第4話 最後の泡沫~スコット・F・フィッツジェラルド『華麗なるギャツビー』オマージュ作
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六本木ヒルズの威容は見る者を二分する。この上層階まで上り詰めてやろうと思う者と、その威圧感に圧倒され、委縮し、ヒルズ族と呼ばれる<あちら側の人々>にコンプレックスを抱く者とに。
ヒルズで行われたIT起業家向けセミナーに興味本位で顔を出した僕などは後者の最たるもので、胸苦しささえ覚えたものだ。
「卒業後は何をやる予定だい?」
会場で出会った人にそう聞かれて、
「まだ決めていません。ここへは情報収集に来たので。『大切なのは時流を見極めることと信用のできる数値、根性論や根拠のない希望は無意味』、でしょう?」
と、いかにも訳知り顔で答えてみたものの、内心では地方出身の大学生など何ほどのものでもない、お前など空っぽだ、と見透かされているような気がしてびくびくしていた。
だから、偶然にも橅木と顔を合わせてしまい、レジデンス棟にある自宅に立ち寄れと言われたときも、全く乗り気ではなかった。
橅木が僕を誘った理由は日名子だ。彼は、僕の従兄妹である日名子と結婚したのだ。
今でこそ六本木女子などという名前があるが、日名子は、その先駆けのような存在だった。裕福な親から美しい容姿と散財の仕方を学び、洗練された媚態で力を誇示したがる男を手玉に取る。
橅木は、結婚式での印象通り、傲慢と知ったかぶりと口先だけの男だが、あの時期、あの界隈で成功しようと思ったら、その三つが必要だった。それらは、いわゆる人脈を築くのに必須なものだから。加えて、美しい見栄えのする妻を手に入れ、彼はあの時、全く勢いに乗っていた。
果たしてレジデンスに行くと、日名子とともに、元オリンピック選手で引退後はタレントとして売り出し中の城の姿があった。
テレビで見せる、明るく溌剌とした元アスリートという顔とは違い、現実の彼女の姿はクールで皮肉屋で妖艶だった。彼女は、橅木が携帯に出るために席を外す度に意味ありげな視線を送って来た。僕がたまらず「何?」と聞くとニヤリと笑って「女からの電話よ、アレ」と小声で言うのだ。
深夜も近い時間になって橅木宅を辞去した僕は、改めて地上から、聳え立つレジデンス棟を見上げた。僕はこちら側に来れるのだろうか、という疑問とも希望とも言えぬ思いとともに。
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その後六本木付近で偶然に橅木を見かけた時も、逃げ出そうかと思ったが、家に招待されて礼の一つも言わないのはマナー違反だろうと考え、仕方なく声をかけた。すると何を勘違いしたのか、鵜入のバーに引っ張って行かれたのだ。
そこは、オーナーの鵜入夫妻だけで経営する会員制のバーということだったが、あまり繁盛しているようには見えなかった。僕たちは一杯だけ飲んですぐに店を出たのだが、鏑木は何故か店の前でじっと何かを待っている。しびれを切らして「何を待っているんですか」と聞こうとしたところで、店の中から女性が出て来た。オーナーの鵜入の妻、桃子だった。連れ立って歩きながら、桃子はどんどんスマホで人を呼ぶ。
目的地の小ぢんまりしたマンションに着くと、すぐに桃子の妹の凛子と正体のよくわからない人物数名がやってきて、パーティが始まった。
そのパーティでの話題は、六本木界隈の有名店の人物評、ゴシップ、そしてどの会社が次に上場するか。
その時、凛子の口から木屋津の名前を聞いたのだ。彼女の評としては、彼は「なんか大物の血縁という噂で、要注目の人物」ということだった。
それらの話に適当に相槌を打っていた僕は、何故か鏑木に気に入られたらしく、ヒルズの彼が経営する会社でバイトをすることになった。
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そんな経緯で六本木界隈をウロウロするようになった僕だから、木屋津から直接、彼のパーティへの招待を受けた時は正直言って面喰らった。
彼の派手なパーティの噂は聞いていた。最上階に設えたオフィスフロアの一角に、専用のパーティルームを作り、芸能人や起業家、スポーツ選手に文化人、様々な人を招いている、と。それが、根も葉もない噂ではないのだろうと思うのは、エレベーターで時々そういった人々を見かけたからだ。彼らはいつも最上階で降り、最上階から降りてくる。そのフロアは、いつしか僕の憧れとなっていた。
そんな彼に招待を受けたら、理由なんてわからなくても、誰だって足を運んでしまうだろう?
パーティは盛況だった。驚いたことに、鏑木邸で会った城もいた。しかし不思議なことに、人が多すぎて、誰が本当に木屋津と知り合いなのかわからない。みな、噂話でしか彼を知らないのだ。
「なんだか雰囲気が怖い人らしいの」
「右翼の大物と知り合いらしい」
「もとは、半グレくずれだってさ」
みな、大して木屋津氏のことを知らないようだが、憶測だけはあれこれ口にする。
そんな中、一人の男性に声をかけられた。
僕が正直に、「招待してくれた方をあまり知らないんです」と言うと、驚くべき答えが返って来た。
「僕が、木屋津です」
その言葉に、改めて彼を見直す。生地も仕立てもデザインも最高レベルのスーツ、そして磨き上げあられた靴。それでいて、他の人たちとは違って、押し出しの強すぎない、穏やかな話し方。僕は、彼に<いい人>
>という印象を受けた。六本木界隈の人間には珍しい印象だ。
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木屋津について驚いたのは、その第一印象が前評判よりもすこぶる良かった点だけではない。その数日後に、城から聞いた話の方が数倍の驚きだった。
日名子と木屋津は知り合い、というよりも恋人だったというのだ。日名子が18の時、友人に誘われた学生ボランティアの活動で木屋津と知り合い、それからしばらくの間付き合っていたというのだ。卒業と同時に親の都合で東京を離れるが、最後の日、木屋津は待ち合わせの場所に来なかったと言う。城は、そこに日名子の両親の画策をにおわせていたが、正確なところはわからない。いずれにせよ、木屋津と日名子の縁は途絶えてしまい、日名子は鏑木と結婚した。
この話を聞いて、僕は木屋津からの頼み事に合点した。この前日に、僕は木屋津からこう言われていたのだ。
「僕と彼女が偶然出会うように手配してもらえないか」と。
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正直、乗り気ではなかったが、木屋津の印象が良かったので、僕は彼の頼みをきいた。
当日、約束の場所に随分早くやってきた彼を見て、僕は心配になった。あまりにも緊張しすぎていて、まともな会話ができないのではないかと思ったのだ。
約束の時間が近づくと、木屋津はうろうろ歩き回り、日時について何度も確認し――日名子の方で勘違いしているのではないかと――、さらには窓から何度も外を覗き見た。
しかし、ようやっと彼女の姿が外に見えると、今度は帰ろうとし始めた。「やっぱり無理だ。こんなこと上手くいくはずがなかったんだ」と言って。
僕が彼を押しとどめて、やってきた日名子と引き合わせた後も、しばらくは気まずい緊張した空気が部屋を満たした。しかし、耐えられなくなった僕が席をはずし、戻って来た時には空気は一変していた。
日名子は泣いていた。
僕は再び二人だけを残してその場を離れた。
その後しばらくしてから戻ると、二人はまったく元気な様子で、日名子は「三人で一緒に木屋津のオフィスを見学に行こう」と言い出した。
日名子は、木屋津のオフィスの豪華な調度品を褒め、あちこちに飾られた著名人のアート作品に驚嘆し、有名スポーツ選手のサイン入りグッズや芸能人のサイン入りポスターなどに歓声を上げた。そして――再び泣き始めた。
「だって……木屋津さんが、あんまり夢みたいな成功をしたんですもの」
僕は、それを見て木屋津と日名子を残して辞去した。
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その夜、木屋津から長いメールが来た。そこには、謎に包まれていた木屋津という人間の真実があった。
彼は、地方にある鄙びた観光地の公務員の家に生まれついた。そこで、バブル絶頂期の89年――丁度、彼が高校を卒業して上京した年――に、バイト先のNPO法人で、学生ボランティアをしていた日名子と出会った。彼は、日名子に対して有名大学の学生だと嘘をついて付き合っていたが、それは日名子の親の知る所となった。彼は、彼の嘘を黙っている代わりに、日名子と二度と会わないことを約束させられた。その後、ある金融業界の大物の仕手筋の人間と出会い、彼とともに数年の放蕩生活を送り、金儲けの方法と上流階級を唸らせる洗練された趣味を学んだということだ。
彼がこのメールを送って来たのは、別に僕に自分の側についてほしいと言うことではなかったと思う。しかし、僕の立場は微妙なものだった。
特にあの、木屋津のパーティで橅木と日名子の姿を見つけた日は。
橅木の態度は、あからさまに木屋津の出自を疑わしいものと決めてかかっていて挑発的だった。その一方で、日名子も、そのパーティの空虚さに気づきはじめて、全く楽しそうではなかった。ただ木屋津のみが、金の力でバブル華やかなりし過去に、日名子と別れる前の過去に、戻ることができると思っていた。
一体僕に何ができただろう?
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そのパーティを最後に、ビルの中で派手な顔ぶれを見ることがなくなり、木屋津のパーティが開かれていないことに気付いた。ほどなく、木屋津の会社でリストラが行われたという噂を耳にした。経営危機、という言葉とともに。
そんな折、今度は鏑木から、僕と木屋津と城が招かれた。まったく乗り気ではなかったが、木屋津の様子が気になっていたのと、僕が行かずに木屋津だけが行くことの方が心配なので、仕方なく招待を受けた。
予感は的中した。日名子と木屋津の様子がおかしいことに、橅木は気づいていた。互いにけん制し合い、当てこすりをいい、口論が始まった時、とうとういたたまれなくなった日名子は部屋を飛び出して行った。
木屋津は、すぐに日名子の後を追った。
一時間もかからなかっただろう。その後、警察から「飲酒運転で事故を起こした」という知らせが来るまで。
二人の怪我はそうひどくはなかった――日名子が少し胸を打った――が、相手の車に乗っていた女性が骨折をしたこと、二人がいわゆるヒルズ族だったこと、乗っていたのが木屋津の高級外車だったこと、そして二人が少し酒を飲んでいたことから、「ヒルズ族の傲慢」という文脈で、センセーショナルな記事を書きたてられた。さらに二人の不倫をにおわせるような内容のものまであり、木屋津の会社は壊滅的ダメージを受けた。
その原因の一端は、鵜入だった。マスコミから取材が来たが、桃子と鏑木の浮気を知っていた鵜入は、鏑木の妻である日名子と鏑木の二人のことを、テレビインタビューでクソみそにけなしたのだ。
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事故の後、一度だけ木屋津と話した。僕は、学生時代に一度交通事故を経験したので、彼と日名子の怪我の具合から不審に思っていたことを問い質した。「本当は、日名子が運転していたのではないか?」と。
彼は、僕の眼をじっと見つめて、何も言わなかった。
「よく、警察にバレなかったですね」
「……苦労したよ。でも、何とかやり遂げた」
「そうですか……でも、それでよかったんですか?」
「ああ、もちろんだ」
彼はきっぱりと言い切った。それが、彼と交わした最後の言葉だった。
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事故をきっかけに、ヒルズから木屋津が消えた。会社ごと。その後ほどなく、いわゆるITバブルが終焉を迎えて、世の中全体の雰囲気が変わった。
城とはあれから会っていない。最近ではテレビでも見かけなくなったが、健康食品や美容グッズなどの会社を経営しているようで、ネット広告でその名をたまに見かける。
橅木と日名子は、ヒルズから郊外へと引っ越した。一度だけ、偶然に鏑木と道で会った。短い挨拶を交わし、事故の件には触れないようにしたが、鏑木は自分からその話をした。凛子にはマスコミ業界にコネがあり、記事を抑えるのに多少は役立ち、思いがけず助かった、と。その話を聞き、僕は二度と彼にも日名子にも会うことはないだろうと思った。
僕自身も、六本木近くのアパートから引っ越した。
引っ越しの日、僕は木屋津のことを想い返して、高く聳え立つヒルズのビル群を見上げた。あの華やかなパーティ。そして最後に交わした言葉。
「……でも、それでよかったんですか?」
「ああ、もちろんだ」
もう、彼の名前は人の口にのぼらない。誰も覚えてすらいないのだろう。僕以外は。
★元ネタについて
この作品のスゴイところは、タイトルと登場までの惹きの良さ。本の題名がそのままキーパーソンであるギャッツビーなんだけど、ギャッツビーが、名前だけ出てくるけど、なかなかご本人登場にならない。これは、読者も追体験してるんですよね、主人公ニックの感覚を。
あとは、後半の〇〇〇〇〇の見事さですね。そこであっと言わせておいて、最後に、物静かに、しめやかに終わる潔さ。一番面白いとこなので、書きませんでしたが。ぜひ原作を読んでみてください。
ある意味滑稽ですらある、ひたすらに純粋な恋の物語。読んで損のない小説です。
BOOK☆WALKERさんでは、『華麗なるギャツビー』、『グレート・ギャツビー』と二種類のタイトルがあり、翻訳者さんもいろいろに取り揃えていて、冒頭試し読みもできますよ。
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