第3話

 「兄さん、ホンッッッットにありえない! 出てって!」

 甲高くて無駄に大きな声が、ビリビリと俺の鼓膜を揺する。

 「悪い千春(ちはる)! 俺が悪かったから!」

 必死の謝罪も、どうやら我が妹には届かなかったようで、俺は玄関から蹴り出された。

 「全く……千春は短気すぎるんだよな」

 鍵をかけられて開かなくなった家の扉を見つめながら、俺はボソリとつぶやく。

 こういう兄妹喧嘩は日常茶飯事だ。いつも俺たちはしょうもないことで言い争っている。今日の喧嘩の原因は何だっけか……。俺はつい十分ほど前のことを思い出す。


 「兄さんって救いようがないくらいだらしないよね……」

 ソファに横になってテレビを見ていたら、突然、千春に声をかけられた。台所でコップに麦茶を注ぎながら、眉をひそめてこちらを見ている。

 「突然、兄を貶すな……。それにお前だって、しょっちゅう横になってスマホいじってるだろ」

 たまらず俺は言い返す。そんな俺を無視して、千春はコクコクと美味しそうに喉を鳴らしていた。

 「おい」

 あまりに動作が緩慢なので催促する。しばらくして、ようやく千春は口を開いた。

 「私を兄さんと同じにしないでよね。私はいつも、品よく横になってるの。たとえスカートを履いていても中が見えないように注意してるし、背筋だってちゃんと伸ばしてる。それに対して兄さんはどう? 背筋は丸まってるし、中途半端に足も開いてるし……。はっきり言って人として終わってるよ?」

 よくもまあ、ここまでスラスラと人の悪口を言えるものだ。

 「俺は別にスカート履くことなんて無いんだから関係ないだろ。大体何だよ品って。貴族にでもなったつもりか?」

 「まあ部活もせず家でダラダラしてるだけの兄さんには一生わからないでしょうね」

 コップ片手に台所から出てきた千春は、ため息をつきながらゆっくりと首を横に振っている。そんな彼女の様子に、俺は少しだけカチンと来た。

 「お前、俺のことバカにしてるだろ?」

 「してるけど?」

 何を当たり前のことを? と言いたげ様子で千春はソファに転がる俺のことを見下ろしていた。流石に兄として、ここまで一方的に言われて黙っているわけにはいかない。

 「ちょっと見てろ」

 俺はリビングの隅の方に立てかけられていたテニスラケットを手に取った。

 「それ私のなんですけど」

 訝しげな表情をする千春を無視して、俺はラケットを両手で構える。

 「千春。お前はテニス部だからってちょっと偉そうにしてるけどな、俺だってやろうと思えばテニスくらい出来るんだよ!」

 俺は大きめな声で宣言すると、勢いよくラケットを振り始めた。

おっと、かなり疲れるぞこれ……。

 「はぁ……。全然姿勢がなってない。テニスを馬鹿にしないで」

 千春は呆れた様子で俺から視線をそらす。

 いかん。このままでは兄を馬鹿にするネタを一つ、千春に提供するだけになってしまう……。

 そう思った俺は、負けじと全身全霊の力を込めてラケットをブンブン振り回した。

 「どうだ千春!」

 俺の叫び声に千春がこちらを振り向いた瞬間……。つい先程、千春が食卓に置いたコップにラケットが直撃。コップは真っ二つに割れる。

 「ちょっと何してんのよ! 私のコップが……!」

 あとは皆さんご存知の通り。激怒した千春に俺は家を追い出された。


 何やってんだか。

 俺は閉ざされた家の扉を見つめながら、深く後悔していた。冷静に考えて千春よりも上手にテニスラケットを振れるはずがないのだ。これがテニスの才能がある人ならば、初めてでもそつなくこなすのかもしれないが、あいにく俺は凡人だ。それなのに無理したせいで、こうして恥をかく羽目になった。これからは余計なことをしないように気をつけたい。

 今回は一時間くらいかな……。

 俺は玄関の鍵が解除されるまでの時間を見積もる。これまでも散々喧嘩してきたおかげで、最近では割と正確に時間を予想出来るようになっていた。

 幸い、俺が今回割ったコップは、近所のスーパーで売っている安物だ。割った直後こそ千春は激怒していたものの、簡単に弁償出来るものなので、その怒りは比較的すぐ収まるだろう。いつもどおり帰り際にコンビニで、あいつの好物であるプリンを一つ買っておけば問題ない。あとは一時間、コンビニへ寄る時間を除けば五十分程度をどうにかしてやり過ごせば良いだけだ。

 今日もあそこに行くか……。

こういう時の為の、絶好の暇つぶしスポットへ足を運ぶことにした。


 俺は地面に腰を下ろして、そのまま後ろに寝っ転がった。ふかふかの芝生が全身を包み込む。

ここは家から徒歩十分ほどの所にある草原だ。休日の昼はキャッチボールをする親子などで賑わっているが、夜は人気(ひとけ)が無い。

なにか嫌なことがあった時、物思いにふけりたい時、そして今日のように千春と喧嘩した時、俺はよくこうして草原の隅っこに寝っ転がる。

 俺がこの場所を気に入っている理由は二つある。一つは人が来ないから。そしてもう一つは星がよく見えるからだ。周囲の明かりが少ないため、家の庭とは比較にならない数の星を見ることが出来る。

 俺は星が好きだ。

何故ならスケールがとにかく大きいから。芝生に転がりながら途方も無い数の星を見ていると、自分のちっぽけな悩みがどうでも良くなってくる。この瞬間だけは、心の中の雲も少し薄くなる。ここにいればあっという間に時間が過ぎる。

 しかし一週間ほど前から、状況が少しだけ変わった。見える星の数が大幅に減ったのだ。

別に俺の視力が急激に低下したわけではない。原因は明らかだ。超新星爆発したベテルギウスが、満月並みの明るさで夜空を青々と照らしており、他の星の明かりがかき消されている。

 俺はゆっくりと視線を上に向ける。思わず目を細めてしまうほど強烈な青の光線が襲ってきたので、慌ててまぶたを閉じた。

 星が見えなくなるのは、正直残念だ。世間はベテルギウスフィーバーに湧いているけれど、必ずしもそれは良いことだけでは無い。ベテルギウスは、俺には少し眩しすぎるのだ。己に欠落しているものを意識させられるようで、その輝きが俺は苦手だ。

まあ、とはいえ文句ばかり言っても仕方ない。ベテルギウスが暗くなるまでの数年の辛抱だと考えれば、これも悪くない。まぶたを透過して、網膜を薄っすらと照らす青の光を楽しみながら、俺は周囲の音に耳を傾けた。

 リーンリーンと控えめに鳴り響くコオロギの鳴き声、時たま芝生を撫でる風の音。こうして耳を澄ませているうちに、俺の心は徐々に平穏を取り戻す。

 そのまましばらくの間、微動だにせず転がっていると、突如、サクサクと草を踏み分ける音が聞こえてきた。

 誰か来たな……。

 極稀にこういうこともある。だが俺はかなり隅の方で横になっているので、気づかれることは無いはずだ。だから俺は気にせず、目を閉じたままその場に留まり続けることにした。

 しばらくして静かになったと思いきや、続いてガチャガチャと金具のようなものを操作する音が聞こえてきた。

 一体この人は何をしようとしているんだ?

 疑問に思って、俺は目を開けようとした。

その瞬間だった。

俺が全身を貫かれるような衝撃を受けたのは。

低くてゆったりとしたリズムの重厚な音が、辺りに響き渡る。

一瞬思考が停止する。

鼓膜だけでなく全身が、いや、心まで大きく揺さぶられる。こんな感覚は初めてだ。

 これは……バイオリン?

 俺は音色に誘われるように、ゆっくりとまぶたを開ける。

まず最初に目に入ったのは、俺の足元まで鋭く伸びた人の影。その影をたどって顔を上げると、そこには一人の女性の姿があった。

俺と同い年くらいだろうか?

少し距離が離れていて顔が見えないので、確信は持てない。ただ、そんな気がする。彼女は白い薄手のワンピース一枚でゆっくりと、それでいて力強く弓を上下に動かしていた。背後からベテルギウスの強烈な光に照らされて、彼女の輪郭は薄っすらと青みを帯びている。その姿はいっそ神々しさを感じさせるほど美しかった。

 この時の俺は、呆気にとられていた。全身鳥肌が立っていた。

瞬きすることさえ忘れて、この光景を目に、耳に、全身に焼き付けていた。

 彼女の演奏は本当に一瞬だった。いや、もしかしたら数分くらい弾いていたのかもしれないが、俺の体感では数十秒ほどだった。

 やがて一曲弾き終えて満足したのか、彼女は全身の力を抜くと、静かにバイオリンをケースにしまい、そのまま俺の目の前から立ち去った。

俺はそれを、ただ黙って見ることしか出来なかった。それどころかしばらく経っても、全身金縛りにあったように、その場から動くことが出来なかった。


 何時間経っても、あの演奏の衝撃が収まることは無かった。自動操縦モードで半ば無意識に帰宅した俺は、頭をスッキリさせる為に風呂に入ったが、それでも何も変わらなかった。ボディーソープとシャンプーを間違えたことに、しばらくしてから気がつく始末だ。

 一体、あの演奏の何が俺を惹きつけるんだ?

 そんなことを考えながら廊下をボーッと歩いていた所、お腹に何かが突き刺さる。ノロノロと視線を上げると、そこには右手を前に伸ばした千春の姿があった。

 「何だよ千春」

 俺は今、お前にかまっていられるほどの余裕はないんだ。

 そのまま千春の横を素通りしてリビングへ向かおうとした所、今度は右手を横に伸ばして通せんぼされた。

 「いつものは?」

 「……は?」

 ただでさえ頭が回っていないというのに、急に訳のわからないことを言われても困る。

 「いつものはいつものよ!」

 そんな困惑気味な俺の様子を意に介さず、千春はきつい口調で先程のセリフを繰り返した。

 「……」

 しかし何度言われても、分からないものは分からない。

 「もう! 兄さんなんて知らない!」

 しばらく黙ったままの俺を見て、千春は逃げるように階段を駆け上がってしまう。

 一体何だったんだ……。

 千春の言動を理解できないままリビングへ足を運ぶと、台所にいた母さんと目が合った。

 「ちゃんと千春と仲直りしたの?」

 「えっ、仲直り……?」

 「そうよ。あんた、千春のコップ割ったんでしょ? ちゃんと謝っときなさいよ」

 この時、ようやく俺は最初の目的をすっかり忘れていたことに気がついた。

 「あっ……プリン!!」

 まさか、こんな基本的なことをど忘れするとは……。

 俺は慌ててカーディガンを羽織ると、若干の肌寒さを感じながらもパジャマのまま玄関を飛び出す。

 こんなミスをしたのは初めてだ。俺らしくない。

 結局、いつもの倍量である二個のプリンを買うことで、なんとか俺は千春の許しを得ることが出来たのだった。

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