第12話

 夜の撮影は滞りなく終え、翌日も俺は上島さんと待ち合わせしていた。集合場所である駅前の広場に、十分前に到着したにも関わらず、そこには既に彼女の姿があった。

 「ごめん、待たせちゃった」

 「いえいえ、わたしが早く着きすぎただけなので気にしないでください。貴重な時間を家でゴロゴロして過ごすのが嫌だっただけですから」

 貴重な時間……?

 その言葉の意味が俺にはあまりピンと来なかった。時間とは、早く流れてくれた方がありがたいものだ。その為に暇つぶしを求めているのだから。

 「先輩、どうしましたか?」

 「ああ、いや……。上嶋さんにとって、時間って貴重なものなの?」

 俺の質問に、上嶋さんは少し考え込む素振りを見せる。

 「いつでも貴重って訳ではありません。もっと早く時間が流れてくれれば良いのにって思ったことも何度もあります。でも、少なくとも今この瞬間は、わたしにとって凄く貴重です」

 「そっか……」

 彼女が言っていることを完全に理解できたわけではない。ただ、彼女の考えは俺とは少し違うということは分かった。よく考えてみれば、それは当たり前だ。だって彼女は才能を持っているけれど、俺は何も持っていないのだから。ものの見方だって変わるのは当然だろう。

 「じゃあその貴重な時間を無駄にしないためにも、早速移動しようか」

 俺たちは広場を離れて歩き始めた。


 「昨日投稿した動画はこんな感じ」

 俺は、目の前で紅茶を啜っている上嶋さんにスマホを向ける。

 今日、俺たちは近所のファミレスにやってきていた。流石にこれ以上カフェに行くのは金銭的な面でキツかったし、かといって二日連続で上嶋さんを俺の家に連れて行ったらまた家族が大変なことになりそうだったから、俺の方からファミレスを提案したのだ。幸い上嶋さんは二つ返事で了承してくれた。カフェと比べると店内はかなり騒がしいが、話し合いが出来ないほどではない。何よりドリンクバーの存在がありがたかった。この値段で飲み放題だなんて素晴らしすぎる。

 「再生回数は、最初の動画が七回、二本目の動画が十二回。まあ初めてだからこんなもんだよね……」

 「でも柚木先輩の編集は流石でしたよ。わたしなんて昨日、何十回も繰り返し見てしまいました。あれっ? でもそれなら再生回数ももっと増えてもいいと思うんですけど……」

 「多分、同じ人が何回再生しても一回なんだろうね。俺も確認の為にかなり再生してるし。でもそれってつまり、たったの数人ではあるけど俺たち以外の人にも動画が届いたってことだよね。遂に上嶋さんもYouTuberデビューだよ!」

 「YouTuberデビューですか……」

 上島さんは、自分の手のひらをじっと見つめている。

 「何だかまだ実感がわかないです。ここ数日ずっとフワフワした感じっていうか……。わたしなんかがYouTuberになって本当に大丈夫なんでしょうか? 昨日、色々な方の動画も見てみましたけれど、皆さんわたしなんかよりもずっと魅力的で……」

 「上嶋さんだからこそ良いんだよ」

 そう思ったから、俺は彼女にYouTuberデビューを提案したのだ。しかし俺の発言に、彼女は申し訳無さそうに身を縮こませる。

あんまり褒めすぎても逆効果かな……。

「というか上嶋さんも他の人の動画見始めたんだ? どんなの見てるの?」

 「えっと……。昨日見たチャンネルは……」

 上嶋さんはスマホを俺の方に向け、指先で画面をスワイプしながら説明してくれた。乾燥する季節だというのに、彼女の手は指先まで潤っていて美しい。思わず目を奪われてしまう。女子というのはこういう所もケアするものなのかと、俺は感心した。

 「ざっとこんな感じですね」

 しまった……。

指先に見とれていて、肝心の話を全然聞いていなかった。慌てて俺は彼女のスマホに意識を戻す。

 「そうなんだ。……ん? ていうか、上嶋さんのYouTubeのホーム画面、俺とはちょっと違うね?」

YouTubeはアプリを起動すると、最初にいくつかオススメの動画が表示されるのだが、そのラインナップが俺のものとは異なっていた。

 「そうですか?」

 「うん、ほら」

 俺もアプリを起動して、彼女のスマホの隣に並べた。バイオリンやピアノの演奏動画がいくつか表示されている点は変わらないのだが、その他の動画のラインナップは結構違う。俺のスマホには様々なジャンルの動画が並んでいるのに対し、彼女の方はやけにスイーツに関する動画が多い。

 あっ、もしかして……。

 「上嶋さん昨日、プリンの動画とか見てたんじゃない?」

 YouTubeには料理系の動画も豊富にある。

 「えっ、どうして分かったんですか?」

 上嶋さんはサッと顔を赤くさせる。驚きを隠せない様子だ。

 「勘……かな?」

 本当は、動画の視聴履歴に基づいてオススメ動画が決められているということに気づいただけなのだが、上嶋さんをからかうのは面白いので黙っておきたいと思う。

 「ゆ、柚木先輩の勘も侮れないですね……」

 慌ててスマホを引っ込め、ほんの少しピンク色の頬を膨らませながら、上嶋さんは俺を恨めしそうな目で見つめる。

 「そう言う柚木先輩は、どんな動画を見ているんですか?」

 「俺? 俺は強いて言うなら天文関係の動画が好きだけど、基本的には色々なジャンルを満遍なく見てるよ。編集の仕方とか、色々と参考になる所も多いからね」

 「何だかわたしばかり遊んでてすみません……。やっぱり凄いですね柚木先輩は」

 「そんなこと無いって。俺は誰にでも出来ることをやってるだけだから。トップYouTuberの動画も色々見てみたけど、やっぱりあの人達、皆凄いよ。将来の夢すらはっきりせずに、毎日迷ってばかりの俺とは大違い。皆、目標に向かって一心不乱に突き進んでる」

 画面越しでも、皆キラキラと輝いているのが伝わってきた。そういう人達を見ていると、何だか自分がますます情けなく思えてくる。

 まあ前から分かっていたことだから、今更驚きは無いけどさ……。

 そう思って、ふと視線を上げると、そこにはもの言いたげな表情でこちらを見つめる上嶋さんの姿があった。

 「どうしたの?」

 「あっ、いえ……。その気持ち、わたしもちょっと分かります……」

 「へえ、そうなんだ。ちょっと意外かも」

 俺には上島さんだってキラキラ輝いて見える。そんな彼女が、俺と同じような悩みを持っているとは考えにくいが、才能を持つ人には持つ人なりに苦労しているのだろうか。上嶋さんを見つめ返しながら、俺はそんなことを考えた。


 その後、俺たちは昨日の動画の改善点やこれからアップする動画のことについて話し合った。話し合いは、俺の想像以上のスピードで順調に進んだ。いや、むしろ順調過ぎるくらいだ。

 「動画のサムネイルを、こんな感じに変更したいと思うんだけど、どうかな?」

 「ええ、良いと思います」

 「動画の長さなんだけど、もう少し長いほうが良いかも」

 「確かにそうですね」

 こんな感じで俺が提案して、上嶋さんがそれにすぐ同意する展開がさっきからずっと続いている。

これでは話し合っている意味がない。

そう思った俺は上嶋さんに鎌をかけてみることにした。

 「あと、昨日の動画のタイトルなんだけど。再生回数を増やすためにも少し変更してみたいと思うんだ。例えば《ピチピチのJKが演奏するバイオリン動画!》なんてどうかな?」

 「えっ……」

 うめき声を挙げたまま、上嶋さんはしばらくその場でフリーズする。しかしやがて声を絞り出すように口を開く。

 「い、良いと思います……」

 「良いわけ無いでしょ! 冗談だよ!」

 やっぱり……。

 俺の違和感は間違いではなかったようだ。上嶋さんは基本的に俺の話にうなずいているだけだ。

 「もしかして上嶋さん、YouTubeやりたくなかった……?」

 無理に勧めたのが悪かったのだろうか?

 俺が顔を曇らせると、上嶋さんは慌てたように手を横にふる。

 「違います! そんなことありません。むしろ凄く楽しみにしていて……」

 「でも上嶋さん、思ったこと全然言ってくれないから……。もしも嫌なら……」

俺はそこで一旦言葉を切る。けれど覚悟を決めて続きを口にした。

「YouTube活動は中止するけど……」

 俺としては非常に残念だ。けれど上嶋さんに無理強いさせることは出来ない。俺は諦めの表情を浮かべながら、上嶋さんの方を向く。もう十中八九、無理だと思っていた。けれど彼女の返答は……

 「YouTubeは絶対に辞めません」

 俺の予想とは正反対だった。その言葉はとても力強くて、固い意志が感じられる。

 でも、それならどうして……。

 「わたし……」

 上嶋さんは右手を胸に当てた。

 「わたし、昔から自分の意見を言うのが凄く苦手なんです。いつも周りに流されてばかりで、そのせいで……」

 彼女は胸に当てた手を、強く、強く握る。そして無理やり話を続けようとするが……。

 「分かった! 分かったから。上嶋さんにも色々悩みがあるってことは……。俺が悪かった、急に変なこと言ってごめん」

 これ以上、上嶋さんが苦しむ様子を見てられなかった。

思わず身を乗り出して、彼女の丸みを帯びた両肩をつかむ。周囲の視線が俺たちに突き刺さった。そこで彼女はようやく落ち着きを取り戻す。

 「わたしの方こそ、すみません」

 上嶋さんは胸からゆっくり手を離す。俺も彼女から両手を離すと、向けられた視線は徐々にそれていった。

 「誰にだって苦手なことの一つや二つはあるんだから、気にしないで。ただ、もしも言いたいことがあったらいつでも待ってるから。このチャンネルは上嶋さんありきなんだからさ」

 以前、俺が余命六四〇年のネタでいじった時は反応してくれたし、俺のあだ名を提案してくれたのも上島さんなのだから、全く自分の意見が言えないわけでは無いはずだ。だから急かしさえしなければ、彼女は必ず口を開いてくれる。俺は、それをゆっくり待てばいいだけだ。

 けれど目の前の上嶋さんは、相変わらず曇った表情を浮かべていた。

 そう言えば、こういう時にとっておきの動画があったな……。

 「ねえ上嶋さん。ASMRって知ってる?」

 「ASMRですか? いえ……聞いたことないです」

 「良かった。じゃあ、ちょっとこの動画見てみてよ。というか聞いてみてよ。あっ、スピーカーだとあんまり良さが分からないから、イヤホンつけてね」

 俺に促されるままに、上嶋さんはポケットからピンク色のイヤホンを取り出すと、サラサラとした髪をかき分けて耳に装着した。そして再生ボタンをタップする。

 その瞬間、上嶋さんは両肩をキュッと縮こませる。目は軽く閉じられ、ぷっくりとした桜色の唇が細かく震えている。その姿はまるで、くすぐりに耐えているようであった。

 動画が終わり、イヤホンを外してから、上嶋さんは両腕で自身を抱きしめる。

 「こんな感覚初めてです。なんですかこれ?」

 彼女の表情は驚きに満ちていて、先程まであった暗い影は姿を消している。ASMR作戦は無事成功したようだ。

 「俺も詳しいことは知らないけど、ASMRってジャンルの動画で、色々な音を特殊なマイクを使って録音しているらしいよ。さっき聞いてもらったのは、耳かきの音なんだけど、メッチャ背中ゾクゾクするよね」

 「はい。何だかゾワゾワするのに、癖になってしまいそうな……。そんな不思議な感じです」

 「でしょでしょ? やっぱこれは百聞は一見にしかずって感じで、体験してみないと分からないよね」

 「一見というより一聞ですけどね」

 「あっそっか。じゃあ百言葉は一聞にしかず……かな?」

 「ちょっと言いづらいですね」

 俺と上嶋さんは揃って小さく吹き出す。

 「っていうか上嶋さん、普通に自分の意見言えてるじゃん」

 「えっ……?」

 上嶋さんは信じられないものを見るような目で自分を見つめる。

 「言われてみれば……そうですね」

 「そんな感じで、思ったことを自由に言えば良いんだよ。まあ俺の場合は思ったことをそのまま言いすぎて苦労してるんだけどさ……」

 「ASMRって凄いですね……」

 ASMRが凄いんじゃなくて、上嶋さんが凄いんだと思うけど……。でも面白いからこの話に乗っておこう。

 「じゃあこれから上嶋さんに意見を言ってほしい時は、ASMRを聞かせれば良い?」

 「それは……嬉しいような嬉しくないような感じなので勘弁してください!」

 上島さんは、ギュッと目をつぶりながら訴えた。

 「ほら、また自分の意見言えてる。なんか今のうちに、他に言っておきたいことは無いの?」

 顎を手に当て少ししてから、じゃあ一つだけ、と上嶋さんは口を開く。

 「わたし、実はコーヒーが苦手なんです。なので次からカフェに行く時は紅茶を頼んでいただけると嬉しいかな……って」

 やけにコーヒーに砂糖とミルクを入れると思ったら、そういうことだったのか……。

 このことは言ってもらえて非常に助かった。そうでないとこれからも、いつもどおり上嶋さんの話も聞かず、俺がコーヒーを二人前注文していただろうから。

 「じゃあ初めてカフェに行った時、『同じ』の続きは何ていうつもりだったの?」

 俺と同じアップルパイとコーヒーの組み合わせという意味では無かったらしい。

 「同じアップルパイと紅茶って言うつもりでした……。紛らわしい言い方してすみません」

 上島さんは小さく頭を下げる。同じなのはアップルパイだけだったということか。これからは人の話を最後まで聞こう。俺は新たな教訓を得た。

 きっと上嶋さんが俺に言い出せずにいることは、他にもまだまだあるのだろう。それを一つずつ解明していくのも、いい暇つぶしになるかもしれない。

新たな暇つぶしのネタを見つけて、俺は前向きな気分になっていた。

 ところがそんな気分も長続きしない。


 「雨だ」

 会計を済ませて外に出ると、パラパラと雨が降っていた。今日の降水確率はゼロ%だったはずなのに、なんとも運が悪い。当然、傘も持ってきていなかった。

 「雨ですね……」

 そう言いながら、上嶋さんはポーチから水色の折りたたみ傘を取り出す。

 「今日の予報は晴れだったのに、よく傘持ってたね。いつも持ち歩いてるの?」

 「いえ、普段は持ってないです。ただ今日は出かける直前に、ふと傘を持っていこうと思って……。別に根拠があったわけでは無いんですけど、そんな予感がしたんです……」

 「えっ凄い」

 「前も言いましたけれど、わたしの勘はよく当たるんですよ?」

 自慢気に上嶋さんは微笑んだ。

 「上嶋さんには敵わないなぁ……。俺は持ってきてないよ。まあ仕方ないね。別に雨を浴びてもせいぜい風邪ひくくらいだから、特攻してみるか」

 俺は走る構えをとる。急げば家まで数分で帰れるだろう。

 「ダメですよ!」

 上嶋さんは声を張り上げた。彼女のこんな大きな声を聞いたのは初めてだから、一瞬誰が叫んだのか分からなかったくらいだ。

 「えっ……どうしたの?」

 上島さんに視線を向けると、彼女自身、自分の叫び声に驚いている様子だった。

 「いきなり大声出してすみません……。でも、風邪はダメです」

 「いやいや、多分大丈夫だよ。それにたとえ風邪ひいたって、二、三日学校休むだけだから」

むしろ堂々と学校を休めるのだからありがたいくらいだ。

 「それでもダメです。この傘は先輩が使ってください」

 上嶋さんは強引に傘を押し付ける。

 「いやいや、そしたら上嶋さんの傘が無くなっちゃうでしょ!」

 「わたしは大丈夫です。雨に濡れてもせいぜい風邪をひくだけですから」

 「それじゃ俺と変わらないじゃん! この傘は上嶋さんのなんだし上嶋さんが使ってよ。それに、女の子の隣で男が一人だけ傘をさしてたら、周りの人達から白い目で見られるって」

 「でも……」

 相変わらず上嶋さんは自分の傘を受け取ろうとはしない。ここまで強気な態度の彼女を見るのは初めてだ。

 その後も俺たちは傘の譲り合いを続けるが、話は平行線のままで全く進まない。そうこうしているうちに、雨も議論もますます激しさを増していた。

 「だ~か~ら、上嶋さんの傘なんだから上嶋さんが使えば良いんだって!」

 「もう……柚木先輩も強情ですね。でも風邪をひくのだけは絶対にダメです。先輩、わたしに自分の意見を言ってほしいって言ってたじゃないですか。ご要望にお答えして、こうして意見を言っているんですから受け取ってくださいよ!」

 「確かにそれはそうだけど……」

 だからといって、ついさっきまで俺の意見にうなずいてばかりだった彼女が、突然こんなに強気になるとは思わない。一体彼女に何があったのだろうか。

 「分かりました。それならわたしに提案があります」

 上嶋さんは折りたたみ傘を手に取ると、その場で開いた。

 「二人でこの傘を使いましょう」

 「わ、分かったよ」


 道中、俺たちは無言だった。売り言葉に買い言葉で上嶋さんの提案に乗ってはみたものの、実際にやってみるとかなり恥ずかしい。これは俗に言う相合い傘というやつなのだから。周囲の視線をチラチラ感じる。どうやら上嶋さんも思っていることは同じみたいだ。顔を赤くさせながら、早足で前に進んでいる。

 上嶋さんとの距離が近い上に、周囲の湿度が高いからだろうか。彼女が一歩進む度に、甘くて心地よい香りが漂ってくる。その香りの前では俺は無力で、ただ傘を強く握ることしか出来なかった。


 「今日はわたしのワガママに付き合っていただいてありがとうございました」

 「いや、こちらこそ。おかげで濡れずに済んだよ」

 俺は現在、上嶋さんの家の前に来ていた。庭付きの立派な一軒家だ。

 「じゃあ傘とってきますね」

 そう言って上嶋さんは玄関の扉を開ける。

 「あっ、姉さんお帰り……」

 玄関に通じる廊下には、ちょうど彼女の弟さんがいた。薄茶色のサラサラヘアーにキリリとした眉、大人しそうな顔つきは上嶋さんそっくりだ。姉弟揃って美男美女とは驚かされる。

「雨降ってるから、大丈夫かなって思ってLINEしたんだけど気づいてた?」

 「えっ、本当?」

 上嶋さんはスマホを取り出すと、LINEを起動する。その瞬間、彼女は一瞬表情を強張らせた。

 「姉さんどうしかした?」

 「あ、ううん。大丈夫。わたし今日はちゃんと折りたたみ傘持ってたから」

 「それなら良かった。それとさっきから気になってたんだけど、そちらの方は……?」

 弟さんの視線が俺に向けられる。 

 「はじめまして。柚木陽斗です。上嶋さんにはいつもお世話になってます」

 俺は頭を下げる。

 「僕は彩の弟の上嶋奏汰(かなた)っていいます。こちらこそいつも姉がお世話になってます」

 弟さんも深々と頭を下げた。おそらく中学生だろうに、なんと礼儀の良いことか。

 「陽斗さんは姉の学校の先輩なんですか?」

 「先輩って言うか、上嶋さんのバイオ……」

 「学校は違うんだけど、その……ゲーム! 同じゲームにハマってて、一緒にプレイしたりしてるの。そうですよね? 柚木先輩?」

 上嶋さんは俺の言葉を遮って、作り話を始める。どうやら毎晩バイオリンを弾いていることを家族には知られたくないらしい。なので、俺も彼女の話に合わせておくことにした。

 「うん、そうだね。上嶋さんは強いからいつも本当に助かるよ」

 こんな感じで大丈夫だろうか?

 弟さんの様子を伺うと、彼は上嶋さんと同じ琥珀色の瞳で俺たちを交互に見つめていた。嘘がバレたかと不安になるが、しばらくして彼は穏やかな笑顔を浮かべる。

 「そうだったんですね。姉さんがゲームをしていたなんて、ちょっと意外かも」

 「うん、最近ちょっとね……。あっ、それと話は変わるんだけど、奏汰が昔使ってた傘、借りてもいい? 柚木先輩、傘を持ってないみたいで」

 上島さんは半ば強引に話をそらすが、特に弟さんがそれを追求することは無かった。

 「うん、もちろん」

 弟さんは傘立てから青色の傘を取り出すと、俺に手渡す。

 「ありがとうございます」

 「いえいえ、いつも姉がお世話になっているみたいですし、これくらいどうってことありません。それと……」

 弟さんは俺のもとまで近づくと、耳元で小さく囁く。

 「うちの姉はちょっとねぼすけな所があるんですけど、大目に見てあげてください」

 上嶋さんがねぼすけ?

 俺は頭に疑問符を浮かべる。今まで上嶋さんがそんな素振りを見せたことは一度もなかった。むしろ俺よりも早く集合場所に着いていることが多い。そんな彼女がねぼすけなんてことあるだろうか?

 ただ、弟さんは俺よりもずっと上嶋さんのことを良く知っているだろうし、その彼がそう言うなら心に留めておいたほうが良いのだろう。そう思って俺は、

 「了解です」

 とつぶやき返した。

 「奏汰? どうしたの?」

 上嶋さんは不思議そうな表情を浮かべながらこちらを見つめている。

 「「なんでも無いよ」」

 俺たちは声をあわせて返事した。

 その後、いよいよ本格的に降り始めた雨の中、俺は弟さんの傘とともに上嶋家を後にした。

 《上嶋奏汰》と名前が書かれた傘を家に持って帰ったことで、家族にからかわれたのは言うまでもない。

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