第22話
「おまたせしました。お久しぶりです、先輩」
翌日、病院前で待っていると、無事に制服姿の上嶋さんが姿を現した。軽く右手を振りながら小走りで俺のもとへやってくる。
「おはよう。ちゃんと起きれたんだね」
「ええ。今夜はうなされることもなく、夢の中でしっかりバイオリンの練習が出来ました。これぞ本当の睡眠学習ですね」
上島さんは自信満々の様子だ。
「お疲れ様。じゃあ今日の撮影は期待しても良いのかな?」
「はい。夢の中で丸三日練習した成果を見せてあげますよ。柚木先輩の方はバイオリンの練習進んでいますか?」
「ああ、俺は……」
俺たちは、そんな雑談をしながら通学路をゆっくりと進む。
良かった。
俺は心のなかで短くつぶやく。以前のように無理している様子は、今の上嶋さんには見受けられない。おそらく悪夢を見ていないというのは本当のことなのだろう。こんな俺でも、ほんの少しだけ上嶋さんの役に立てているのだと思うと嬉しくなる。
そんな風に感傷に浸っていると、いきなり背中をどつかれた。
「よう、陽斗!」
振り返ると、そこにはニヤニヤとした表情でこちらを見つめる高貴の姿があった。
「おっす。なんだよそのニヤケ顔は……」
「いやいや、お前が他校の女の子と一緒に登校するなんて、珍しいこともあるもんだなと思ってな」
高貴はニヤケ顔を正し、視線を俺から上嶋さんの方へ向ける。
「はじめまして、陽斗の友人の平瀬高貴と言います。いつもYouTubeで見ていますけど、実物はもっと美しいですねぇ。陽斗とは一体、どんなご関係なんですか?」
「おい、上嶋さんを困らせるなって」
俺は高貴の頭を軽く叩いた。
高貴は俺の家族以外で唯一、俺たちのYouTube活動を知っている。チャンネル開設時に色々お世話になったお礼に教えたのだ。
そんな高貴のことを、上嶋さんは上から下までじっと見つめる。そして艶めかしい笑みを浮かべてから、ゆっくり口を開いた。
「はじめまして、上嶋彩と申します。わたしと柚木先輩の関係ですか? そうですね……。わたしは柚木先輩に守っていただいてます」
「守る? それってどういう……」
高貴は困惑した表情で上嶋さんを見つめている。
「それは……」
上嶋さんは体を少し横に傾けると……そのまま全身の力を抜いた。慌てて俺は、両腕で彼女を受け止める。思わず俺も脱力してしまいたくなるような、心地よい香りが鼻孔をくすぐる。何とか力は抜かなかったけれど……。
「こういうことです」
上嶋さんは、イタズラっぽい笑みを俺と高貴に向ける。
「あ、陽斗……お前、プリンちゃんと、そこまで進んでたのか……」
高貴は信じられないものを見たような表情で、こちらを見ていた。
「いや、俺と上嶋さんはお前の想像しているような関係じゃ……」
「昨日、『俺が守る』って言っていたのは、嘘だったんですか?」
「いや、そういうわけでは……」
高貴、上嶋さんの両名に見つめられて、俺の頭はフリーズした。
「そっかそっか。お前にも遂に……。じゃあ俺はお邪魔かな」
高貴はソロリソロリと俺たちのもとを離れていく。
「別に邪魔でもなんでもないって!」
「はいはい。せっかく掴んだ奇跡を無駄にするなよ? じゃあ後でな。プリンちゃん……じゃなくて上嶋さんも、またいつか」
そう言って高貴はいなくなってしまった。
「相変わらずあいつは……。何でもかんでも奇跡で片付けるなよ。俺は奇跡って言葉が嫌いなんだって……」
そんなことをつぶやきながら、俺は両腕から脱出した上嶋さんを見つめる。相変わらずそこには、薄っすらと微笑がたたえられていた。
「それで、さっきのはどういうつもりなの?」
以前の上嶋さんでは考えられない行動だ。
「すみません。ちょっとイタズラしてみたくなりました」
おどける上嶋さんに、小さくため息を一つ。
「まあ上嶋さんが楽しいなら、良いんだけどさ……。正直、結構驚いたけど」
上嶋さんは俺に向き直ると、表情を真剣なものに改めた。
「わたし、もう自分の気持ちには嘘をつかないって決めたんです。今この瞬間、わたしは凄く幸せです。例えバイオリンがあるとはいえ、三日間一人ぼっちだったので、人に触れ合えるのが嬉しいんです。人の体温が恋しいんです。だからこうして、喜びを全身で表してみました。不思議ですよね。今まであれだけ思っていることが言えなかったのに、先輩に病のことを話してからは、つっかえが取れたみたいに口が動くんですから」
「そっか……」
ならば俺から言うことは何もない。上嶋さんに心のままに行動してほしいと願ったのは、他でもない俺自身なのだから。
「じゃあこれからも、俺に出来ることがあったら遠慮なく言ってくれ」
「はい! これからのわたしは、今までとは一味違いますよ?」
上嶋さんは、いたずらっ子みたいにニッと微笑む。きっとこれも、彼女の一面なのだ。今までは家族くらいにしか見せてこなかったのかもしれないが。
そんな一面を俺にも見せてくれた上嶋さんに感謝しながら、俺は軽い足取りで通学路を進んだ。
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