第5話
最近、新しい日課が出来た。
あの演奏から一週間、俺は毎晩草原に足を運んで隅で寝っ転がっている。それは当然、彼女の演奏を聞くためだ。
我ながら不思議なことだと思う。もともと俺は、音楽にほとんど興味の無い人間だ。以前両親に連れられてオーケストラコンサートを鑑賞した時も、睡魔に襲われたせいで中盤以降の記憶がスッポリ抜け落ちているくらいだ。にもかかわらず、彼女の演奏は俺の心を捉えて離さない。
何故だろう。彼女の演奏が特別上手だから? しかしそれならコンサートの時、睡魔に襲われた説明がつかない。第一、俺レベルの耳では奏者の上手さを判別することは不可能だ。バイオリンを初めて三日の初心者と三十年のプロの区別くらいならつくだろうが、三年と三十年の違いは分からない可能性が高い。よくテレビ番組でタレントが、一本三千円のワインと三百万円のワインの見極めに失敗しているのと同じだ。
上手さ以外の何かしらの要素が俺を惹きつけている。それが一体何なのか、気になって仕方がない。だから俺は、千春と喧嘩をしている訳でもないのに、こうして毎晩外出している。
この一週間でいくつか気づいたことがある。バイオリンの彼女は毎日、決まった時刻、夜の八時頃にふらっと現れて、一曲だけ演奏してすぐにその場を立ち去るのだ。着ている服は、毎回、白い薄手のワンピース。十月下旬ともなると、夜はかなり冷えるというのに寒くないのだろうか。まあ、真冬でも生足で歩いている女子高生はよく見かけるので、案外寒さは根性で何とかなるのかもしれない。俺には、そんな根性は無いが。
次に気がついたのは、彼女が奏でる旋律は毎晩少しずつ異なっているということ。とはいえ、それらの旋律はどれもゆったりとしたテンポで、重厚だという点では共通している。これらの情報から考えると、彼女は毎回、即興で演奏しているのではないだろうか? 俺は別に音楽に詳しい訳ではないので断言は出来ないが。
そして最後に気がついたのは、彼女の奏でる旋律は俺の頭に深く刻み込まれるということだ。ベッドの中にいる時、風呂に入っている時、学校で授業を受けている時、高貴と雑談している時……どんな時だって、俺の脳裏では彼女が前日の晩に奏でていた旋律が無限リピートされている。たったの一度しか聞いていないはずなのに。
「帰りのホームルームは以上だ」
担任の渋い声が教室に響き渡る。
脳の半分以上を彼女の旋律に支配されながら、今日も俺は、無事に一日の授業を乗り切った。
バスケ部へ急ぐ高貴を見送ってから、空き教室で数人のクラスメイトたちと雑談。それに飽きた所で、教室を離れて帰路につく。雑談が盛り上がった時は、高貴の部活が終わるまで待つこともあるが、大体の場合は途中で抜けて一人で帰る。帰る時間を好きに選べるのは、帰宅部の特権だ。
一人になった途端、脳内で奏でられていたバイオリンの音量がますます大きくなる。話し相手がいなくなって、脳細胞の全てが無限リピート再生に使われるようになったからだろう。
「ふんふ~ん」
気づけば俺は、旋律に合わせて鼻歌を歌っていた。こうしているとあっという間に家につく。悪くない暇つぶしの方法だ。
その時だった。突然、背後から息を呑む音が俺の意識に割り込んできたのは。
なんだ?
少し気になり、俺は歩みを止めてチラリと振り返る。そこには一人の可愛らしい女子高生の姿があった。
その小さな頭は、俺の肩の高さにある。この年代の女子高生としては平均的な身長だろう。全体的な体のラインはほっそりとしていて、スレンダーという言葉がよく似合う。肩甲骨の辺りまで伸びた黒髪は、秋風に乗ってサラサラと揺れていた。
彼女はひどく驚いた様子で、その琥珀色の瞳はじっと俺を見つめている。
「えっと……どうかしましたか?」
俺は彼女に声をかける。一応周囲を確認したが、彼女の視線の方向に、俺以外の人はいなかった。間違いなく彼女の視線は俺を捉えている。
しかし何故?
俺は頭を少し下へ向ける。彼女が羽織るブレザーが視界に入った。それはベージュ色で、俺が見慣れた紺色ではない。少なくとも彼女は、俺が通っている高校の生徒ではないということだ。
一層謎は深まるばかり。俺に他校の女子高生の知り合いなんていなかったはずだが……?
「突然すいません。その……今の鼻歌。どうしてご存知なんですか?」
彼女はか細く、それでいて透き通った声で俺に質問する。
まさか鼻歌について反応されるとは思わなかった。どうして彼女はそんな質問をしたのだろう? 改めて俺は彼女の全身を眺めた。
そういえば、どこかで見覚えあるような……。
俺は顎に手を当てて考える。突如、俺の全身に衝撃が走った。
思い出した……!
このスタイル、この黒髪。間違いない。目の前の子は、ここ最近、毎晩会っている彼女だ。
遠くからしか見たことがなかった上に、いつもと格好が違ったから分からなかったけど、一度気づいてしまえば見間違えようがない。
「もしかして、いつも夜にバイオリン弾いてる子?」
俺の問いかけに、彼女は目を大きく見開いた。
「……そうです。どうしてわたしのことを、ご存知なんですか?」
「あの草原は俺のお気に入りの場所だから、よく行くんだ。それで偶然、君がバイオリンを演奏しているのを耳にして、それが印象に残ってて……」
「そうでしたか……。それはすいませんでした。ご迷惑をおかけしてすみません!」
彼女は目の前で、深々と頭を下げる。
「いや、迷惑なんかじゃ……。むしろ……」
俺が続きを口にしようとした時、彼女は勢いよく頭を上げて後ずさった。
「突然お声がけして申し訳ありませんでした。失礼します」
そのまま半回転して俺に背を向けると、彼女は立ち去ろうとする。
「ちょっと待った!」
気づいた時には、俺の口は勝手に動いていた。
なんとかしてここで引き止めないと、もう彼女は二度とあの草原に現れない予感がしたのだ。
彼女は足を止め、恐る恐るといった様子でこちらを振り返る。
そのまま俺は彼女に声をかけ続ける。
「君の演奏は、史上最高の暇つぶしなんだ!」
俺の声が辺りに響き渡る。
周りの人々がチラリとこちらに視線を向け、そしてすぐ元に戻す。
言い終わってから俺は後悔する。
もう少しマシな言い方があっただろ……。
相手が高貴なら何の問題も無いのだが、今の相手はほぼ初対面の女子高生だ。突然、『史上最高の暇つぶしだ』と言われても困惑するに決まってる。すぐに本心を言ってしまうのは俺の悪い癖だ。
「暇つぶし……ですか?」
案の定、目の前の彼女は反応に困っている。
マズイマズイ、このままだと彼女は本当に帰ってしまうぞ……。
俺はここ数年間で、一番動揺していた。
何とかして彼女を引き止めないと……。
混乱した状態で俺が導き出した結論は……
「い、今からカフェにでも行かない?」
彼女をカフェに誘うことだった。
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