第11話 夢

 夢を見た。

 それは初めて見る夢だった。


 広い海の真ん中。何もない水の上に、わたしだけが立っている。

 風がのんびりと吹いていて、白い波が所々をすーっと動いていて、岸も船も何もなくて、どこまでも濃い青が広がっている。

 空には、ちょうど真上に真っ白い太陽があって、あとは雲一つない薄い青がある。

 その、ほんの少し濃さの違う青に挟まれて、わたしがぽつんと立っている。


 水の上を歩けたのは、もちろん夢だからだ。どこまで行っても何か新しいものが見えるわけでもなく、太陽の位置も変わらない。

 太陽の光は熱くはなくて、ただ明るいっていうだけだ。それでも、とげとげしさを持った強い日差しにずっと追いかけられているのが嫌になって、わたしは海に潜り始めた。


 頭から水をかき分けていくのではなく、ただ歩くように踏み出した足が少しずつ水の中に入っていく。右足と左足を交互に踏み出して、階段を下りるように立ったまま海に潜っていく。

 頭まで水に浸かっても、視界もにじまないし呼吸も出来る。息を吐き出すときだけ、こぽこぽと空気の泡が溢れた。


 海を下りていく間も、太陽はずっとわたしの真上にあった。深さが増すにつれて青かった水はだんだん暗くなっていくのに、振り返るように真上を見上げた時だけは真っ白い太陽とその光を見ることができた。


 どんどん潜る。いくら踏み出しても疲れたりしなかった。水の中にも何かがあるわけじゃなくて景色はほとんど変わらないのだけど、太陽の光とその海面が遠ざかっていく感覚だけはしっかりとあった。


 やがて海の底が見えてくる。そこは柔らかい砂地ではなく、固い木の床だった。触れた裸足がひんやりとした温度を感じる。

 ようやくたどり着いた海の底には、やっぱりというか、何もなかった。


 周りを見回しても真っ暗で何も見えないのだけど、そこに何も無いということだけは感覚的に判る。

 そして真上を見上げた時にだけ、遥か遠く、海面のまだもっと上にあった太陽の真っ白い光が、暗い海の底のわたしを照らす。

 それは、海の上にいた時と何ら変わらない眩しさだった。


 こぽりと、吐いた息の塊が太陽へ向かって飛んでいく。

 その光には温度こそないけれど、眩しさに反射的に目を細めてしまうし、頭の奥がうっすら痛む。

 わたしは、眩しく輝くその日の光を遮りたくて、手をかざすのだった。




 じわりと、闇の中から意識が戻ってくる。

 そういえば、内容を覚えている夢というのもずいぶん久しぶりのような気がする。小さい頃から寝ている間の夢というのはあまり覚えてないタイプで、いつも起きるときにはよく覚えてないけどなんか面白い夢だったなくらいの曖昧さになっていた。

 今日の夢は、面白いかどうかは別として、記憶にこびりつくタイプの夢だなと、まだぼんやりとした頭でそう考える。


 夢というものには何かしら意味がある。そんな言葉に、いつも夢を覚えられなかったわたしはずっと疑問を持っていたけれど、今日の夢をそういうことを言う人に伝えたら色々と解釈してくれるのかもしれない。

 聞きたいとは、思わないけど。


「あ、」


 自分の口から洩れた小さな声で耳が起きる。

 部屋はいつもより静かで、エアコンの音も耳に届いてない。

 目を隠すようにかざした手は、触れている額のほんの少しの温かさを感じていた。そっと目を開けるけれど、部屋は薄暗い。室内の常夜灯は付いておらず、月の薄い明かりが窓から差し込んでいる。

 寝ころんだまま枕元にあるリモコンを探して手を振ったところで、ようやく気付く。

 ここ、わたしの部屋じゃない。 


「起きたか」


 徐々にはっきりしてくる頭に、優しい声が響く。首だけでそちらを見ると、お父さんがパタンと本を閉じるところだった。

 その仕草が、なんだか、わざとらしいなって、思ってしまった。


「とりあえず、おはよう。夜だけど」

「今、何時?」

「十時過ぎ」

「えっと、」

「頭、痛くないか?」

「え、あ、うん」


 思わず頷いて頭を振ったけど、やっぱり痛みはなかった。


「僕が誰か判るか?」

「お父さん」

「名前は?」

「わたしの?」

「僕の」

「……龍之介。夏目、龍之介」

「うん」


 そう言って、閉じた本をサイドテーブルに置く。そこにはお皿に、綺麗に剥かれた梨が置いてあって、フォークが2本綺麗に並べて置いてあった。


「大丈夫そうだな」

「何があったの?」


 かぶっている布団を捲りながらそう聞く。布団もベッドも普段とは違う見知らないものだったけど、全体の白い雰囲気からここがどこなのかだいたい分かった。


 病院だ。


 アトリエで絵を描いていて、右手に変な感覚がしたことまでは何となく覚えている。そして今病院にいるということは、そこから先にも、なんとなく心当たりがあった。

 お父さんは優しい声で、ゆっくり、言葉を区切るように話す。


「アトリエで熱中症で倒れて、救急車で運ばれて、病院にいる。検査では何もなかったけど、今日はもう遅いから、このまま病院に泊まる」

 僕は帰るけどね。

 そう言って優しい声のまま、お父さんは笑った。


「ごめんなさい」


 わたしは、まず謝った。

 少なくとも、体調というか、作業環境は整えられたのにわたしは、それを怠った。

 それは、お父さんがわたしにいつも、何度も、言っていたことだった。


「ん。反省しなさい」


 普段は優しいお父さんだけど、こういうとき、具体的には怪我とか事故とかが起こりそうなことをしたとき、お父さんはちゃんと厳しい。滅多にあることじゃないけど、だからこそちゃんと怒る。


「まぁ、お説教はまた明日やるとして。何か欲しいものある?」

 梨ならすぐ食べれるけど。

 そう言ってお父さんはフォークに刺した梨を掲げて見せた。


 上半身だけ軽く起こして、そのフォークを受け取る。お父さんが脇のレバーを引いてベッドを調整してくれた。

 シャクと小さく齧ると、甘さと水分が口の中に溢れる。今は、そんなに喉も乾いていなかったけれど、私の体はそのみずみずしさを喜んだ。

 半個分の梨を平らげた後、暗い部屋を見回して、一つのことに気付く。


「お母さんは?」


 わたしの疑問に「あっち」とお父さんは指先で応えた。

 わたしの足元、ベッドの下の方を見ると、黒くて丸い何かがわたしの方を向いていた。それはよく見ると人の頭頂部で、半分くらいを覆い隠すように掛け布団とは別の毛布が掛かっている。身体を倒して斜めから見るとベッドから滑り落ちるように人の胴体が生えていた。

 前屈して手を伸ばし、毛布を捲る。

 お母さんが、ベッドに突っ伏するような形でそこに寝ていた。


「アリスが倒れたのに気付いたのもこころちゃんだしね」


 お父さんの声に、不思議な納得をする。

 それはそうだ。わたしがアトリエで倒れたなら一番近くにいたのはお母さんだ。二階にいたお父さんが気付くまでは時間がかかっただろうし、もしお母さんが気付いてくれなかったら最悪夕飯くらいまで放置されてたかもしれないと思うと、今こうしてわたしが無事に起きていられるのはお母さんのおかげだった。


「こころちゃんも体小っちゃいから、アリス負ぶって運ぶの大変だったと思うんだよね。わざわざ二階まで運んできたあたり、動転してたんだと思うよ」

「そう、なんだ」

「ちゃんと、心配してた」


 呼吸に合わせて小さく上下するお母さんを見て、わたしの胸の真ん中が埋まっていく。

 それは、夏の熱い空気とも、あの冷たい黒い塊とも違うものだった。


「じゃあ、そろそろ起こすか」


 お父さんは立ち上がって、お母さんの肩を揺する。

 んー、と喉を鳴らしながら顔を上げたお母さんの顔は、毎朝見ているようにふにゃふにゃしていて、しばらくするとじわじわと人の形になって、わたしと目が合うとまたくしゃっと潰れた。


「アリス!」


 小さい身体を跳ね飛ばして抱きつかれた。

 それはハグではなくタックルに近い何かで、わたしは避けられる姿勢じゃなかったので「うっ」と息を吐いてベッドを軋ませながら受け止める。それは、いつも見ていた小さい身体で、それ相応の軽さだったけれど、


「バカ! バカ! もう、何してるの!」


 涙声で罵りながら頭を抱きかかえる力はそこそこ強くて、それから逃れようという気にはならなかった。


「もー、ほんとにバカ! バカじゃないの! エアコンくらい、バカ!」


 バカバカバカバカと何度も何度も繰り返しひとしきり叫んだあと、わたしの両頬を挟んで、


「大丈夫なの? 大丈夫なんでしょうね!」

「大丈夫、大丈夫だよ」


 聞きながらぶんぶん振り回すのはやめてほしい。

 大丈夫じゃなくなる。


 言葉も聞き方も乱暴だったけど、お母さんの声はほんとに心配してくれてた声だった。

 お父さんはもちろん、お母さんだってわたしのことをちゃんと見てくれている。

 それはちゃんと、家族として、娘として心配してくれているってことだったのに、わたしは勝手な思い込みで、そんな二人を嫌いになりそうになっていた。

 お母さんの言う通り、だったのかもしれない。




 お父さんたちが帰って一人になった病室で、普段あまり見ることのない月を眺める。

 昼間の太陽と違って柔らかいその光は、暗さを全部消すことはできないけれど、

 とげとげしてない優しさが、今のわたしにはちょうど良かった。

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