第17話 「夏目」の名
秋になった。
九月は、一応秋だと思う。
ここのところ残暑と言うか猛暑が続いているから、感覚的に秋になったってのは掴みにくいけれど。まだ蝉も鳴いてるし。
わたしは、学校には最初の始業式だけ出席して、それ以降は休学中。
特別仲のいい友達とかも今はそんなにいないので、始業式の後の学活の時間でしばらく休むことを伝えた時にも、特別声が上がったりはしなかった。
心配してくれる人は居なくて、物珍しそうに声を駆けてくる子が精々だった。
今はそれを寂しいと思うこともしない。
多分、お母さんならそういうとき寂しいと思ったりしないと思うのだ。
わたしはその月、今までよりずっとずっと深く、絵に没頭した。
昼も、夕も、夏休み以上にずっと絵を描いていた。油彩はもちろん、今までやっていた水彩もやった。それぞれの合間に時間が出来れば別のを取り出して、絵を描く時間と絵を描く時間の合間に絵を描いた。
夜アトリエを閉めるまではお母さんの描いた絵を直に見て回ったし、二階に上がってからは画集とかをずっと見ていた。
多分今、わたしは世界で一番「画家・夏目こころ」に詳しいと思う。そんなレベルまで、生活をそこに寄せた。
油彩を描くことにも慣れ、どんどん数が描けるようになってきたわたしはそれから出せる賞には全部応募した。
油彩は小学生向けの賞だと出せるところが多くない。なので必然、応募する賞も大人向けのものになっていく。でもそれは望むところというか、あの受賞歴を目指すのなら避けては通れないところでもあった。
わたしはどんどん描いてどんどん応募した。お母さんを追いかけるために、経験を一つ一つ積み重ねていった。
そうして改めて「夏目こころ」の大きさを知る。
それはまず、受賞結果に表れる。
もちろん甘く見ていたわけではない。今までの受賞経験が多かったからといって、それは競争相手に同世代が多かったからなのだ。
「第二十回 一枚画コンクール」
「TOKYOアートコンペ 2020」
「第八回 日曜油彩コンテスト」
それこそ、出せる賞には全部出していったので、規模の大小はあるけど初めのこの辺りは全て優秀賞、グランプリを受賞した。鼻を高くしたつもりはないが、自分の油彩が大人に交じってもちゃんと評価されるのだと判ったのは嬉しい。やっぱり、何かきっかけ一つ得るまでは不安だったのだ。
だけど、そのあとにあった「絵画ビエンナーレ 2020」。封筒の中から佳作と書いてある紙が出てきた時、わたしはあの黒い「何か」と目が合った。
久しぶりに見つけたそれは相変わらず何かは判らなかったんだけど、一度逃げられたと思っていたそれに対する怖さは前よりずっと大きくなっていた。
それを見ないように、打ち消すようにまた絵を描いた。何度も何度も、お母さんの絵を読み取って、吐き出して、自分はちゃんと成長しているんだと、それを自分にも言い聞かせるように繰り返していくと、すぅっと、それは薄くなっていった。
そして、それは一度でなく続く。
当たり前ではある。以前国際コンテストで初めて負けた時にお父さんに言われたように、絵を描き続けるうえで一番を取り続けるってことはない。だから、そういうことがないと思っていたわけではない。
しばらく大賞や最優秀賞が続き、その後にあった「第二十二回 絵画散歩」。
佳作にすら入れなかったのは、それが初めてだった。
「絵画散歩」は、大きい賞ではない。だから、受賞者も優秀賞と佳作の計五名しかいない。
そういう「仕方ない」を理解してもなお、わたしの心はざわついた。
最優秀を受賞するときの喜びより、一つ受賞できない悲しみの方が遥かに大きい。
それは、自分がお母さんと同じではいられないという証明だ。才能の大きさの違いが、目に見えるものとして突き付けられるたびに、心の皮が一枚ずつ剥がれていくような気がした。
お母さんなら。
自分が負けた結果を目にするたび、その言葉を思い浮かべてしまう。
そのたびに、黒い「何か」は顔を上げる。
ただ、わたしの方に迫ってはこない。
少し離れたところにいて、わたしの方に手を伸ばすでもなく、しかと、そこにいることだけを伝えてくる。
それを感じる度、わたしはひたすらに絵を描いた。油彩だけじゃない。水彩でも、アクリルでもなんでも、何度も何度もお母さんの絵を模写して、少しでもお母さんに近づこうとした。
悔しさなんてもういらない。そんなことを考えている暇があるなら一歩でも前に進まないといけないんだ。
そう、自分に言い聞かせるように絵を描き続けた。
そして十月半ばにあった「アーツジャパンコンテスト 2020」。
ここでわたしはそれを目にする。
『夏目こころ先生の娘さんだと聞いて、あぁと納得しました』
それは表彰式でのコメントだった。わたしは大賞ではないけれど、優秀賞を貰って、その絵にどこかの美術館の館長がそういう評価をしたらしいのだ。わたしはそれを文字でしか読んでない。直接言われたわけではないし、動画とかで見たわけでもない。でも、その文字を見た時に、どうにも褒められているとは感じなかった。
(夏目こころの娘なのに、――)
(夏目こころの娘なら、――)
わたしはその時まで「これから先、画家の世で生きていくならば、ずっと比較されていく」という可能性に気付いていなかった。わたしが上手くなればなるほど、夏目こころに近づけば近づくほど、それは多くなるだろう。
目標だと思っていた言葉で、自分の未熟を浮き彫りにされ、正しく評価されない。
それは呪いだ。天才の親の元に生まれてしまったが故の、不幸な生い立ちだ。
『わたしが、この家に生まれてなければ――、』
頭に浮かべたのはほんの一瞬で、それはすぐに消えていった。
頭の中の文字が曖昧になってから、「今、なんて考えた?」という自問を挟んで、わたしはそれが自分の弱さなのだと気づき、
その直後、猛烈な吐き気に襲われた。
胃が裏返ったような感覚。喉を上がってくる生暖かい異物。自らの意思で堪えられるわけもなく、抑えた口の端から漏れ出していく。手の指の間からこぼれ、床を汚す。鼻を不快な匂いが刺激した。
トイレまで走ろうとしたが足を滑らせ、前のめりに倒れる。反射的に体をひねってフローリングに左肩を強かに打ち付けた。痛みに悶えながら、横を向いたまま床に胃の中身を吐き出す。
「うぇれぇぇぇれぇ、ぅえぇ、ぇぇぇぇえほっ、っえぇぇはっ」
フローリングが汚れていく。
吐き気と涙が止まらず、汚れるのも厭わずにその場で背を丸めた。
自分の弱さと、それをお母さんのせいにした情けなさが、どうしようもなく悲しくて。
「アリス、アリス聞こえる?」
部屋にいたお父さんが駆け寄ってくれるまで、わたしはその場で、声も無く泣き続けた。
黒い塊は、すぐそばでわたしを見つめていた。
それから、コンクールの発表があるたび、わたしは体調を崩した。
一番を取れても、そうでなくても、そのたびに自分の弱さが目に付いて、目を背けないと身体が端からぽろぽろと崩れていきそうで、無我夢中で筆を振るった。
アトリエで鏡を見たことはないけれど、その時のわたしは少なくとも、笑ってはいなかった。
そうして少しずつ、お母さんの、一番の記録が近づいてくる。
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