予感
太郎は、桜子へのお土産にと、ロールケーキを買った。選んだものは偶然にも限定メニュー。明菜と松田を残してロールケーキの美味しい喫茶店をあとにした。その直後、太郎はアイドルオタクで有名なクラスメイトにバタリと会った。
「雄大じゃないかっ! どうしたんだ?」
「やぁ、佐倉氏、それはこっちのセリフさ。僕はこの店の常連だけど」
田中雄大、明らかにおしゃれには無頓着な、100キロ超の巨漢。太郎には腑に落ちきらないものがあった。田中はおしゃれな店の常連だなんて、思いもよらなかった。その謎に、田中が先回りした。
「お忍びで来ているアイドルのはなしが聞こえてくるし、土産も買えるからね」
太郎の脳裏に明菜のことが浮かんだ。契約したばかりでデビュー前とはいえ立派なアイドル。田中が明菜と松田のはなしを盗み聞きするかもと思うと、このまま田中を店に入れてはいけないと思った。だから、太郎は言った。
「今日もイベントがあるのかい?」
「そっ、そうなんだよ。さすがは佐倉氏。察しがいい!」
「それじゃあ、俺も連れてってよ!」
「もちのろん! 少し早いけど、向かおう。直ぐそこだよ」
こうして、太郎は田中に連れられて、とある小さなライブハウスに向かうこととなった。こうして田中をロールケーキの美味しい喫茶店から引き離すことに成功した。
ライブハウスに着いた太郎だが、直ぐに入ることはできなかった。入口の前の公道上には、既に30名程度の行列ができている。『ぴえんぴえん』というアイドルユニットのファンの集まりだ。ぴえんは田中の推しでもある。
その集団、不思議にも各々は全く繋がっていない。スマホに目を向けている者。今日の軍資金を執拗に確認する者。にやにやしながら前回までの戦利品を抱えている者。無表情にタイムテーブルを眺めている者。千差万別だ。
共通しているのは服のみ。きついピンク色のTシャツ。太郎の服は偶然にもピンク色だった。やや淡くはあるが、見事に同化した。列の最後尾に並んだときそれに気付いた太郎は、小っ恥ずかしくなった。
田中は落ち着き払って鞄からTシャツを取り出して、着ていた服の上から着込んだ。
「ぴえんのこと、佐倉氏もきっと気にいるよ。Tシャツ買いな!」
「そうだね。だといいなぁ。そしたら買っちゃうかもっ」
愛想よくそう言った太郎だが、その気は全くなかった。太郎の目的は、田中をロールケーキの美味しい喫茶店に入れないことだけ。明菜が退店するであろう30分も持ち堪えれば、抜け出すつもりでいた。
開演まであと10分。防音加工が施された重たいドアを係の人が開けた。このライブハウスの売りは音の良さ。そして大きさ。開演前のムードミュージックのベース音が、ズンズンズンと、まだ外にいる太郎の腹を圧した。
「すごい音! 響くねっ」
「そんなにビビらなくても、じきに慣れるよ」
このときの大音量は太郎にとっては不快なものだった。本当はアイドルのライブに参戦するよりも、桜子を探しに行きたい。だが、田中にビビってるなどと言われては、直ぐに引っ込むわけにも行かなくなった。
行列が進み、太郎と田中も入場した。扉の中に入ると直ぐに階段がある。人を拒むような、薄暗い陰気な階段。1段降りる毎に音量が増していく。降り切ったところにロビー。カウンターやこれみよがしに大音を発するスピーカがある。
「ぴえんの出番は14時10分。特典会はここで14時35分からだよ」
「そうなんだ。それは楽しみだな、あははははっ」
田中は終始上機嫌だった。太郎を相手にやれトイレはどこだの、特典会はどこでやるだの、ここのグレフルジュースは美味いだのとはなし、館内を案内した。太郎はうしろめたさを感じずにはいられなかった。
太郎は田中と一緒にホールに入った。スタンディングで100人収容。ステージは30センチほど迫り上がっただけの簡単なもの。左右の壁は鏡面になっていて、太郎には広々としているように感じられた。
もう1つ、太郎が広く感じた理由がある。ホールにはまだ10人程度しかいないのだ。他はまだロビーでくつろいでいる。それが太郎には不思議でしかたなかった。
「ぴえんの出番までは、入ってこないと思うよ」
「お金払ったのに、見もしないでロビーで待つっていうの?」
「興味のないユニットには目もくれないという人が多いんだ」
「雄大も本当は、外にいたいのか?」
「もちのろん。でも佐倉氏がアイドルに興味を持ってくれたし、ここでいいよ」
「そう。それは、何だか悪いな……。」
館内がさらに暗くなる。音量が一瞬だけ最大となり、直ぐにフェードアウトしていく。開演を知らせる演出だ。空気が張りつめる。田中が太郎に対して、まるで自分のことのように自慢気に言った。
「さぁ、はじまるでござる!」
太郎は、言われなくても分かってると言いたかったが、それは言わなかった。だが、ある種の高揚感を覚え、最前列へと歩み寄っていった。
登場曲が流れる。1人のアイドルが暗いステージ上を中央へと進む。昨今では珍しいソロ。中央で立ち止まる。背後を向いているのもあるが、誰の目にもその顔は見えない。登場曲が止まる。
ホールにいる誰もがステージの中央に注目した。ただならぬ気配。伝説がはじまる予感。ロビーからも、1人2人と吸い寄せられるようにホールへと移ってきた。
「誰だ? 代打だってはなしだけど……。」
「新人? いや、かなり小慣れてる」
「何だ? この感じ!」
「この胸の高鳴り!」
「久し振りだなっ」
「俺ははじめてかもしれない」
まだ暗い中、曲がかかる。絶妙なタイミングでスポットライトが焚かれる。まだ背後向きのアイドル。1つ2つと客席からも薄暗い光が発せられる。応援用のサイリウム。ライブハウス内の見た目がガラリと変わり、熱気に溢れる。
見た目だけではない。音量も桁違いに増えた。ミックスと呼ばれるアイドルシーン特有の応援がはじまった。アイドルが誰かも、どんな顔かも、どんな声かも分からないのに。声援だけなら、既に超絶人気アイドル並みとなっていた。
太郎も田中も、ホールにいる誰もがリズムに合わせて何度も拳を突き上げる。前奏が終わり、アイドルが振り返った。
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