第20話

 わたしに物心がついたのは何歳のことだろう? 二歳? 三歳? 今となってはもう分からないけれど、それでも一つだけはっきりしている事がある。わたしは昔から、言いたいことを口に出すのが苦手だった。

 幼稚園の頃だって、わたしは負けてばかりだった。どんなに頑張ってお気に入りのぬいぐるみを手に入れても、「彩ちゃん、そのぬいぐるみ、私にちょうだ~い」と言われたら「良いよ~」としか言い返せなかった。例え心の中では「わたしのぬいぐるみなのに……」と思っていても。

小学校でも中学校でもそれは変わらない。皆がやりたがらないクラスの委員などは全部わたしに押し付けられる。「嫌だ」って一言言えば済むだけの話なのに、それがわたしには出来ない。いつも愛想笑いばかり浮かべていた。

 そんなわたしにも、極稀に心からの笑顔を浮かべられる瞬間があった。それは家族と一緒にいる時と、バイオリンを弾いている時。

小学一年生の時に、両親の勧めで始めたバイオリン。最初のうちは何となく手を動かしていただけだったけど、次第にわたしはその魅力に気がついた。バイオリンを演奏すれば、それだけで自分の思いを周囲の人に伝えられるのだ。

それは、口下手なわたしにとっては本当にありがたいことだ。だから、その魅力を知ってから、わたしはますますバイオリンの練習に熱を入れた。発表会で皆に拍手してもらえるのが凄く嬉しかった。わたしの思いが皆に伝わっていることが実感出来たから。バイオリンがあれば、わたしは人並みに生きていけると思った。

 けれど、大好きなバイオリンも中学三年生の発表会を最後にやめてしまった。その理由は……やっぱりわたしが弱いせい。

発表会の後、わたしに話しかけてくれた浅村さんという人がいた。その人はどうやらわたしの演奏にとても感動してくれたみたいで、もっとわたしのことを知りたいからと連絡先の交換をせがんできた。こんなことは初めてだったので、わたしは喜んで連絡先を交換した。

ここまでは良かった。

問題はここからだった。

発表会が終わって家に帰ると、浅村さんから早速LINEが来ていた。その内容は、わたしの今日の演奏に対する長文の感想だった。わたしは嬉しかったので、その全てに目を通してから《ありがとうございます!》と返信した。しかし、その数分後に《それだけ?》《俺がこれだけ頑張って書いたんだから、彩ちゃんももっと書いてよ》と返信が帰ってくる。もう夜も遅かったので早く眠りたかったけれど、確かに失礼だったかもしれないと思って、わたしは数行の文を打ち込んでから眠りについた。

次の日、わたしのスマホには百件近いLINEの通知が来ていた。そのほとんどは、浅村さんからのものだった。わたしの返信に対する、さらなる感想。そして《まだ?》《早く返事してよ》といった、わたしを催促する文の数々。こんな経験は初めてだったから、わたしは思わずスマホをベッドに投げ出してしまった。けれど、そうしている内にも続々と通知が来て、スマホはひっきりなしに震えていた。

 この日以来、わたしは怖くてバイオリンのレッスンにも行けなくなった。もしも浅村さんがいたら……と思うと、足がすくんで動かない。家でバイオリンの練習をしようとしても、スマホが気になって満足に弾けない。勇気を振り絞って返信しても、すぐにダメ出しのLINEが降り掛かってくる。大好きだったはずのバイオリンが、いつの間にか恐ろしいものに変わっていた。

 やっぱりわたしなんかが、自分の思いを人に伝えようとしたのがいけなかったんだ。

 それは、口で伝えようが、バイオリンで伝えようが関係ない。そのことにわたしは気づく。

こうしてわたしはバイオリンを辞めた。突然のことだったから家族には凄く心配されたけど、わたしは何も言うことが出来なかった。一人で悩み事を抱えるのは、悪い癖だと頭では理解しているのに……。

 丁度この頃からだ。わたしは頻繁に夢を見るようになったのは。

暗闇の中で、一人取り残される夢。それだけならまだしも、時には得体のしれない何かに追いかけられることもある。必死に逃げても逃げても終わらない。いつも目覚めた時は汗びっしょりで、心臓はバクバクと暴れまわっていた。

 そんな生活を続けて数ヶ月。わたしは高校生になった。学校も友達も制服も変わったけれど、相変わらず浅村さんからのLINEは続いていた。わたしの性格も変わらなかった。

そんな弱っちいわたしなので、入学早々、風邪をひいてしまう。とはいえ単なる風邪で、インフルエンザとかでは無かったので数日で完治した。

と思っていた。

しかしその日を堺に、わたしに異変が起こった。

やけに夢の内容が鮮明になったのだ。

基本的に夢というのは、見ている最中はそこが夢だとは分からないものなのだけれど、分かってしまうようになった。これは、楽しい夢を見ている人にとっては良いことなのだろうけど、わたしにとっては地獄だ。何故なら、例えそこが夢だと気づいても自分の意思では抜け出せないから。

しかもその夢はかなり長い。夢の中に時計はないので、あくまで体感時間だけれど、一度の夢で丸々二、三日過ごしているような気がする。つまり現実よりも夢の中で過ごしている時間の方がずっと長いのだ。

 次第にわたしは眠ることが怖くなった。だって一度眠ったら、あの地獄に閉じ込められるのは分かりきっているから。でも、どんなに我慢したって人は眠らないと生きていけない。

わたしはみるみるうちに体調を崩す。そんなわたしを見かねたお母さんに、わたしは半ば無理やり大きな病院へ連れて行かれた。そこで遂に、わたしの病が判明した。

 原因は脳にあった。MRIで検査した所、脳の一部に僅かな損傷が見つかったのだ。おそらくそれが原因で、夢にも影響が出ているのだと言われた。脳の損傷はウイルスによるもので、風邪をひいて免疫力が低下した時に、わたしの脳に侵入したらしい。

お医者さんは他にも色々と専門用語を交えながら、詳しく病について説明してくれたけれど、わたしには難しいことは分からなかった。

わたしに理解できたのは、この病はそう簡単には治せないということ。そして、そのうち睡眠のタイミングさえも自分の意思ではコントロール出来なくなる可能性があるということだ。

つまり最悪の場合……


わたしは一生悪夢から抜け出せない。


お母さんは、その話を聞いて泣いていた。わたしはというと……泣きたい気分よりも恐怖が勝った。

もしも夢に閉じ込められた場合、わたしはどれだけそこで過ごすことになるのだろう?

恐る恐る、わたしは計算してみた。わたしはどちらかと言うとロングスリーパーで、毎日八時間くらい寝ている。この八時間の間に、わたしは夢の中で三日間くらい過ごした。わたしの余命がどれくらいかは分からないけれど、わたしのおばあちゃんは八七歳で亡くなった。わたしもそれくらい生きると思えば、現実世界であと七一年生きることになる。現実世界の七一年は、夢の中では……六四〇年だ。

 あの地獄の中で六四〇年も過ごせるわけがない……。

 待ち受ける将来にわたしは絶望する。

 どうしてわたしが。あの時、風邪さえひいてなければ……。

 色々な思いが湧き上がってくるけれど、今更後悔したところでもう遅い。

地獄を味わい続けるくらいなら、いっそ今のうちに死んだほうが良いのではないか、なんてことさえ考えた。自暴自棄になったわたしは、死装束のつもりで季節外れの白ワンピースを着て夜遅くまで外をふらついた。ビルの屋上のフェンスを乗り越えようとしたこともある。でもお父さんお母さん、そして奏汰が悲しむ顔を思い浮かべたら、最後の一歩は踏み出せなかった。

わたしの人生は、どん底だった。

 そんな時だった。急に空が真っ青に輝き始めたのは。

どうやらオリオン座のベテルギウスという星が爆発したらしい。それはとても珍しい現象のようで、連日テレビで特集が組まれていた。わたしも何となく、皆と同じように空を見上げた。それは、とても美しくて眩しい光景だった。

気がつけば、わたしの両目から涙が溢れていた。その理由は分からない。ただ、わたしの中で感情の嵐が吹き荒れていることは分かった。

その時のわたしは、バイオリンを弾きたくて弾きたくてたまらなくなっていた。あれだけバイオリンを遠ざけていたというのに……。

もしかしたら、自分でもよく分からない感情を、音に乗せることで理解しようとしていたのかもしれない。

わたしは急いでバイオリンを取りに家へ戻り、そして人気(ひとけ)のなさそうな場所を探した。

 そしてそこで、わたしは一人の男の子と出会った。それが……




 「柚木先輩。というわけです」

 上嶋さんは、大きく息をつく。

対する俺は、何も言えずにその場に固まっていた。

質問したいことが何十、何百とある。余命六四〇年っていうのは冗談じゃなかったのか? 多すぎる情報を前に、俺の頭はショート寸前だった。

「いきなりこんなこと言われても、信じられませんよね」

自嘲気味に上嶋さんは笑う。その笑みが、逆に彼女の話の信頼性を高めていた。

 「その浅村さんって人とのLINEは今も続いてるの?」

 最初に俺の口から出てきたのは、そんな質問だった。

 「ええ」

 上嶋さんはスマホの画面をこちらに向ける。そこには千件以上の通知が溜まっていた。

 「今回は二日間も眠っていましたからね……」

 上嶋さんは、その白い指先で画面をタップする。そこに表示されたのは罵詈雑言の数々。

 《さっさと返信しろ》

 《まだか》

 《ふざけんな。会いに行くぞ》

 そのあまりのおぞましさに、俺は思わず口を抑える。

上嶋さんは、こんなものに耐え続けてきたというのか。いや上嶋さんが苦しんでいるのはこれだけではない。

 「悪夢……の方は? もしかして、ここ二日寝込んでたのって……」

 「二週間以上、夢の中で過ごしてきました」

 その言葉に、思わず俺は息を呑む。

 「でも、今日見たのは誰かに追いかけられる夢ではなくて、ただ一人、闇の中でポツンと取り残される夢でした。その中でわたしは、ずっと後悔していたんです」

 「後悔? 何を?」

 「柚木先輩に、本当のことを打ち明けなかったことです。『信頼してたんだけどな……』という先輩の最後の一言が、頭の中でずっと反響してました。このまま先輩に愛想を尽かされたらどうしようって、ずっと不安に思ってました。早く夢が覚めてほしいって、いつも以上に祈りました」

 上島さんは、悲痛な表情を浮かべる。

 「ごめん。俺の無責任な一言のせいで、本当にごめん……」

 二週間、飲み食いも出来ず、ただ意識だけが取り残された真っ暗な空間で一人ぼっち。そんなの想像するだけで目眩がする。

 「ごめん、ごめん。ごめんなさい……」

 俺に出来ることは、ただ謝ることだけだった。壊れたカセットテープのように、ひたすら同じ単語を繰り返す。

 「先輩、頭を上げてください」

 上嶋さんはそう促すが、俺にはそんなことできなかった。

 「これでもわたし、先輩には凄く感謝しているんですから」

 「感謝……?」

 上嶋さんの言っていることの意味が分からなくて、俺は思わず顔を上げる。

俺が彼女に感謝することは山ほどあるけれど、彼女が俺に感謝することなんてあるだろうか?

 「先輩に会う前は、真っ暗闇の中、追いかけられる夢しか見ませんでした。本当に辛くて恐ろしい夢です」

 上島さんは、俺の瞳をじっと見つめる。

「でも、最近はそうでもないんです。追いかけられることが無くなりました。それだけではありません。先輩と撮影をした日に見る夢の中では、何故かバイオリンが弾けるんです」

「バイオリン?」

思わず俺は聞き返す。

「ええ。いつの間にか手元にバイオリンがあって、弓でひくとちゃんと音だってなります。不思議ですよね」

病室の窓から風が吹き込む。上島さんの黒髪がサラサラと揺れる。

「きっとどんな夢を見るかは、わたしのその日の気分に大きく関わっているのだと思います。だから、先輩の存在はとても大きいんです。今までは恐怖の対象でしかなかった夢が、先輩のおかげで最近、楽しい場所に変わりつつあるのですから」

 俺は驚いた。こんな俺でも上嶋さんの役にたつことがあるのかと。そして今この瞬間、一つの決心をした。

 「なら!」

 思ったよりも大きな声が出たことに自分も驚きながら、俺は立ち上がった。

 「なら、これからは上嶋さんがもっと楽しい夢が見られるように俺も努力する。だから、上嶋さんは心配しないで!」

 琥珀色の瞳に映る、自身の顔を見つめながら俺は返答を待つ。

 彼女の輝きの為なら、俺は何だってする。

 上島さんは、一瞬驚いた様子を見せた後、ふっと顔の筋肉を緩めた。

 「これからもよろしくおねがいしますね、柚木先輩!」

 上嶋さんは、俺から見ても悪くない笑顔で微笑みながらそう言った。

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