第13話 齟齬

 まどろみが近くなった頃、ご飯を食べながら話したことを思い出した。


「お母さんって、絵が描けなくなったことって、ある?」

「え? 無いわよ」


 即答した口周りはソースで汚れていた。照り焼きなんて一番汚れやすいのを食べるからだ。

 ちなみにわたしはベーコンのやつ。


「無いんだ」

「んー、覚えてる限り、絵を描かなかった日とかってないわねー」


 うん、無い。

 コーラをズコーッと勢いよく飲みながら、お母さんは改めて断言した。


「風邪ひいたりとかしないの?」

「……バカって言ってるの?」

「いや、違うけど」


 言いがかりだ。


「でも、風邪とかに罹った記憶あまりないのよ。描き始めてから体調崩したことないと思うわ」

 健康法なのかもね。

 そんなことを言い放つお母さんだった。


 言いがかりじゃなかったかもしれない。

 うーん。前から時々思ってたけど、規格が違う生き物なんじゃなかろうか。なんかこう、絵を描くために生まれた人型生命体みたいな。


「あ、体調の流れでお説教なんだけども」

 チキンバーガーを食べているお父さんが割り込んできた。


「説教っていうか、アリス。なんで昨日は空調付けてなかったの? 普段アトリエ夕方くらいまで全部付けっぱなしでしょ。故障してたわけでもないし」


 お父さんはそう続けた。

 それは救急車を呼ぶような事態になってしまったことを考えれば当然の疑問だった。


「あ、それは」


 一応、理由はある。でも倒れるまでやるに値する理由かと言われると首を横に振るしかないと思ってたから言うのも少し心苦しい。

 あの時わたしは、夏のイメージを取り込むためにその暑さを必要としたのだ。終業式の日、夕方のアトリエで下絵を描いたとき。時間を忘れるくらい集中できてそれだけ筆の進みも良かったものだからそれにあやかるというか、同じような状態ならいい絵が描けそうだと思って、空調を付けず、窓を開けて、夏の空気一杯の状態で下絵を進めていたのだった。

 もちろん、何度も言うようにそれをやって体調を崩しては元も子もないし、今回は大丈夫だったとはいえ命の危険もあるってことも含め、心配を掛けてしまったことに対し、


「ごめんなさい」

 謝った。


 お父さんはきちんと理由をつけて説明すればしっかり理解してくれる人で、


「んー、なるほど」

 と、納得してくれた。

「ま、今度からちゃんと気を付けろよ」

 釘を刺すのも忘れない。


 でも、お母さんはそうではなかった。


「んー」

「お母さん?」

「……それって要るかしら?」


 その声を聞いてわたしとお父さんは動きを止めた。


「そこまでしなくても、絵は描けるでしょ?」


 首をひねるお母さんの顔には「本当に理解していません」という文字が貼りついていた。

 それは、たまに顔を出す、お母さんが「夏目こころ」である部分だった。それこそ、絵を描くために生まれた別の生物みたいという、その感覚を強く覚える部分。


 夏目こころは、天才である。

 それは、画家を志したことのある人間であればその誰もが知っていることなのだけど、夏目こころをより近くで見たことのある人はその意味合いを少し変えて使う。


 夏目こころは、とんでもない才能を持っている。

 だからこそ、絵画に関する人の苦労の一切を理解できない。


 そういう部分を、お母さんは生まれながらにして持っているのだ。

 言葉を選ばずに言うなら、人間性が欠けてしまっている。

 もっとも、それは絵に関しての部分だけで、ちゃんと家族に対しては感情を向けることができる。心配してくれたお母さんのあの涙目は、嘘ではない。

 それでもわたしは、それを感じさせる瞬間が苦手で、そんなお母さんを苦手だと思ってしまうわたしのことが嫌いだった。


「こころちゃん」


 お母さんのそういう部分が出てきたとき、お父さんはいつも以上に柔らかい声を出す。


「あ……今?」

「うん」


 お母さんだってそれを判っているのだ。自分がそういう風になってしまっていて、それを変えることはどうしても出来はしなくて、今までもずっとそういう風にして誰かを傷つけてしまったことを。

 だから、


「ごめんなさい」

 それに気付いたお母さんはいつも、悲しそうに一言だけ投げて、寝室に籠るのだった。

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