第18話 日本絵画大賞
心のどこかで「来なければいいのに」と思っていたような気もする。
昼過ぎ。アトリエで、お父さんが持ってきた封筒を受け取った時の記憶は曖昧だった。ありがとうと声に出しただろうか。ちゃんと笑えていただろうか。
「日本絵画大賞」
大書きされたその名前はあのパンフレットで見て以来意識してきた名前だ。
お母さんが最年少で受賞した、日本で一番大きな絵画コンクール。
その結果を通知する封書は、思っていたよりとても小さかった。
正直、夏休みから色んなコンクールに挑んでみて、お母さんの凄さは身に染みて知っていた。
今のわたしでは到底及びのつかないレベルを九歳の時点で歩いていたというのは判っていて、それに対してわたしの付け焼刃に近い油彩で勝負などできるはずがないと、画家を目指す私だからこそ、その実力は正確に測れていた。
そんな心持ちだったので、結果を見る前から、わたしの心には黒いあいつがいた。
じわり、じわりと、わたしの体の端から熱を奪っていく。もう、それに身体を預けても気分が悪くならないくらい、わたしの心は黒くなっていた。
封筒を開く。
中から出てくるのは一枚の薄い紙。
折りたたんであるそれを開き、中身を確認して、そこに書いてある文字を理解するのに数瞬。
理解した上で、それに感情が追いつくのに少し時間がかかった。
感情が追いついたとき――
わたしは、右手に握った筆をキャンバスに叩きつけていた。
キャンバスがへこむ音と、筆が割れる音が重なる。
イーゼルが倒れ、キャンバスがガタガタと音を立てながらその上に被さった。
中央で二つに折れた筆は、塗装の内側の木を空気に晒す。後ろ半分は衝撃で飛んでいき、木の床に転がってコロコロと音を立てた。
ひとしきりの音が鳴り終わってから、足元に落ちた穂を拾う。
何度も使い、使うたびに油を綺麗に取り除いた筆の穂先は、赤く染まった柔らかい毛を残していたけれど、三分の一ほどが飛び出てしまっていた。
筆を、折った。
その文字が頭の中でひらがなから変換されたとき、これまでにない大きさの後悔があふれ出した。身体の真ん中から流れ出る黒いものが全身を染めて、その冷たさに筋肉が悲鳴を上げる。
慌ててイーゼルを組み直したけど、へこんだキャンバスは元に戻しても表面がガタついた。
折れて短くなったはずの筆が異様に重い。腕を震わせながらパレットへ動かし、キャンバスに絵の具を塗りつけていく。
黒く、太い線がそこにあった絵を全て塗りつぶす。
一つ線を引くたびに、視界が黒に染まっていく。明るかったはずのアトリエが闇に包まれて、キャンバスと、手に持った筆とパレットの感触だけが残る。
目に映るすべての物が黒く染まった後も、わたしはひたすらに筆を動かし続けた。
自分が何を描いているか、もう判っていなかった。それでも、絵を描くという行為を続けなければ、わたしはわたしを保っていられなかった。
突然、右手の動きが止まる。
「描く」を中断した外からの刺激に、体が反射的に動く。
指を思い切り握りこんで、振り払うように強く右腕を振った。
自由になった筆をキャンバスに戻すともう一度、右手の動きが止まる。
今度は振り払おうとしても腕が動かない。左手のパレットを落として右腕を掴み両手の力で筆だけでも無理やり動かそうとしたところで、声が響く。
「アリス」
筆を持った腕は、わたしの力ではビクともしないくらい、強く握られていた。
「やめな」
そうやってお父さんに止められるまで、
わたしは、曲がったキャンバスに、真っ二つに折れた筆で、泣きながら、絵を描いていた。
日が落ちて、部屋はすっかり暗くなっていた。
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