第14話 目標
それからしばらく、わたしは絵を描くたびに体調を崩した。
下絵でも塗りでも、決まって筆がノリ始める直前に、それは現れた。
真っ黒で、重くて、冷たい「何か」。
それと目が合うと、それまで走っていた筆が止まる。これから描く色がどんどん散っていき、頭の中にあったイメージは黒く染まる。今までに描いていた線も全部グニャグニャと不安定に見えてきて、崩れたイメージはその上に立つ完成図を歪ませる。
イメージが掴めなくなると、筆を手放さないとどんどん気分が悪くなっていく。首周りの温度が下がって、耳鳴りが聴こえだす。軽い頭痛がするようになり、えずきが始まるともう、キャンバスの前に座っていることすら辛くなる。
酷い時には、一時間ほど作業室の床に寝そべっているときもあって、夏休みも後半に入ってからこっち、絵の進行度はかなり落ち込んだ。おかげで、というのも変な話だけれど夏休みの宿題は十分に終わらせられそうだった。
ここ数日で描いた絵の中で、一つだけ、目に留まるものがある。
水彩で描かれた海の底。あの日、熱中症で倒れた時に描いていた下絵だ。この絵だけは、元のイメージが強く残っていて何とか描ききることができた。もっとも、作業中何度も倒れそうになるくらい体調を崩したのだけど。
それでも、なんとか一枚書き上げた。
今のところ、この一枚以外満足のいく出来の物はできていない。なんとか完成していても、元のイメージを失ってしまっているものが多いのだ。それが良いのか、悪いのかすら今のわたしには判らなかった。
進もうとすれば体調を崩し、それを抑えるためには作業速度を落とさねばならず、その結果出来上がる作品の数が減る。目に見える形での今までとの比較は、わたしの心に思いの外大きいダメージを与えていた。
ほんの数週間前。お母さんの受賞歴を知り、それと比較するように自分の今までを誇った。今まで一度も負けなかった、それだけを誇った。
それがどうだ。その後にたった一度負けただけで、よく判らない「何か」に心をかき乱されている。今まで通りの制作すらできなくなっている。
あの時、お母さんに少しでも並んでいられるなんて考えたのが思い上がりだってのは間違いじゃない。力量を測れていない、身の程を知らなかったのだと、責めてやるのは簡単だ。
でも、その「簡単」を選んだら。
それをしたら、画家としてのわたしは、これ以上一歩も前に進めなくなる。
寒気に襲われ、えずきを繰り返し、耳鳴りの響く頭でも、それだけは理解できた。
だからわたしは、みっともなくても、バツが悪くても、恥ずかしくても、それこそ何も判らないことを認めてだって、前に進むことをやめてはいけないのだと、このとき、そう思ったのだ。
わたしのお母さん、夏目こころは天才画家だ。
家でこそだらしなく、ふにゃふにゃして眠そうな顔でいることが多いけれど、アトリエにいる間は掛け値なしの才能を放つ。
そしてそれは個展が開かれてその盛況ぶりを眺めることで、それが身内の贔屓目ではないのだと改めて理解できた。
県立美術館の三フロアを全部使って開かれる展覧会がそもそも多くない。しかもそれが現代に生きる画家個人となればなおさらだった。
わたしは、あまり広くはない関係者控室の隅っこに並べられたパイプ椅子に座って、反対側の方でインタビューを受けるお父さんとお母さんを眺めていた。そのインタビューもレポーターやカメラに囲まれていたのは最初の十分で、今はぽつぽつとたまに来る記者さんとほとんど一対一でお話しているくらいなんだけど。
展覧会初日、いろんな挨拶回りもあるということでお母さんはいつもしないおめかしをしている。ただそれは、着る服を選んでもらって、着るのを手伝ってもらって、化粧もやってもらってと、ほとんど美容師さんの人形みたいなものだった。
真っ赤なロングワンピースに白いショールを肩にかけ、いつもただ下ろしている長い黒髪はシニヨンに纏めている。普段なら絶対に履かないヒールがちょっとだけ身長を高く見せて、子供っぽさはすっかり消えていた。背は低いけど、ちゃんと大人の女性に見える。家での格好を知っていると馬子にも衣裳って言葉を思い浮かべずにはいられない。
隣に立つお父さんはブラウンのスーツで、夏なのにネクタイも絞めてきっちり着こなしている。普段の柔らかい目元は掛けている伊達メガネでキリっとして見えて、いつにもまして格好良い。
「お嬢さま、ご機嫌如何ですか?」
部屋の隅っこでカウンターで配っていたパンフレットを眺めながら、少なくとも面白そうな表情をしていなかったわたしに声をかけてくる人がいるならそれはだいたい知り合いで。
「今、少しだけ嬉しくなりました」
「あら、粋なコト言ってくれるわね」
白いパンツスーツを着たしづかさんだった。今日はジャケットを羽織ってハットも載っている完全装備。白いハットとそこから覗く明るい茶色の髪のコントラストも目を引いて、文句のつけようも無く格好良かった。お父さんといい勝負だ。
「なに? おめかししてるのにご機嫌ななめ?」
「したくてしてるおめかしでもないので」
そもそもわたしはこの展覧会に来たところで挨拶をするような人が居るわけでもないのだ。あ、しづかさんは居るか。
どうせなら家で絵を描いていたかったのだけど、ここのところ体調を崩しがちだっていうのはお父さんもお母さんも知っていて、その上で先週みたいなことがあるかもしれないと前例を持ち出されると小学生一人でお留守番というわけにもいかず、こうしてお母さんの色違いみたいな恰好で隅っこに座るしかなくなるのだ。着ているワンピースは薄い水色。お母さんほど長くない髪はシニヨンも小さくなっている。
「そりゃ勿体ない」
言いながら、しづかさんはわたしの隣に座る。パイプ椅子に座って脚を組んで、その上で両手を合わせるだけで様になるのだから、モデルとかを始めればいいのにと思う。
「服ってのは、他の誰の為でもなく、自分の為に着るものよ」
その上ファッションリーダーみたいなことを言いだした。
「そういうものですか」
「そうとも。そしてそれに気付くと、人生は五十倍楽しくなる」
その数字には個人差があると思うけれど、確かにしづかさんはいつも楽しそうだった。
ちょっと、気になる。
「しづかさん、」
「ん?」
そんな楽しそうなしづかさんに、聞いてみたかった。
「絵が描けなくなる理由って、何があると思います?」
その質問に、しづかさんは表情を消した。
右手でハットを掴んで一度下ろして、足を組み直してもう一度ハットを頭に乗せる。それをゆっくりと、時間をかけて行って、それでもまだ時間が足りないのか口元に手を当てる。
その沈黙には誠実が乗っていた。
たまたま会って何でもない会話の中でいきなり投げた質問にも拘わらず、しづかさんはそれに込められた意味や意図・背景を、自分の知る限りの全てを動員して考えてくれていた。
画家の娘がこんなことを聞く理由は、良くない方向でいくらでも浮かぶだろう。しかもしづかさんは、青少年国際コンテストの結果を知っているはずだ。わたしがそれを話題に上げずに一番にこんな質問をした、その意図が読み取れないほど、この人は鈍くはないはずだった。
聞こえてくるカメラのシャッター音。リポーターの人に笑顔を向けるお母さんたちをその視線で捉えながらしづかさんはゆっくりと口を開いた。
「描きたいものが判んなくなる、かな」
「え?」
「描きたいものはあるはずなんだけど、それが何か判らない。それが何か判ってないから、何を描いても違うような気がする。そんな悪循環は、一つあるとは思う」
見て来た経験か、それとも組み立てた推論か、しづかさんはあくまで一例としてそういうことを言った。
その回答を貰って、自分に当てはめて考えてみる。
わたしは、自分の描きたいものがなにか、判っているだろうか。
すぐに、答えられるだろうか。
「で、判らなくなったらね」
しづかさんはその先の答えも用意しておいてくれていた。
「初心に帰るのがいいと思う」
「初心、ですか」
「うん。一番最初に描いたものとか、一番最初に描きたいって思ったものを思い出してみるといいと思う。そして、ただそれを描く。何も考えないで、模写でもいいから、自分が描きたいって気持ちを持っていたものを、その気持ちをちゃんと思い出せるまで描く。そうしてれば何かしら見えてくるんじゃないかって、しづかさんは思います」
それだけの時間があるなら、だけどね。しづかさんは付け足した。
プロで締め切り近いやつがそんなこと言い出したらケツぶっ叩くわ、と。
けらけらと笑うしづかさんを見て、わたしはまた新しい熱を貰うのだった。
「そういえば、」
と切り出す。これは質問に答えてくれたお礼みたいなものだった。
「白雪さん、娘さんですよね」
「あぁ、うんそう」
「おめでとうございます」
「ん、ありがとう。伝えとくね」
しづかさんはそれだけで、わたしの言いたいことと言いたくないことを読み取ってくれる。
ほどよい距離感で、察してくれるし踏み込まずにいてくれる。しづかさんとの間にある空白の時間が、わたしは嫌いじゃなかった。
「それじゃ、私も挨拶に行ってきますわ」
「はい、いってらっしゃい」
しづかさんは長い脚でずんずんと歩いていく。その足取りはこの先に楽しいものしかないと確信しているかのように軽やかで力強い。しづかさんがそういった風に近づく相手がわたしのお母さんであることを、少しばかり嬉しく思う。
そうして、わたしは自分の初心を思い出す。
『夏目こころ現代美術展』
わたしの、一番の目標だ。
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