伝説のデビュー
さくらさくら
そのアイドルは、山吹った桜子だった。ステージの正面に振り返った桜子は、心の中で叫んでいた。
(なんで、なんで、なんでーっ! 太郎がこんなところにっ!)
太郎を見つけ、一時的に狼狽した。だがそれは誰にも気付かれなかった。マイクを握り、歌い、踊った。
(太郎ったら、気付いてないじゃん! 私だと思ってないじゃん!)
持ち直した桜子は、次々に伝説を築いていく。
「さぁみなさーん。盛り上がっていこう、ねっ!」
この一言で、会場にいる全員を虜にした。右を向けば右が、左を見れば左が殺気立つほどに沸いた。正面を向き両手を広げれば、会場全体がドドドッと盛り上がった。
(なにこれ、たっのしーっ! 太郎まで、私に夢中じゃん)
調子に乗った桜子は、ファンを煽りに煽った。早い段階で踊るのを辞めていたが、曲の中盤には歌うことさえ辞めた。テンポアップされた演歌のカラオケに合わせて、コールやミックスを要求したり、手拍子を催促した。
「さくらコール、いっくよーっ! はいっ、せーのっ!」
「さーくらっ! さーくらっ! さーくらっ! さーくらっ!」
「みんな、ありがとう!」
「イェーイ!」
「お次はミックスだよーっ! あーっ!」
「ジャージャーッ……。」
桜子にノセられていたのは、ホールにいたファンだけではない。ロビーで透かして見ていたファンも、いつの間にか全員ホールに入っていた。それを見計らい会場スタッフは、ロビーのスピーカーの音量を上げ、防音扉を開いた。
ホール内の熱気が街へと放たれる。異変を感じ取った通行人が、次々に入場してくる。防音扉はものの5分で再び閉じられた。その間にホールは満員になっていた。そして、ホールにいる誰もが熱狂していた。
自己紹介もせず立て続けに4曲を披露する新人アイドルなんていない。それよりも珍しいのは、そのアイドルが歌っていないことだ。煽るだけ煽っておきながら歌わないし踊らない。だが、煽った分以上に会場は盛り上がっていった。
そして、ようやく挨拶をすることになった。既にコールをしているファンの中には、挨拶だけではこと足りず、桜子の目線欲しさにその名を叫ぶ者もいる。
「みなさーん、こんにちはーっ!」
「こんにちはーっ!」
「さくら様ーっ!」
「こっち見てー!」
「あ・い・し・て・るぅー」
「………………。」
鎮まるのに2分。そしてまた桜子の一言に、ボルテージが上がる。
「はじめまして。さくらさくらでーすっ!」
「さくらさくらーっ!」
「さくら様ーっ!」
「こっち見てー!」
「あ・い・し・て・るぅー!」
「………………。」
それでまた2分が経過した。桜子は、余裕をもってホールを観察することができた。だから、太郎の持ち物にも目が行った。ロールケーキの美味しい喫茶店のロールケーキだ。
「特典会は、握手会10秒5000円からです! 是非お越しください!」
「行く行く! 絶対行くーっ!」
「オレもー!」
「さくらーっ、待っててねーっ!」
「ATMに寄ってから駆けつけるよーっ!」
「………………。」
「ただし氏名にさくらがついてる方は1回だけ無料でお楽しみいただけます」
「なっ、なんだそれーっ!」
「桜田とか、桜沢とかだな! 羨ましいぜ」
「………………。」
「あと、ロールケーキとかお土産持参の方も1回無料です!」
「くっ。ロールケーキの美味しい喫茶店に寄ってくればよかった」
「いや、まだだ。まだ間に合う。コンビニ経由で喫茶店だ」
「俺は先に喫茶店によるぞっ!」
「………………。」
「兎に角、5分後にロビーで特典会を行うので、みんな来てねーっ!」
「行く行く行くーっ!」
「………………。」
「以上、さくらさくらでしたっ。みんな、ありがとうっ!」
「さくらっ、さくらっ、さくらっ」
「………………。」
こうして、伝説のステージは幕を閉じた。
明菜は松田とレッスンのスケジュールを確認した。それが終わると、松田は直ぐにでも明菜の両親に挨拶がしたいと言い出した。明菜はそれを受け入れて、自宅へと向かうこととなり、喫茶店をあとにした。
その途中、高級そうな店の前を通った。そのとき明菜はショーウインドウに飾られているはずの、着る人を選びそうなワンピースがなくなっているのに気付いた。明菜は立ち止まって言った。
「誰かが買ったのかしら……。」
「あぁっ、本当だ。なくなってるね」
「とても残念だわ。いつかは着てみたいと思ってたのに」
「芸能界で活躍すれば、先生がきっと、もっといい服をしつらってくれるよ」
そのあと松田は明菜を進むように促した。明菜にはまだ着る人を選びそうなワンピースへの未練があったが、それでも松田の催促を受け入れて歩きはじめた。
アイドルオタクがロールケーキの美味しい喫茶店に大挙して訪れたのは、明菜たちが店を出た直後のことだった。だから、明菜たちはこの日、伝説のステージが執り行われたことを知らなかった。
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