十六番 大吉:初心忘れるべからず


 休日、俺は神崎の家に遊びに行っていた。だが、遊びに行くというのはあくまで建前であり、その目的は別にある。まあとはいっても、ただ体育祭に来てくれというだけなのだが。今日は姉が料理を教えてもらいたいとのことで、姉も一緒に来ていた。

「油の温度は菜箸を油に入れて確認するのよ~。」

「ほんとだ、しゅわしゅわしてる。シュワちゃん?」

「そうそう、溶鉱炉に落ちていくの。」

いや、それは違うだろ。

一方で俺は、神崎に勉強を教えていた。体育祭の一週間後はテストである。なぜこうぎちぎちのスケジュールにするのだろうとは思うが、二学期の中間試験と期末試験の期間を考えると、このタイミングしか無かったりはする。そんな仕方なさを孕んだテストを前に、神崎はうなっていた。

「う~ん。」

「どうしたんだ神崎。何かわからないところがあるか?」

「わからないっていうほどわからないわけでももないんだけど、やっぱ一学期にやってた内容ってまだそこまで高校の内容じゃなかったんだなーって。」

「なるほど…。」

言われてみればそうだ。中学の振り返りのような内容だった一学期から、だんだんと難しくなってきている。けどお前、その中学の振り返りみたいな内容にも追いついていなかったよな。

「なんとかおいて行かれないように頑張らないと。」

「『がんばらないと』か。」

こいつは中学時代勉強はサボってたのかもしれないが、何にもしていなかったわけではない。こいつはこいつなりに、常に前を向いていたのである。中学時代と今、向いている方向は違えど前を向いていることに変わりわない。こいつはこういうやつなのである。こいつは本当に…。

「どしたの鬼山くん。私の顔、何かついてる?」

「あ、いや、別に…。」

俺は今何を考えていた…?それに、俺はいつからこんな考えをするようになっていたんだ?それもこれも多分全部こいつのせいで…。

「あっつ…!」

「う、うるせえよ!」

「あ、ごめんごめん歩夢。油が散っちゃって…。」

「え、あ、油…?そうか、ごめん…。」

反射的に姉に返してしまったが、早とちりだったようだ。いやそもそも何の早とちりだよ…。

「どしたの鬼山くん、風邪でも引いた?」

「か、神崎!?ちょっとま…。」

神崎は前髪を上げ、自身の額を俺の額に当ててくる。こんな熱の測り方する奴は都市伝説だと思ってたんだが。

「顔は赤いけど、熱はなさそうだね。無理はしちゃだめだよ?」

「あ、ああ。ありがとう。」 

この行為に全く悪意はなく、むしろ良心十割でできている。俺は何も言えず、ただお礼を言うだけだった。

「晩御飯できたわよ、二人とも。」

「お姉ちゃん初の揚げ物です!ご賞味あれ~。」

「わあー!おいしそう!!」

大皿に盛り付けられたから揚げを前に、神崎の目は輝いていた。それは俺も例外ではない。揚げ物のこうばしい香り。それが鼻に入った途端、急激に胃が空腹を訴えてくる。俺はすぐさま机の上に会った勉強道具を片付け、食卓を作る体制に入る。さあ、晩御飯の時間である。


△▼


「「いただきまーす。」」

「「はい、どうぞ。」」

圧倒的な量のから揚げの中の一つを取り、それに一口かじりつく。サクサクの衣の中に、プルリとした鶏肉がある。この一口で、茶碗によそってあったはずのごはんはすっかりなくなっていた。

「いい食べっぷりねえ、鬼山くん。おかわりついで上げるわね。」

「あ、えっと、じゃあお言葉に甘えて…。」

遠慮をするところなのかもしれないが、神崎母はあっという間にお茶碗を持って行っていたうえ、俺も食欲が脳内で猛威をふるっていたのでそれに従った。

「体育祭も控えているものね。男の子にはしっかり食べてもらわないと。」

「知ってたんですか?体育祭があること。」

知っていたのは意外だった。神崎もぽけーっとしていたので、神崎が教えたわけではなさそうだ。

「学校の予定表が毎月配られるの。それはいつも確認しているわ。」

神崎が「あーなるほど」みたいな動作をしている。子供番組のお姉さんぐらい動くなこいつ。そんなわかりやすくなくていいんだぞ。

「体育祭、もしよかったら来てくれませんか?今回、神崎がアンカーをするんです。」

「美緒が…?」

「はい。」

クラスリレーの順番を決める際、俺が提案したことだった。寺島や天文寺も賛成してくれたので、思っていたより話はスムーズだった。

「そうなの?美緒。」

「うん。久しぶりに走りたくなっちゃって。」

こうは言うがしかし、その顔はほんの少しだけ曇っていた。俺が部活のことを聞いた時以上にわずかな曇りだった。これで本当によかったのだろうかと思ってしまうが、神崎家の仲直りはきっと神崎にとってもいいことだと思うので、少し見えた曇りは意識から外した。

「せっかく美緒が走るなら行ってみようかしら。」

「はい、是非。」

ただ体育祭に来てもらうだけなので、そんなに難しいことじゃない。順調である。

「ところで、どうして鬼山くんが私に?もしかして…。」

逆説。話をそのままの流れで進めたいときに一番聞きたくない単語である。おれは神崎母のことを侮っていたのかもしれないと思った。

「私を口説こうとしてるのかしら。照れるわねえ。」

そんなことはなかった。神崎の意味不意なタイミングで照れるのは母親譲りのものだったのか。

「でも私には夫がいるもの。心苦しいけど、ごめんね。」

なんか振られたんだが。

「ぷーくくく。」

なんか姉に小馬鹿にされてるんだが。


△▼


 勉強を一通り教え終え、日はすっかり暮れていた。

「さて、そろそろお暇させていただきます。」

「あら、もう帰っちゃうの?」

神崎母は少し寂しげな様子だった。神崎がいるとはいえ、いえには二人。にぎやかなほうが好きなのかもしれない。父親も愉快な人だしな。

「夜分遅くまですみません、今日はお世話になりました。」

「いーえ。また遊びに来てね。」

「晩御飯ごちそうさまでした。」

「お粗末様ー。」

神崎が言うのかよ。お前別に何もしてないだろ。

「あ、どうせ暇だし送っていくよー。」

「いいのか?」

神崎はこくりとうなずく。

「あ、あーー!お醤油買わなきゃー。歩夢先帰ってて―。」

「おい、姉よ。また醤油を買うのか?」

「いやあ、えと、切らしちゃっててねえ。」

そんな高頻度で使ってるのか…?塩分過多で死ぬんだが。ま、まあ多分大丈夫だろ。看護学校出てるわけだし。

「じゃあまあ、先に帰っとくぞ。」

「うん、ばいばーい。」

そうして姉は手を振りながら闇夜に消えていった。なにかそそくさとした感じだったが、そんなに醤油が大事か?確かに和食の命ではあるけども。そう考えながら、神崎と歩いていた。

「いいお姉さんだよね。」

「まあそこは否定しないが、今そういうところあったか?」

もしかしたら俺が知らないだけで醤油を買い忘れることはいいことなのかもしれない。またはそういう姉を思い描いているのかもしれない。思えば神崎は一人っ子である。

「時に神崎、妹ができるって言ったらどうする?」

「え!?鬼山くんが産んでくれるの?」

え、男って出産できるんだっけ。

「妹ができるんだー!やったー。」

まあできなくもないのか。

「うれしいのはうれしんだな。」

「ずっとお姉ちゃんか妹が欲しいって思ってたんだー。お姉ちゃんは香織さんだから、これで三姉妹だよー。いつ産まれるの?」

「あ、えーっと…体育祭の日かな。」

「え、そんなに近いの!?楽しみだなあ~。」

何かと引っかかるが、本人はうれしそうだしそのままでいいや。しかしだんだん、顔が暗くなっていく。

「どうかしたのか?」

「あたし、走っていいのかな。」

「神崎…。」

神崎が少し困ったような笑顔で言った言葉に対し、俺は何も言うことができなかった。しかし俺は何も言うことができなかった。遊園地の一件で勝手にけりが付いたと思っていたがそう簡単に変われるものでもない。それに今回は俺の都合も入っていた。神崎のことを考えていなかったかもしれない。

「でも…頼りにされてるんだもんね!久しぶりに走ったら足がつっちゃうかもしれないし、ちょっと走って帰ろっかな!また明日ね!」

「…おう。気をつけてな。」

神崎は途中まで送ってくれたあと、走って帰ったいった。その足は少し、重そうにも見えた。


△▼


 数日後、体育祭当日である。「準備万端。」とは言えないができる限りの準備はした。あとは神崎の父がうまくやってくれることを願うしかない。そんなことを考えつつ高校前の坂を上っていると、見慣れた少し細身の男子生徒がいた。

「おはようございます大量殺人鬼藤坂先輩。」

「ひどいあだ名が着いたものですね。おはようございます、鬼山くん。」

「あれってどういう意味だったんですか?」

流石に大量殺人鬼じゃないとは思うのだが。

「あれはFPSゲームの話ですね。」

一万キルというのがどれぐらいのものかわからないが、学校や勉強をきちんとこなしているうえでこの数字は多い気がする。

「大丈夫ですか?少し浮かない顔をしているようですが。」

そういわれ、ふと手で口元を隠す。そんなに顔に出てるのか、俺。

「神崎はあの身体能力なので、俺が体育祭のアンカーに推薦したんです。でも、実はそうしたのはこちらの都合もあって、尚且つ神崎はあまり乗り気ではないみたいで…。無理やりになってしまったなと。」

「なるほど…。」

そう言って藤坂さんは手を顎に当て少し考えた後、そのまま続けた。

「そうですね、鬼山くんの都合とか神崎さんの思いとか色々あると思いますが、鬼山くんはどうなんですか?」

「俺…ですか?」

「そうです。鬼山くんは神崎さんにどうしてほしいのか。そこが一番重要なんじゃないんですかね。」

「俺は神崎にどうしてほしいか、か…。」

俺は考えながら、早朝の学校に入っていった。


△▼


「なあ、俺はどうしてほしいんだと思う?」

「長い残業の後で疲れ果てて家に帰った時に待っていてほしいんだと思う!」

「勝手に同棲させるな。」

俺は放送部から頼まれて、軽音部室においてある校内共有のアンプを取りにいっていた。

「でもその神崎さんっていうのは僕聞いたことありますよ?身体能力テストで男子の記録と平気で並んでるそうですね。」

バケモンじゃねえか。

「でも中学の時のほうがもっと速かったって言ってる人もいるみたいだぞ!」

「そうなんですか部長!流石物知りです!」

もち上げすぎだろそれは。

「だからまあ、その神崎ちゃんはまだ本気を出してないってことは…」

「秘められ七からの解放ですね…」

「それを解き放つカギはきっと君というわけだ鬼山くん!がんばりたまえよ!」

「じゃあアンプ借りていきますねー。」

「あ…うん…。」

「元気出してください部長!あんなノリの悪いやつ、財布でも落とせばいいんですよ!」

妙にリアルなのは本当に起こりそうなのでやめてほしいなと思いつつ、俺は軽音部室を後にした。


△▼


『続いての競技は、一年生によるクラス対抗リレーです。』


放送部のアナウンスの後に、一年が入場する。問題の、クラス対抗リレーが始まってしまった。まだ結局答えは出ていないままである。思えば今日一日ずっと活躍していた神崎だが、しかし特別目立っていたわけでもないのだ。おそらく噂通り、神崎は本気を出していないのだろう。自分が目立ちすぎると人に迷惑が掛かってしまうという思いでそうしているのだろうか。だったら逆に神崎はどういうときに本気を出すのだろう。神崎は何のために…。

「歩夢くん、君の番だよ。」

「あ、ああ。」

天文寺に肩をたたかれ、ふと我に返る。立ち上がりスタートラインに着く。神崎がアンカーではあるのだが、その神崎にバトンを渡すのは俺の役目になっている。アンカーほどではないが、気を抜けない重要な役割である。走ってくる寺島を確認し、バトンを受け取り、俺は走った。ラスト付近ということもあって百メートルあったが、走ってみればあっという間だった。そして神崎が見えてくる。神崎にバトンを渡すまであと少し、ほんの少しのところだった。

俺はそこでバランスを崩した。ああ、また俺は不運なことで誰かに迷惑をかけてしまうのか。やっぱり俺は、人ととかかわるべきじゃなかったのかもしれない。

このままじゃ倒れる、そう思った時、しかして俺の体は軽くなる。

「よかった間に合って。あとは任せて。」

さっきまで並んでいるアンカーの一番前にいたはずの神崎は、俺を助けるためだけに、一番後ろまでやってきた。バトンを交換できるギリギリまで。

「なんだ、そういうことだったんだな。」

俺のバトンを受け取り走っていく神崎の背中を見て俺はやっと理解した。神崎は誰かのためになら本気を出せる。そんなこと、最初からわかってたはずなんだけどな。

「走れ神崎!行け!!」

俺は未だセル全力の大声でそう叫んだ。クラスメイトも続いて応援してくれていた。


そうして一番遅く走り出したアンカーは、一番前でゴールした。


△▼


 見事リレーでの優勝を果たし、学年優秀賞までもらった。神崎はとにかく速かった。クラスではすっかり時の人となり、放課後はなんだか引っ張りだこという様子だった。

 しかし、この裏でもう一つの話が進んでいたことを、俺は忘れていなかった。俺は放課後に校外へ呼び出され、指定の場所に向かった。

「結局どうだったんだ、占い師。」

呼び出したのは無論、神崎の父である。一緒にいたひなちゃんはジュースを飲んでご機嫌だが、父親のほうは険しい表情だった。

「おい、まさか…。」

「すまない鬼山くん。いろいろしてくれたのに…。」

どうやら世の中は、そう都合よくいかないようである。


十七番へ続く

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