第4話 心の熾火
夏休みになったけれど、朝はいつもと変わらない。いつもより早く起きるということはないし、いつもより遅くまで寝ていることもない。目覚まし時計を掛けるでもなくだいたい同じ時間に起きているので、この辺はもう染み付いてしまっているのだ。
わたしは起きることが好きだった。
寝ることじゃない。起きることがだ。
朝、目が覚めたとき、わたしはいつも幸せに包まれている。
触り心地の良いシーツは、自分の体温とほとんど同じ温度。厚いカーテンを閉め切った部屋の中で聞こえるのは、エアコンの動く音と自分の体が動いてできる衣擦れだけ。
瞼を閉じたままの真っ暗で、まだ曖昧な世界。
もやが掛かったような頭を少しずつはっきりとさせていくこの感覚が、わたしはとても好きなのだ。
「ん〜」
心地よさに喉が鳴る。
喉の震えが伝わって、身体が少しずつ感覚を取り戻していく。ゆっくり時間を掛けて手足の先まで全部動くようになってから、ゴロンと転がって横になったまま伸びをした。
寝ている間休んでいた身体中の筋肉が伸びる感覚。それに合わせて、開けたままの口から猫みたいな声が出る。
「ん、あ〜」
一段大きな声に耳が反応すると、脳が少しずつ目覚めてくる。頭に掛かったままの布団を剥ぎ取り、目を開けた。窓の外にある朝日は、厚いカーテンに遮られてほとんど室内まで届いていない。薄暗いままの枕元をゴソゴソと漁り、室内灯のリモコンを探す。見つけた。
指で裏表を判別して、中央にある大きめのボタンを押す。ピッと短い音がして蛍光灯の白い光が室内を満たした。
眩しさに思わず目を薄めて、頭の奥にほんの少しの痛みを感じる。それでも、嫌な感じはない。
頭の中のもやを完全に取りきらないまま、のそのそとベッドから出る。フローリングを足の裏でなぞって、そこにあったスリッパを引っ掛けた。
「ふぁ」
まだ、あくびは止まらない。
「おはよー」
「おはよう、アリス」
リビングに行くとお父さんが朝食を用意していた。ウチではほとんどの家事をお父さんがやっている。ご飯を作ったり、洗濯をしたり、お風呂を入れたり、部屋を片付けたり。
「まぁ、楽はしてるけど」と言って色んな機械を使いこなしているけど、それこそお父さんが倒れたらウチは色んなことが回らなくなってしまうだろう。
わたしもお手伝いというか、色々と使い方を教わったりはしているけど、それでもやっぱり色んなところでお父さんには敵わない。
家事をこなしてみせたり、運動が得意だったり、仕事もテキパキやっていたりで、カッコいいなぁと思うことは沢山あって、本当にいいお父さんだなぁと思う。まぁわたしは他のお父さんをそんなに知らないけど、今の担任の直木先生よりはカッコいい。
それだけ出来た人間で、なんであのお母さんと結婚したのかだけが判らなくて、お金目当てなのかなとか色々考えちゃうけど、ちょっと怖くて聞いたことはない。
「お母さんは?」
「まだ。頼んでいい?」
「ふぁい」
いつものことを確認して、いつものお願いにいつもの返事をする。返事にあくびが混じってしまうのもいつも通りだ。
わたしの一日の最初の仕事は、隣の部屋に寝ているお母さんを起こすことだ。ウチでの起床順はお父さん、わたし、お母さんの順番で、何か用事のある日でない限りこれは変わらない。
廊下の突き当たり、飾りっ気の無い扉をレバーを引いて開ける。
わたしの部屋とほとんど変わらない間取りの部屋は、少し強めに効いた空調で心地よく冷やされていた。
分厚いカーテンで締め切られた室内は常夜灯も付いておらず、入口から取り込む光しか無い。パパっと起きてもらうためにまず電気をつけることにする。部屋に入ってすぐの壁にあるスイッチをパチパチと、消して着けてと操作すると白い光が室内を照らした。
「うっ」
変な声が部屋の奥から聞こえた。わたしもまだちょっと眩しい。
小さく聞こえる加湿器とエアコンの音に、スリッパの音を混ぜる。
お母さんのこの部屋は本当に寝るためだけの部屋で、わたしの部屋と違って机やチェスト、本棚とかの家具が一切置かれていない。同じ作りだけど広く感じる部屋の真ん中には大きなベッドがあって、その真ん中がこんもりと膨れていた。
「お母さーん」
「ん〜」
そのこんもりに声をかけると間延びした声が返ってくる。まだ覚醒しきってないみたいだ。
スリッパを脱いでベッドに上る。膝立ちで枕元まで歩いて行って、こんもりをペシペシと叩く。もぞもぞと動いて頭が出てきたので布団を引っ張って剥いでやると、中にいたお母さんがうつ伏せのままぐぐっと伸びをした。
「んあ〜」
猫みたいだな、なんて感想がパッと浮かぶ。
わたしとそんなに変わらない身体。むしろ身長はわたしの方が少し高いくらい。お母さんは大人にしてはかなり背が低い方だ。
身体に掛かっている長い黒髪は起き抜けでちょっと毛先が跳ねている。シャツの袖から伸びた腕は力を込めてもちっとも大きくならないし、同じようにすらっと細い足は触ってみるとすべすべしている。
ふと思い立って、伸ばした腕をつんつんとつついてその柔らかさを確認する。
厳しい環境など一切知らなそうな、生物としての可愛らしさ。力強さみたいなものは一切感じない。多分、本当に生き物としては弱いんだろうなって思わせるようなそんな腕だ。
つつかれているのに気付いているのかいないのか、お母さんはのんびりと上半身を起こして、いつもはまん丸な目をゆっくり開く。口も鼻もふにゃふにゃ柔らかいままで、なんだか人には見えない気もした。黒い瞳はまだぼんやりとしていて、わたしを見ていなかった。その視線をわたしも追いかける。
そこには、壁に掛かった一枚の絵がある。
画用紙に青一色の絵の具で書かれた風景画。水彩画だ。青の濃淡だけで山と空と海を全て描いたその絵のことをわたしはよく知らない。他で見たことは無いので、有名な画家の絵ではないんだろうと思う。もしくは、お母さんがまだ小さい頃に描いた絵なのかもしれない。
この絵には不思議な魅力があった。
これを眺めていると心の中で、ぴしぴしと聞こえないはずの音が聞こえるのだ。
それは青だけで描かれて冷たい印象を与えるこの絵とは真逆のイメージ。
炭がじわりじわりと温まっていく音のようでもあり、くべられた薪が弾けるような音でもある。
燃えるというほど熱くない、それでも確かに心に火が灯るの感じる。
わたしが一番やりたいこと。わたしが一番好きなこと。
この絵を見ると、絵を描きたいって気持ちが胸の中に熾る。自分の真ん中にあるもの。これは、それを自覚するための儀式みたいなものだった。
そしてそれは、お母さんも同じだった。
絵に視線を向けて、ぼんやりしていた瞳に力が宿っていくのが見える。少しずつ表情が引き締まって、ふにゃっとしていた顔がちゃんと人間のそれに見えてきた。自分が何を見ているのか理解できてきたのか、少しずつ口の端っこが持ち上がっていって嬉しそうな顔になる。わたしはこのお母さんの嬉しそうな顔を見るのが好きだった。
人の形をした入れ物に魂が入っていく。そんなところがありありと想像できた。
生きてるって、こういうことなのかもしれない。そんな風に、まだ十年と生きていないのに判ったような気にもなる。
「ふふっ」
自分の考えのおかしさに、自然と笑みがこぼれた。
頭にかかっていたもやはもう完全に消えてしまった。ぐっぐっと手を握り込んでみて、体の隅々まで力が満ちるのを感じる。
声に気付いたお母さんが、わたしを見る。そっと右手を伸ばしてわたしの髪の毛を軽く描き撫でながら、
「おはよ、アリス」
呟く。
その言葉は柔らかく、それでもしっかり意思が籠っていて。
その熱を受けて、わたしの好きな「起きる」という行為は終わる。
これを通してようやく、わたしは「夏目アリス」になるのだった。
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