悪化して、平気で二日、三日、眠り続けることが多くなったからだ。

 だから今日のように、上島さんが俺の家を訪れる日は、とても貴重だ。

 「彩先輩、お久しぶりです~!」

 「千春ちゃん、久しぶり~!」

 両腕を広げる上嶋さんに誘われるように、千春はその胸に勢いよく飛び込んだ。

 「彩先輩、一週間ぶりじゃないですか。もっともっと家に来てくれて良いんですよ!」

 病のことを知らない千春は、無邪気にそんな事を言う。

 「ありがとう千春ちゃん。そんな千春ちゃんがわたしは大好き」

 そう言って、上嶋さんは千春を強く抱きしめる。

 「彩先輩~」

 千春は満更でもない様子だった。


 「なんだか今日は、柚木先輩に迷惑をかけてしまいそうな予感がします」

 そんな宣言とともに、いつもどおり俺の部屋で上嶋さんのバイオリンレッスンは始まる。しかし宣言とは裏腹に、相変わらず上嶋さんのレッスンは分かりやすかった。指示は明確で、どこをどう直せば良いのかを的確に教えてくれる。楽譜すら満足に読めなかった俺が、わずか二ヶ月足らずの練習で、初心者用の楽曲とは言え弾けるようになったのは上嶋さんの教え方が上手だからだろう。

唯一、これまでと少し違うと感じたのは……

 「もう少し腕の位置は下げてください」

 「う、うん……」

 「左手はこの辺を掴んでください」

 「あ、ああ……」

 「肩に力が入りすぎていますよ? もっとリラックスしてください」

 「分かった……」

やけにボディタッチが増えた点だ。

 これまでの上嶋さんは目の前でポーズを構えて指示していたが、今日の上嶋さんは背後から俺の手や腕を掴んで教えてくれた。普段よりも距離が近いので緊張してしまう。

 もしかして上嶋さんが言っていた迷惑とは、これのことだろうか?

だとしたら、こんなの迷惑でもなんでも無い。彼女が寂しい思いをしていることは、重々承知しているのだから。三日間寝るだけで、体感では約一ヶ月、誰とも会うことが出来ないのだ。人肌が恋しくなるのも無理はない。実際、千春と抱き合って挨拶するようになったのも最近のことだ。

 だから俺は、多少の緊張感と高揚感を抱えながらも普段どおりにレッスンを受けた。


 「今日の柚木先輩の演奏もいい感じでした。バイオリンの基礎はもう身についているので、一人で楽譜を練習するだけでも十分上達すると思いますよ?」

 レッスンを終えて、上嶋さんを病院まで送り届けた俺は、現在病室で彼女と雑談していた。

 「とはいっても、上嶋さんのアドバイスが無いとやっぱり俺には無理だよ……」

 「珍しく弱気ですね……。もしかして、わたしのこと心配してくれてるんですか?」

 俺はいつだって弱気だ。もしも強気に見えるのだとしたら、それは上島さんが側にいるからだ。彼女の輝きに照らしてもらわなければ、俺は無力な凡人に過ぎない。

 「そりゃ心配するよ。だって最近の上嶋さん、起きてる時の方が珍しいじゃん……」

 もしもこのまま上嶋さんが寝たきりなんてことになった時、一体俺はどうするのだろう?

 一人になった時、YouTubeやバイオリンを続けるだろうか? いや、きっと続けない。

 いつか来るかも分からない将来のことを考えて、俺は力なくうなだれる。本当は上嶋さんの方がずっと怖いだろうに、何をやっているんだ俺は……。

 「そんな柚木先輩に、一ついい知らせがあります」

 上嶋さんは、ベッドの上で得意げに人差し指を立てた。

 「何?」

 慌てて顔を上げる。

 「もしかしたら……わたしの病が治るかもしれません」

 「本当に!?」

 俺は立ち上がって、思わず上嶋さんの手をつかむ。その瞬間、彼女の白い頬に茜がさした。

 「ご、ごめん……」

 突然の吉報に興奮しすぎたようだ。俺は手を離して座り直した。

 「い、いえ。気にしないでください。それで病の話なのですが……。海外でわたしと同様の症例に悩んでいた患者さんが、とある治療薬を投与したら回復したらしいんです」

 「じゃあ、その治療薬さえ手に入れれば!」

 「治る可能性もあります。ただ、本来その薬は別の病の治療に使われるものなので、確実に治るという保証はありません。おまけに、寝ている状態ではどうやらその薬は効かないらしいんです。つまり、治療薬を手に入れる前にわたしが夢の世界から出られなくなったら、もう一生治りません」

 「じゃあ今すぐその薬を手に入れないと……」

 焦る気持ちを抑えきれず、俺は前のめりになる。

 「ええ。ただ海外の薬なので、取り寄せるのに時間がかかるんです。色々手続きとかもあるらしくて……。お医者さんの話によると、どうやら届くのは二ヶ月後らしいです」

 「二ヶ月……」

 二ヶ月後なら、きっと上嶋さんはまだ寝たきりになんてなっていないはずだ。俺は自分に言い聞かせる。けれど、これまで以上に病の悪化のペースが上がったりしたら……。

 「柚木先輩、焦りすぎですって。わたしのことを心配してくれるのは嬉しいですけど、先輩は先輩なんですから、もっとドーンと構えてください」

 エヘヘと笑う上嶋さんの姿を見て、一旦俺は落ち着きを取り戻す。

 「『先輩は先輩』か……。でもよく考えたら、夢の中での時間も合わせると上嶋さんの方が先輩なんじゃない?」

 「確かに……。半年前に病気になって、一日平均で半分くらい寝ているとすれば……」

 指折りしながら上嶋さんは計算する。

 「既に二年以上夢の中で過ごしている計算になります」

 「じゃあ俺の一年先輩じゃないか。これからは千春を見習って彩先輩って呼んだほうが良いかな?」

 「柚木先輩に先輩って言われると、何だか体がムズムズしますね……」

 「彩先輩、何か先輩らしいこと言ってくださいよ」

 俺の無茶振りに、上嶋さんは「えぇっ……」と困った表情を浮かべる。しかしそれは一瞬で、コホンと一つ咳払いをしてから、普段と少し声音を変えて喋り始めた。

 「き、君が後輩の柚木くんだね? なんて呼んだら良いかな? 陽斗くん? それとも後輩くんとかが良いかな?」

 言い終わってすぐ、上嶋さんは両手で顔を抑える。「恥ずかし~」なんて小さな声を漏らしていた。

 「上嶋さんが俺のこと《君(きみ)》って呼ぶの、何だか凄く新鮮。結構、俺は好きかも」

 「そ、そうですか? じゃあこれからは柚木先輩のこと君(きみ)って呼びましょうか?」

 「それも悪くはないけど、人称代名詞だけじゃ会話しづらくない?」

 「人称代名詞って……。随分難しい単語知ってるんですね。でも確かに、君(きみ)だけじゃやりづらいかもしれません……。じゃあ《陽斗くん》はどうですか?」

 「良いよ。じゃあ俺は上嶋さんのことなんて呼ぼう……。やっぱり彩先輩が良いかな?」

 上嶋さんは横に小さく首を振る。

 「やっぱり先輩に先輩って呼ばれるのは慣れません。それに、わたし思うんです。人が精神的に成長するのは、人と関わっている時だけだって。だから、暗闇で一人ぼっちで過ごしているだけのわたしは、やっぱり肉体的にも精神的にも先輩の後輩です。そういうわけで、先輩って呼ぶのは無しでお願いします。もしも呼び方を変えたいのでしたら、普通に《彩》で良いですよ」

 「でも、上嶋さんは君付けで呼んでくれるのに、俺だけ呼び捨てってのは失礼じゃない?」

 「いいんです。それがわたしの望みですから」

 そういうことなら……。

 「……分かった。じゃあこれからよろしくね、彩」

 「よろしくおねがいします、陽斗くん」

 一瞬訪れる静寂。

 しばらくして、上島さんはブツブツとつぶやき始めた。

 「陽斗くん、陽斗くん、陽斗くん、陽斗くん……」

 「ちょっと上島さん、どうしたの? 壊れたロボットみたいになっちゃって……」

 俺の言葉に、上島さんは心外そうな様子で首を振った。

 「別にわたしは正常です! 新しい呼び方を口に馴染ませようと思って、繰り返し言ってみただけですから……。それに、わたしは上島さんじゃなくて彩です」

 上島さ……ではなく彩は、プイッと横を向く。

 「そう怒らないでって。理由は分かったから。じゃあ俺も真似させてもらうよ。彩、彩、彩、彩……」

 「陽斗くん、陽斗くん、陽斗くん、陽斗くん……」

 なるほど。確かにこれはいい方法かもしれない。

 最初は違和感だらけだった彩という呼び方が、徐々に俺の体へ浸透していくのが感じられる。

 ただ、一つ問題もあった。

 名前と同時に、恥ずかしさも体へ染み渡っていくのだ。

 心拍数が急に上がる。目の前の彩の、琥珀色の瞳を見ていられなくて目をそらす。

 何故だ?

 俺は自分自身に問いかける。こんな些細なことで心拍数が急上昇するなんて、普通はありえない。生まれてはじめての感情に、俺は戸惑いを隠せなかった。

 もしかして俺が今抱えている感情って……

 答えに行き着く直前、彩は突然、俺の名前を連呼するのを辞めた。

 「あっ、やっぱダメだ」

 「えっ?」

 「陽斗くんに迷惑かけちゃ……」

 最後まで言い切ることなく、彩の上半身はゆっくり前方へ倒れてゆく。俺は反射的に両腕で受け止めた。途端に、柔らかな感触、いい香り、ほのかなぬくもりが同時に伝わってくる。

 彩はそのまま、俺の腕のなかでスヤスヤ眠り始めた。もしかしてバイオリンのレッスンが始まるときに言っていた迷惑とはこのことか。

 「全く、彩の勘は本当によく当たる」

 そうつぶやきながら、俺は彩を丁寧にベッドに横たえた。

 俺の心臓は、ますます激しく暴れまわっていた。

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