第8話

 「やっと起きた……」

 横を向くと、そこには不機嫌そうな表情で枕をつかむ千春の姿があった。

 「……人だ……」

 「何寝ぼけてるの……。さっさと起きてよ。私、もう学校に行かなきゃいけないんだから」

そう言い放つと、制服のスカートを翻し、千春は俺の部屋を後にした。

 「お母さ~ん。兄さん起きたよ!」

 「ありがとう千春。陽斗が寝坊なんて珍しいけれど、大丈夫そうだった?」

 「う~ん、いつも以上に辛気臭いオーラが漂ってたけど、枕で殴りつけたら普通に起きたから大丈夫なんじゃない?」

 扉越しに、千春と母さんのくぐもった声が聞こえてくる。カーテンを開けると、強烈な朝日が室内を照らした。

 「夢か……」

 突然戻ってきた日常に安堵して、俺は右手を胸に当てた。案の定、心臓はバクバクと暴れまわっている。

 久々に見た夢だった。それも悪夢というやつだ。もう二度とこんな夢は見たくない。

 それにしても……。

 俺は小さくため息をつく。

まだ昨日のことを引きずっていたとは……。

彼女の演奏が聞けなくなったと分かっただけで、ここまで落ち込む自分の女々しさに嫌気が差す。史上最高の暇つぶしを逃したショックは、思った以上に俺にダメージを与えたようだ。

って、いけない。学校行かないと……。

俺は枕元の目覚まし時計を手に取る。

「えっ、八時?」

俺はすっ転びそうになりながら大慌てで準備を始めた。


 どうやら今日の俺は、傍から見てもよほど落ち込んでいたらしい。『何か悩み事があるようなら相談してくれ』と両親に言われ、高貴には『失恋でもしたのか?』とからかわれた。

失恋なんかしてないっての……。

挙句の果てには、YouTube上の《失恋した時の対処法三十選》という動画を見せられる始末だ。十五分近くもある長い動画で、新しい目標を見つけろだの、深呼吸しろだの、謎のアドバイスを昼休み中受けた。

学校が終わって帰宅してからも、相変わらず俺の心中は、いつも以上の曇天だった。もう二度とあの旋律を聞けないのかと思うと、がっくり項垂れたくなる。せめて録音くらいしておけばよかったと、俺は激しく後悔していた。

けれど今更悔やんだ所で後の祭りだ。このまま何もせずボーッと部屋に閉じこもっていたら、ますます心が荒みそうだったので、俺は今日もいつもの草原へ向かった。もともとあそこは、何か悩み事があった時に足を運んでいた場所なのだ。まさに今がその時だろう。例え彼女の演奏がなくたって、あそこに行く意味は十分ある。


今夜はよく晴れていた。いつもの場所で俺は転がって空を見上げる。普段ならこうしているだけで面白いくらい時間が進むはずなのに、今日は全然ダメだった。数分おきに腕時計が気になってしまう。やはり彼女の演奏がないとダメなのだろう。だが、ないものねだりをしてもしょうがない。そこで俺は、せめてもの代わりとして音楽を聞くことにした。

イヤホンを装着し、スマホに入っているいくつかの曲を再生する。しかし、状況は変わらない。それもそうだろう。俺のスマホには今どきのJ―POPしか入っていないのだから。彼女のバイオリンの演奏とは似ても似つかない。

せめてクラシック調の曲が入っていれば……。

 そう思って画面を何度もスワイプするけれど、無いものは無い。それでも諦めきれず、なんとなくスマホのホーム画面を眺めていると、赤と白のシンプルなアイコンが目に入った。

 これって確か、YouTubeのアプリだよな……。

 スマホを購入した時からずっと画面にあったけれど、無視し続けていたアイコン。それを、初めてタップする。すぐにいくつかの動画の一覧が表示された。

もしかしてYouTubeにならバイオリンの演奏動画もあるのではないか?

《失恋した時の対処法三十選》なんて動画もあるくらいだ、バイオリンの動画があったとしてもおかしくない。試しに《バイオリン》で検索してみると、案の定、膨大な数の動画が表示された。そのうちの一つを選択し、流しっぱなしにしながら空を見上げる。

これなら行けるかもしれないと思った。

しかし……ダメだった。何かが違う。

 この動画の演奏自体は、とても上手だと思う。文句のつけようがないほどの出来だ。それなのに聞いた時の感覚が、いつもの彼女のものとは全く違う。他の動画もいくつか再生してみたけれど、結果は同じだった。皆上手で、それぞれの奏者に個性があって素晴らしい演奏なのに、全身を揺さぶられるような衝撃は受けなかった。

 やっぱりダメか……。

 YouTubeにはどんな動画もあると高貴は言っていたが、どうやらそれは間違いらしい。少なくとも俺を満足させることが出来るバイオリンの演奏動画は無い。

 まあ、昔から俺の人生なんてこんなものだ。これまで何事も、上手く言った試しが無い。むしろ今回は、たったの一週間とはいえ、最高の暇つぶしが出来たことを喜ぶべきだ。これからは他の新たな暇つぶしを探そう。

 俺はイヤホンを外して、再びぼんやりと空を眺めた。自分に合わない演奏を聞くくらいなら、こうして風の音を聞いている方がずっと良い。もう既に俺は、彼女の演奏を聞くことを諦めていた。

 だから本当に驚いた。

 不意打ちで、風にのって音色が流れてきた時は。

一瞬で全身に鳥肌が立つ。

前を向かなくったって分かる。これは俺がさっきからずっと待ち望んでいたものだ。ついさっきまでイヤホンから流れてきたものとは何かが決定的に違う。俺は瞬きをするのも忘れて、その雄大で悲壮な旋律を全身で感じた。

あっという間に演奏は終わり、コオロギの鳴き声と風の吹く音が周囲に戻ってくる。そのままずっと余韻に浸っていたい気分だったが、俺はなんとか自分を奮い立たせて起き上がった。彼女の視線が俺を捉える。

 「お久しぶりです」

 彼女の透明な声が、向こう側から聞こえてきた。

 「久しぶり……」

 よく考えれば昨日の夕方にも会っているのだから、《久しぶり》という言葉を使うのはおかしいのかもしれない。けれど、失意に沈んでいた昨日から今日にかけては、実際かなり長く感じられたし、やっぱり《久しぶり》という返答が一番正しいような気もする。

 「もう二度と演奏に来てくれないかと思った」

 俺が考えていたことを正直に話すと、彼女はほんの少しだけ顔をひきつらせた……ように見えた。だが、一瞬でその表情はもとに戻る。もしかしたら俺の勘違いかもしれない。

 「昨日は帰りが遅かったので行けませんでした。それに天気もあまり良くありませんでしたし……」

 「そっか……」

 そういうことなら、今日は晴れてくれて本当に良かった。もし今日も曇りだったら、俺の気はますます滅入っていたことだろう。

 「それにしても、やっぱりバイオリン上手だね」

 「いえ、全然そんなことないです。わたしのバイオリンなんて……」

 彼女は細かく首を横に振る。

 「そんなに謙遜しないでよ。音楽に関してはズブの素人の俺でも、君の演奏するバイオリンがすごい力を秘めていることくらいは分かるから」

 少なくとも俺の心を動かせるという点では、YouTube上の誰よりも彼女の方が優れている。

 「ありがとう……ございます」

 彼女は頭を下げた。続けて

 「いい暇つぶしになりましたか?」

 とつぶやく。

 一瞬、昨日の『君の演奏は最高の暇つぶしなんだ!』発言に対する嫌味を言われているのかと思ったけれど、彼女の真っ直ぐな視線からはそのような意図は感じられなかった。ただ純粋に疑問に思っているという感じ。だから俺も、その質問に正直に答えることにした。

 「うん。やっぱり君の演奏は最高の暇つぶしだよ」

 「そうですか。お役に立てて何よりです」

 彼女はニコリと柔らかな微笑みを浮かべる。

 自分の演奏が暇つぶしだったといわれたら、普通の人なら怒りだすか困惑しそうなものだが、彼女は違った。むしろ、普通に褒めたときよりもずっと良い表情をしている。

 しかしその笑みも、俺の不用意な一言で再び曇ってしまう。

 「君の演奏なら俺だけじゃなくて他の人の役にも立てるだろうし、もっと人気(ひとけ)のある所で演奏してみても良いんじゃない?」

 「いえ、それは……。わたし人前で演奏するの苦手なので……」

 「あっ、そうだったんだ……。ごめん」

 わざわざこんな人気のない草原に来て演奏しているのだから、人前が苦手な可能性が高いことは簡単に分かるだろう。考えなしに発言してしまう己のデリカシーのなさが嫌になる。

 でも……

正直この演奏が誰にも聞かれないのは、もったいないことだと思う。

彼女の演奏は俺の心を動かした。人一人の心を動かすというのは凄いことだ。少なくとも凡人の俺にはとても出来ない。俺には彼女が輝いて見える。もしかしたら彼女なら、俺一人だけでなく、他の人の心を動かせるかもしれない。でもせっかくの才能も、それを披露する機会がなければ無いのと変わらない。それでは宝の持ち腐れだ。

人前には出せない、でも彼女の演奏を皆に届けたい。この一見矛盾する二つの条件を両方クリアできるいい方法は無いものか。俺は固く腕を組む

 「あっ……」

 あるじゃないか。

 高貴が言っていた。

 『誰だって全世界に自分の動画を配信出来るんだぞ? この凄さが分からないのか?』

 あの時は自分には関係ないことだと思って聞き流していたけれど、きっと彼女なら……。

 「あの……どうかされましたか?」

 黙り込んでいた俺を心配して、彼女が声をかける。

 「あっ、うん大丈夫。それより一つ提案したいことがあるんだけどさ……」

 一度深呼吸をしてから、俺は言い放った。

 「YouTuberになってみない?」


 俺の突然の発言に、彼女は混乱している様子だった。当然だ。いきなりそんなことを言われたら俺だって困惑する。だから俺は丁寧に自分の考えを説明した。

彼女の演奏をもっと多くの人に聞いてもらいたいこと。YouTubeなら人前に出ずとも全世界に演奏を届けられること。動画の編集やアップロードといった雑用は全部俺がやるということ。

 最初は首を横に振ってばかりだった彼女も、話の終盤の頃にはじっくりと耳を傾けてくれていた。

 「……という訳なんだけど、どうかな?」

 一通り説明を終えて、俺は目の前の彼女をじっと見つめる。

 「確かにそれなら、わたしでも出来るかもしれません……」

 「本当? なら……」

 「でも、どうしてわたしなんですか? どうしてわたしの為にそこまでしてくれるのですか?」

 彼女の唇は真っ直ぐに結ばれ、小さな顔の中で大きく見開かれた瞳は射抜くようにこちらを見つめていた。

おそらく次の一言で、彼女を説得できるかどうかが決まるだろう。そんな予感が脳裏をよぎる。

 どうしてここまで俺がするのか。

その質問の答えは簡単だ。最高の暇つぶしである彼女の演奏を、これからも聞きたいからに決まっている。YouTube上に俺を満足させる演奏が無いのなら、彼女に弾いてもらって、その動画をアップすれば良いのだ。そうすれば彼女の演奏を色々な人に届けることも出来るのだから、まさに一石二鳥だ。

 俺たちの間を一陣の風が吹き抜ける。彼女の艶のある黒髪が、白のワンピースと共にひらひらとなびく。背後からベテルギウスの青の光に照らされた彼女の姿は、近くで見るとますます幻想的だった。思わず見とれてしまいそうになる。

けれど相変わらず彼女の着ているワンピースは薄手で、これ以上立ち話をしていたら風邪をひいてしまいそうだ。だから俺は、短く自分の思いを伝えることにした。

 「ベテルギってる君の演奏をもっと聞きたかったから」

 「……」

 沈黙が流れること数秒、彼女は申し訳無さそうに聞き返した。

 「ベテル…ギってる? すみません、もう一度言ってもらってもいいですか?」

 ……恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい。

 よりによって、かなりアホっぽい響きの自作の造語を、何の説明もなしに言うなんてイタすぎる。

 本当は高貴風に神ってると言うつもりだったのだが、目の前で煌々と青の光を放つベテルギウスのインパクトが強すぎて、つい言い間違えてしまったのだ。

 「ごめん、今のは無し! とにかく君の演奏が最高だから、もっと聞きたいってこと!」

 俺は顔の前で大きく右手を振って弁明する。

 「うふふふふっ……」

 そんな俺を見て、彼女は小さく吹き出した。ひとしきり笑い終えてから、ニッコリと笑顔を浮かべる。

 「分かりました。わたしYouTuberになります」

 彼女の中で、一体どのような心境の変化があったのかは俺には分からない。けれど、返答はイエスだった。

 「よっしゃ!」

 だから俺は小さくガッツポーズを決める。


 この前の反省を生かして、俺はすぐにスマホを取り出すと、互いの連絡先を交換した。

 「柚木(ゆずき)陽斗(あきと)先輩で読み方あってますか?」

 「うん。良く分かったね。えっとこっちは……上嶋(かみしま)彩(あや)さんで大丈夫?」

 「大丈夫です」

 「じゃあ上嶋さん、これからよろしくね」

 「はい、よろしくおねがいします。柚木先輩!」

 《先輩》という響きに俺は新鮮さを感じる。部活動をやっていない俺は、下の学年との交流もほとんどないからだ。

 ん? というか……。

 「上嶋さん、どうして俺の方が年上って分かったの?」

 LINEのプロフィールにも、俺の学年が分かるような情報は書いてなかったはずだ。もしかして俺は、そんなに老けてみえるのだろうか?

 「それはですね……勘です」

 「勘?」

 予想の斜め上を行く回答に俺は若干困惑する。

 「昔からわたしの勘はよく当たるんですよ。ちなみにわたしは高一です」

 彼女はそう言って口元になまめかしい微笑を浮かべる。

 「俺は高二……」

 それしか言うことが出来なかった。俺は後輩に、一瞬で会話の主導権を奪われていた。

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