第16話

 数日後、我が家のキッチンには千春と上嶋さんが並んでいた。上島さんは薄緑の、千春はオレンジのバンダナとエプロンをつけている。普段はおろしている黒髪を、水色のシュシュで後ろにまとめた上島さんの姿は新鮮だ。

 「今日はバイオリンの演奏はお休みします」

 俺の宣言に、上嶋さんは表情を曇らせる。

 「でも、リクエストされている曲だってまだまだありますよね……。もしかして、最近わたしが居眠りしてばかりだからですか? そういうことなら申し訳ありません! でもわたしは大丈夫です。まだやれますから……」

 「いや、違うよ。今日だってちゃんと撮影はする。ただ今日はバイオリンの撮影じゃなくて……」

 「柚子プリン制作の撮影で~す!」

 千春は両手に柚子を掴みながら、隣の上嶋さんの方を向く。

 「柚子プリン……ですか?」

 「ああ。前に柚子プリンを食べてみたいって言ってただろ? でも探しても売ってなかったから、作ってみようと思って」

 「なるほど……。確かに、それなら動画に出来そうですね。わたしたちのチャンネル名はゆずプリンチャンネルですし」

 曇っていた上嶋さんの顔に光が差す。

 「でしょでしょ? じゃあ早速作りましょ、彩先輩! 私、料理は得意なので分からない所があったら何でも聞いてください!」

 千春はもう待ちきれないといった様子で、泡立て器を握りしめている。

 「本当ですか? じゃあ千春ちゃん、よろしくおねがいします!」

 「こちらこそ! じゃあ早速始めるけど、兄さんの準備は出来てる?」

 「ああ、もう撮影してる」

 俺はスマホを二人に向けて構えた。

 「はいどうも~! ゆずプリンチャンネルの《ハル》で~す!」

 俺は撮影中止ボタンをタップする。

 「おい、なんでゲストのお前が挨拶してるんだよ。ってかハルってなんだよハルって」

 「もちろん千春だからハルに決まってるじゃん。名字は兄さんのあだ名に取られちゃってるしさ。それとも私もゆずって名乗っていい?」

 「良いわけ無いだろ」

 こんな風に、いつものごとく千春とどうでも良いことで言い争っていたら、横から上嶋さんのクスクスという控えめな笑い声が聞こえてきた。

 「あ、彩先輩! お見苦しい所を見せて申し訳ありません! ほら、兄さんも謝る!」

 千春は俺の頭をグイと無理やり下に押し込んだ。

 「おい!」

 「柚木先輩と千春ちゃんは、仲がいいんですね」

 「全然良くない!」「全然良くないです!」

 俺たちはセリフをハモらせながら、互いにプイと反対を向く。それでも相変わらず上嶋さんの笑い声が治まることはなかった。


 「そろそろ出来たんじゃない?」

 俺は時計の針を確認してから、冷蔵庫をゆっくりと開け、冷えた銀のトレーを取り出す。上島さんが中身を慎重に型から取り出した後、千春がスプーンで表面を軽く突っついた。丸みを帯びたスプーンの裏面によって圧力をかけられたプリンは、一度沈み、圧力から開放された途端に、勢いよく元の形に戻ってプルプルと震えた。

 「うん、しっかり固まってる!」

 千春は満足げにうなずいた。後は上部に飾り付けをしたら完成だ。

 そして数分後……。

 「「「出来た!」」」

 早速俺たちはキッチンから食卓に移動して、柚子プリンを食べることにした。

 「準備オッケー」

 俺は二人にスマホを向ける。二人とも、やや緊張した面持ちでスプーンを口に運んだ。

 「美味しい! メッチャ美味しい!」

 千春は、すぐさま二口目をすくう。

 「味の感想は?」

 「えっ? だから美味しいって! なんかスーってして、でもいい感じで、いくらでも食べられちゃう!」

 俺は思わずため息をつく。だめだこりゃ。どうやら千春に食レポの才は無いらしい。俺は上嶋さんの方にだけスマホを向けた。上嶋さんは一口目を食べたまま、その場で固まっていた。

 「どう?」

 俺の質問で、ようやく動き始める。

 「美味しいです……。柚子の酸味がアクセントになって、プリン全体の甘さを際立てていて……。それでいて甘さはくどくなくて。今まで食べたことのあるプリンとは全然違う味なのに、ほっぺたが落ちそうです」

 上嶋さんは右手で自分の頬を抑えた。

 「あっ……ちなみに、プリンの上に乗っているフルーツは今話題のベテルギウスをイメージしています!」

 カメラの方を向きながら、上嶋さんは説明する。

 「えっそうなの? でも私のにはブルーベリーが乗ってて、先輩……じゃなくてプリンちゃんのプリンにはさくらんぼが乗っていますよ? っていうかプリンちゃんのプリンって何だか面白い……」

 千春のしょうもないダジャレにも、上嶋さんはニコリと微笑む。

 「実は上のフルーツは、ベテルギウスの色が変化する様を表現しているんです。ブルーベリーは爆発直後のベテルギウスを、そしてさくらんぼは数カ月後のベテルギウスの姿を表しています。まあこの話は、ゆず君の受け売りなんですけれどね……」

 そんな風に説明を続けながら、まあ説明していたのはほぼ上嶋さんなのだが、二人は柚子プリンを食べ終えた。その間、俺はずっと撮影していた。

 「以上、ゆずプリンチャンネルのハルと~」

 「プリンでした! 次回もまたお楽しみに~」

 俺は撮影中止のボタンをタップする。ゲストメンバーである千春の存在感が大きすぎることを除けば、概ね上手く撮れているだろう。まあ、あとは編集で調整すればいい。

 「ふう……」

 俺は安堵の息をつく。

 「柚木先輩、お疲れさまでした。これ、先輩の分です」

 上島さんは、俺の目の前に柚子プリンを差し出した。せっかくなので俺もいただくことにする。

 「おっ、うまい」

 千春も上嶋さんも舌鼓を打っていた時点で予想はついていたが、それでも、柚子とプリンという一見変わった組み合わせでここまで美味しくできるなんて驚きだ。俺はあっという間に柚子プリンを平らげた。


 「今日はありがとうございました。お土産まで貰って、感謝しきれないくらいです」

 上嶋さんは柚子プリンの詰まった紙袋を掲げながら、そんなことを言う。

 「いえいえ、お家でもご家族と一緒に食べてくださいね!」

 「はい!」

 満面の笑みを浮かべる千春に見送られながら、俺たちは家を後にする。

 十二月になって、日が暮れるのもすっかり早くなった。まだ五時半だというのに、辺りはすっかり暗い。七時頃になると、煌々と輝くベテルギウスが顔をだすので、今が一日で最も暗い時間帯と言えるだろう。

 「柚木先輩、今日はありがとうございました」

 上島さんは、俺の隣を歩きながら軽く頭を下げる。

 「それはもうさっき聞いたって」

 「でも今日の動画、最近疲れ気味のわたしの為に撮ってくださったのではないですか?」

 あっさり真相を暴かれて、思わず俺は頬をピクリと震わせた。

 「その様子だと図星のようですね……」

 やっぱり上嶋さんには敵わない。だから俺は素直に口を開いた。

 「まあね。千春だって心配してたくらいだから……。上嶋さん、本当に大丈夫?」

 俺は隣を見ながら尋ねる。

 「確かに昨日まではちょっぴり疲れていたかもしれません……。でも、この柚子プリンのお陰で、それもすっかり吹き飛びました」

 俺の視界に写った上嶋さんの笑顔は、作ったものではなく、本心からのもののように見える。

 「それは良かった。でも今日はこの後撮影も無いんだし、しっかり休んでね」

 「はい」

 ここで一旦話は途切れる。しばらく無言の時間が続いた。

たまにこういうことはある。けれどそれは、決して気まずいものでは無い。この二ヶ月間、一緒に活動し続けてきたお陰だ。彼女と出会ったばかりの頃は、どうやって会話を続けるかばかり考えていたけれど、今の俺には静かな時間の心地よさを楽しむ余裕があった。それは隣の上嶋さんも同じだろう。

 だからこそ。聴覚がいつもよりも敏感な今だからこそ、俺は異変に気づくことが出来た。

 「誰かいる」

 後方から、何者かの足音が聞こえる。

 「誰だ!」

 俺は一気に振り返ると、大きな声で叫んだ。その瞬間、人影が高速で移動する。

 「っ……」

 このまま追いかけたかったけれど、そうすれば上嶋さんはこの場に一人で置いてけぼりだ。だから俺は、何もすることが出来なかった。

 「ごめん上嶋さん。逃げられた……」

 俺は唇を噛み締める。わざわざ上嶋さんをこうして家まで送っているのに、何も出来ないことが悔しい。

 「いえ、追い払っていただけただけでも十分です。それに柚木先輩がいるだけで心強いですから」

 上嶋さんは、そう言って俺をフォローしてくれたが、さっきまで浮かんでいた笑顔はもうそこには無かった。当然だ。俺だって背後が不気味で仕方がない。

 再び静寂が訪れた。けれどそれは、先程までの心地よい静寂ではない。

 「じゃあ今日も、天文講座を始めようか。今日は十二星座についての話でもしようかな……。今の時期は射手座だけど、あと二週間もすればこんどは山羊座に変わるんだ。この星座と星座の境界のことをカスプって言うんだけど、誕生日がカスプに当たる人は文献によって自分の星座が変わったりすることもあるんだよね。でも実はこれって出生地と生まれた正確な時刻が分かれば計算出来て……」

 俺は静寂をかき消す為に、とにかく思いついたことを口にした。話した内容は正直良く覚えていない。ひたすら気味の悪さを紛らわせることだけを考えていた。

だから、この時の俺は上嶋さんの様子なんて全然気にしていなかった。

 その時だった。隣で何かが崩れる物音がしたのは。

前を向いて必死に口を動かしていた俺は、この時ようやく異変を感じて横を向く。

 まず視界に入ったのは辺りに散乱した柚子プリン。続いて、アスファルトに投げ出された上嶋さんの姿が飛び込んでくる。

 「上嶋さん!」

 俺は慌てて側に駆け寄る。

倒れた拍子に擦りむいたのだろう。彼女の白い左手の甲には、真紅の血潮が滲んでいた。

 「上嶋さん! 起きて! どうしたの!」

 俺は何度も声をかけ続けたが、彼女は無反応のままだった。

 地面に転がったブルーベリーとさくらんぼが、電灯に照らされて不気味に輝いていた。

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