第12話 対策?

 結局、病院にいたのは半日くらいで、次の日の午後には家に帰ってこれた。

 消化はいいけどあまり美味しくないお昼ご飯を食べた後、看護婦さんに見送られ、お父さんの運転で帰路についた。家で車を運転できるのはお父さんだけだ。お母さんは当然のように自動車の免許を持っていない。


 家に帰ってくるときも夏らしい日差しは強いままで、少しでも外を歩くからとお父さんが家から持ってきた学校の夏帽子を被らされた。

 麦わらに紺色のリボンが付いたそれはわたしのお気に入りではあったけれど、こうして何かあった後に予防として被らされるとそれはおしゃれとはちょっと違う感覚で、わたしの頭の上で居心地悪そうにしていた。


 家に着く。


「今日もやるの?」

 お父さんは車のサイドブレーキを引きながらそう聞いてきた。


「うん」

 短く答えると、


「今日はちゃんと涼しくしろよ」

 笑いながら許可してくれた。


「あと水を定期的に飲め」

「はーい」


 わたしの荷物はほとんどなくて、着替えとかを入れたバッグもお父さんが持って行くと言ってくれたので、わたしは上に羽織るパーカーだけをバッグから引っ張り出して、そのままアトリエに向かった。

 アトリエの入口をくぐると、扉の外と中でやっぱり気温の差は大きくて、シャツの肌に薄く鳥肌が立つ。

 お母さんは今日も油絵をやっているみたいで、一番広い作業室がまたキャンバスの森になっていた。


 そういえば、まだ油絵やらせてもらってないな。

 全日本絵画大賞には油絵で出したいと思っていたのだ。油絵は絵の具の乾く時間や、重ねる工程があるので水彩より時間がかかる。準備がいろいろあるかもしれないからあとでお父さんに相談してみよう。


 わたしは今日も水彩だ。

 いつも使っている作業室。入ってすぐに付けた空調はまだ暑い空気を追い出しきれていなくて、空気はまだ少しもわっとしていた。部屋の隅にあった扇風機を近くに持ってきて首振りで運転を開始。パーカーを丸椅子に引っかけて準備を始める。


 部屋の外にある水道で筆洗に水を汲む。ここで使う筆洗は、学校の授業で使っているのより一回り大きかった。

 いつも通り、イーゼルに画用紙をセットする。下絵はしばらく前に描いていたやつで、下絵と水張りを終わらせている。

 キャスター付きの作業台を近くに寄せ、筆と、絵の具をそれぞれ置いた。


 色々準備している間に空調が部屋を冷やし始めた。少しだけかいていた汗も引いてきたので薄いパーカーを羽織る。

 作業台側の足元には筆洗、左手にパレット、右手に筆を持ってキャンバスに向き合って、


「よし」


 一つ頷いて、いつもと同じように息を大きく吸う。肺に入ってくるのは冷えた空気で夏らしさはなかったけれど、いつもより思考がはっきりしていく感じがあった。


 イーゼルに向き合う。

 モチーフは盆栽。緑と茶を基調に、様々な色を重ねていく。


 下絵と違って、塗りを始めるときわたしの筆は走らない。

 ゆっくり、全体のイメージを思い出しながら色を重ねていくとき、強くではなく優しく動く。

 筆洗の水に、パレットの上の絵の具に、そして画用紙の上に。

 動く筆が色を塗り、滲ませ、重ねていく。


 塗りの感覚は、下絵の時よりも遥かに気持ちがいい。頭の中のイメージが立体になっていくというか、心の中身を外に出していく感覚が、下絵の十倍くらい強い。それはもちろんわたしの個人的な感覚なんだけれど、でもやっぱり「できていく」感覚を味わえるこれこそ絵の醍醐味だと思う。


 胸の奥に小さく火が灯るのを感じる。

 うん、これだ。

 それを実感できて、ようやくわたしは絵を描くという行為に没頭できる。

 そのきっかけを見つけて、いざこれから、というとき。


 右手に、ざわりとした感覚が走る。


「え」


 それは、昨日倒れる前に感じたものと同じ。それが昨日よりも強くなっていた。

 嫌な予感を覚えて、右手を強く握る。今度は筆を落とすなんてことはなかったけど、代わりに、


 ぎゅるり、と頭の中で音がした。


 耳に聞こえたわけじゃない、でも確かに何かが変わったのを感じる。

 下絵を描いていたとき、そして塗りを始めてから、今の今まで頭の中にあった完成図のイメージが、黒く染まっていく。


 あ。


 元のイメージを逃がさないために、強く目を瞑る。

 でも、もう遅かった。

 わたしの頭の中にあったイメージは全部真っ黒に染まって、それは昨日と同じ、とても冷たく感じるような「何か」に変わってしまった。

 ひゅっと音を立てて吸った空気が、とてつもなく冷たかった。


「かっ、あ、はっ」


 一度呼吸を止め、一番近くの窓を開けて、外の、熱いはずの空気を吸う。それでも、呼吸をすればするほど、冷たい空気が入ってきた。

 わたしの胸の真ん中に、またあの黒い塊が生まれていた。

 それを吐き出すために、言葉を作る。なんでもいい。なんでもいいから、これを小さく削って外に出すのだ。


「あ、ああ、ああぁぁ」


 舌が回らない。口は、開いたまま同じ音を並べるだけで、黒い塊は一つも出ていかなかった。

 耳鳴りが始まった。高い、一定の音が長く頭の中に残り続ける。

 身体を折って、窓枠にもたれかかる。

 頭の奥が痛い。下を向いて開いたままの口から嗚咽が漏れる。涙で、視界が滲む。


 なんで、なんで、なんで――


 頭の中でそんな言葉が渦巻き始めて、別のものが、喉を駆けあがってくる。


 吐いた。


 窓の外、熱を持った地面の上に、胃の中身をばらまく。ぬるりと上がってくる塊はまだ喉に引っかかる感じが強くて、特有の酸っぱい匂いもあって、気分はますます悪くなっていく。


「うぇ、えぇぇううぇ」


 胃の中身が空になった。それでも、まだえずきは止まらない。

 喉に残る胃液を吐き出そうと咳が混じり、どんどん息が苦しくなる。

 声が詰まり、涙が溢れた。

 なんで、わたしは、なにも、


「アリス」


 呼ぶ声と共に、背中に手が当てられた。


「大丈、夫……じゃないわね。いいわよ……、いい、から」


 お母さんだ。


「そのまま。そのままでいいから、まず全部吐いちゃいなさいな」


 お母さんの、小さく、暖かい手。

 何度も、何度も、優しく擦ってくれて、その感覚に少しずつ落ち着きを取り戻していく。


「あぅ、あぁ、ぁ、はぁ、はっ」


 何度かえずいて、もう何度かせき込んで。何も出なくなった頃にようやく、わたしの体は暖かさを取り戻した。

 頭痛と耳鳴りはどんどん小さくなっていき、全身の感覚が少しずつ戻ってきた。膝はがくがくと震えていたし、窓枠に力いっぱい押し付けていた手の平がひりひりと痛む。口を閉じ、鼻で息をすると酸っぱい匂いがまた吐き気を呼んだ。思わず、頬を膨らませる。


「うっ」

「止めないで。全部、出していいから」


 口を開け、喉に詰まった空気を全部吐き出す。全部吐ききって、また新しい空気を吸い込む。


「はい。一回濯いで、それで、ちょっとずつ飲んで」


 お母さんが差し出すペットボトルの水を受け取って、言われたとおりに一度口を濯いだ。残っていた酸っぱさと気持ち悪さを纏めて窓の外に吐き出し、改めて小さく一口、水を飲む。

 水が喉を下りていく感覚にまたちょっとえずきそうになったけど、ゆっくり鼻で息をして飲み込んだ。


「あ、龍ちゃん? ごめんなさい、ちょっと来てくれる?」


 その間、お母さんは、携帯でお父さんを呼んでいた。

 それはそうだ。

 昨日の今日で、こんなのを見せられたら心配にもなる。

 でも、今日は熱中症じゃない、はずなのだ。


「落ち着いた?」

「…………うん」


 一通り落ち着いて窓から離れる。椅子じゃなくて床に直接座り込んで、もう一口水を飲んだ。

 いつの間にかかいていた大量の汗が、扇風機の風に撫でられて乾いていく。下がっていく体温に背中がぶるりと震えた。


「寒い?」

「……、大丈夫」

「そう」


 少し震えたわたしの声を聞いて、お母さんはそれきり何も言わなかった。

 わたしの背中に手を当てたまま、難しい顔をして、お父さんが来るのをじっと待っていた。




 結局そのあとお父さんが来て、その日の作業を中断してわたしは今、自分のベッドに横になっている。

 救急車を呼ぼうかって話もしたんだけど、今は寒気もなく落ち着いていたので大丈夫だって言った。体温もそんなに高くないし、水もちゃんと飲めている。

 胃袋の中身を全部吐いてしまったので、逆に早めにお腹が空いてしまったりもした。


 お父さんがまだご飯の準備をしていなかったので、今日の夕ご飯は配達でハンバーガーを頼むことになった。メニューは、病人の食べたいモノ優先だ。

 食欲もあるし、今だって気分が悪かったりはしない。体力が余っていてまだ眠れそうにないし、お風呂にだって入りたかった。せめてシャワーだけでも。


 んー。


 ゴロンと、寝返りを打つ。

 ベッドの脇には、リビングから持ってきた椅子がテーブル代わりに置いてあった。そこにはペットボトルの水とハンバーガーが一つ、そしてお母さんのスマホが置いてある。何かあった時の連絡用だ。


 スマホを手に取って画面を表示する。お母さんはスマホをほとんど電話としてしか使わないので、最初の画面が殺風景だった。電話、時計、カレンダー、連絡帳と画像のフォルダしかない。インターネットブラウザすら置いてなかった。

 画像フォルダを見るのも、何かアプリを入れるのも気が引けて、特にできることも無さそうなそれを椅子に戻した。


 布団をかぶらずに、薄暗い天井を見つめて考える。

 あの黒い塊は結局、なんなんだろう。

 実際にモノがあるわけじゃない。でもいつも同じものを感じるのなら、何かしら原因とかあるはずなのだ。


 最初にそれと目が合った時、それは「悔しさ」なんだと思っていた。

 抱えること自体は当たり前で、向き合って、吐き出していいもの。

 それでも全部は吐き出せなかった。お父さんにそういう風に言ってもらっても全部無くすのは無理だった。

 でも、あれがあることで絵を描くのに障害が出るのなら、やっぱりそれは嫌だった。

 なんとか、しないといけない。


「どういう風にすればいいのかっていう、対策」


 んー。

 判らない。

 なんで絵を描こうとするとそれが出てくるのか、それもよく判ってない。

 自分のことなのに。

 ぐるぐると回る思考は、眠くなるまでしばらく続いた。

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