第16話 夏の終わり
夏休み最終日。それまでで一番の暑さになった。
台風が冷たかった空気を全部持って行って、雲一つない晴天に包まれたその日。まぁわたしは外の天気に関係なく空調の効いたアトリエに居るんだけれど、今日はその様子が少し違っていた。
わたしの前にも、複数のキャンバスがある。
いつもより狭く、暗く感じる作業室。ほんの少し気圧されて、ペットボトルから水を一口半。
喉を流れ落ちていく水の感触、喉の渇きが癒えていくのを感じてようやく目を開く。
「よし」
わたしは今日も、夏目こころを追いかける。
「お母さんって、いつ頃からそうしてるの?」
「そうって?」
「たくさん、同時に絵を描くってやつ」
前々から気になっていたことを口に出したのは先週の話だ。夏目こころの曲芸ともいえるようなスタイル。複数枚、それも十数枚にも及ぶキャンバスを並べて、それぞれの間を動き回りながら同時並行的に進めていく。それは勿論、間の時間を埋めて全体の進行速度を早くする意味合いはあるけど、その全てを管理して効率的に行うには並大抵の感覚では不可能だろう。
油彩の絵の具は、ただ同じ色をこことここに塗って終わりというわけではない。もちろん混ぜて色の違いを出すのもあるし、メディウムという乾燥させるための素材や、光沢を出すためのオイルなど「絵の具」以外にもさまざまな塗料を混ぜて使う。極端な話、その絵に合った色をその時にその分だけ作るのが油彩の手法だ。
では、やらないのか。
「どうだったかしらー。油始めたのが小学校上がったくらいだったと思うけど、その頃にはやってたんじゃない?」
始めは、そんな枚数多くなかったと思うけど。
そんなつぶやきを受けても、驚きはなかった。そんなものだろうなと。お母さんならそのくらいやるだろうなと。そして、わたしもやってみようと。
下絵の時点では、特に違和感を感じなかった。下塗りを終わらせた茶色いキャンバスの上に、アンバーだけを使って下絵を描く。
そこに色を重ねていく過程になると、当たり前の話、隣同士の絵で似ている色を合わせるのが効率的だった。三枚並べたそれは似た色の背景が並ぶことになって、特に中央の風景画に左右が引っ張られている感覚が強い。
その時点で、左右の二枚に対する違和感は拭えないくらい強いものになっていた。
マルチタスク、なんてものじゃない。もちろん前の絵を引きずって絵の印象が崩れてしまうし、単純に作業量がこの時点で追いつかなくなる。今のわたしがお母さんの形を真似てこれを続けていくのは、非効率だと感じる。頭の処理と、技術が圧倒的に足りていなかった。
見ていた時にも思っていたけど、実際にやってみてそれがとんでもないことだったのだと判るのは、お母さんを追いかけ始めて何度も味わった。
それでも、わたしはお母さんに追いつきたいのだ。
同時には無理だとしても、一枚を塗って、次を塗って、と複数の絵を並行して進めるようにはなった。空いている時間をできるだけ作らないようにして、とにかく、全体のスピードを上げた。
上手くなるためには多く描く必要があって、多く描くためには描かない時間を減らすことが必要だった。
いつも描く。
毎日好きなだけ絵を描いていられる環境っていうのはやっぱり、お母さんを追いかけるのにどうしても必要なんだと思えてきた。
「お母さんってさ、学校どのくらい行ってた?」
「え?」
その質問はお風呂ですることにした。
お母さんの、絵の具の匂いが染み込んだ長い髪をシャンプーで泡立てた手で優しく洗う。普段はお父さんの役割なんだけど、たまにはわたしがやってみるのだった。
「ちょっと気になって」
「ほとんど行ってなかったわ」
指を立てて、頭をワシワシと。「あ~」と気持ちよさそうな声が聞こえるので、これでいいのだろう。洗う前はちょっとゴワついていた髪が、シャンプーの泡につつまれているうちにどんどんサラサラになってきている。
前を向いたまま、お互いに目を合わせないままそんな風に会話をする。
「三年生くらいのときに、小学校ってほとんど出なくても進級とか卒業できるって聞いて、そーなんだって思って。そのときも既にあまり出てなかったけど、それからはほとんど出なくなっていったわね」
「そうなんだ」
泡をたっぷり纏った手で髪をはさんでスーッと先端の方まで滑らせる。折れたりしないように気を付けながら解すように洗うと、指に髪が貼りついた。
「学校の先生も私が絵描いてることは知ってたし、その時もう色んな賞とか取っててそっち方面で生きていくってのはなんとなく伝えてたから、特に何も言われなかったわよ」
シャワーのコックを操作して、お母さんの頭を流す。上から掛けるだけで黒い髪の上にあった泡がどんどん流れていった。シャワーを掛けている間目を瞑っていたお母さんが、ぐし、と顔を拭う。
一通り流し終わって、次はトリートメントだ。お母さんは髪が長いので結構な量を使うことになる。手に取って髪に撫でつけてなじませて、手に取ってつけてなじませてを繰り返す。掌ではさんでスーッと滑らせると、サラサラすぎてちょっと面白い。
髪の毛を揉みこむようにトリートメントしながら、
「わたしも、そうしたいなって、思ってるんだけど」
「いいんじゃない?」
そう答えてくれるだろうって判った上で、それを聞いた。
「やりたいことがあるならそれをやるのがいいと思うし。前にも言ったかもしれないけど能力の証明には絵を描いていれば十分だし、龍ちゃんもいいって言ってくれると思うわ」
「ありがとう」
わたし、もっと頑張るから。
そう、思いを込めながらトリートメントを洗い流す。
「だ、そうです」
「うん。聞こえてる」
隣にいたお父さんが、髪を洗いながら呟く。二人分のシャワー台はそこそこ広くて、ぶつかるほどじゃないけど、
頭に泡を纏ってるお父さんももちろんと言うかこっちを見ていなくて、今ここの三人はすごく近い位置にいるのに誰も顔を合わせずに声だけで話していた。
「アレだよね。夏休みの宿題が終わってないとかじゃないよね」
「終わってます!」
ドリルよりも必須の読書感想文にてこずった。自由研究は工作でもいいってことだったので、絵を一枚出すことにしてる。多分文句は言われないだろう。
「じゃあいいよ」
お父さんもあっさり承諾してくれた。
「わたし、もっと頑張るから」
その宣言に、お母さんがちょっと顔を曇らせたけど、理由はよく判らなかった。
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