第3話 一番好きなこと

 換気作業は、基本的にわたしとお父さんの仕事だ。


 作業室から、お父さんと一緒にキャンバスをイーゼルごと運ぶ。まだ乾いてないのもあるので、表面に触れないように気を付けて。

 一通り片付けて広くなった作業室の端に扇風機を置く。部屋の全部のカーテンを引いて、窓を片っ端から開けて風通しを良くしてやった。


 開けた端から、夏の夕方っぽい湿った風がどんどん入って来て、冷えているけど絵の具の匂いのついた空気は夕方の空にどんどん逃げて行く。

 お母さんはその熱さに顔を少ししかめたけど、わたしは絵の具の匂いのついてない透明な空気を吸うのが気持ちよかった。


 勢いのいい風と一緒に、色んな音が流れ込んでくる。風で窓枠が揺れる音。どこか近くで鳴いている蝉の声、少し離れたところにある国道を車が走る音。熱さを纏った風が、部屋中を舐めまわして反対側へ抜けていく。


 心地よさに目を閉じると同時、バタバタとドアから出ていく音がした。

 ……この感じ、わたしは好きだけど、お母さんは嫌いらしい。


「アリスは、どうする? ここ使う?」


 そう問いかけてくるお父さんもうっすらと汗をかいている。逃げ出すほどじゃないけど、わたしもパーカーの中がじっとりと蒸れてきているのを感じていた。

 お母さんが逃げ出したように、作業だけなら他の部屋でもできる。わたしはお母さんみたいにたくさんの絵を同時に進めるわけでもないので、こんなに広い部屋を使う必要はない。モデルがあるわけでもなく、下絵を描くだけだからわざわざ暑い部屋でやる必要もない。それでも、


「うん、ここで、やろうかな」


 多分今、わたしが一番描きたいものはここにあると思うのだ。


「はい、じゃあご存分に」


 お父さんはそれだけ言って、部屋から引き揚げていく。

 一人になった部屋。壁に立てかけておいたイーゼルと何枚かの画用紙を手に取る。組み立てて、イーゼルに画用紙をセットしようとして、


「あ」


 と気付いて、部屋の隅で回っている扇風機を止める。始めたときより風は少し弱くなったけど、部屋に充満していた絵の具の匂いはもうほとんどが吹き飛んでいた。それでもほんの少し残っているように感じるのは、この部屋に染み付いてしまったものがあるんだろう。


 ジッ、と勢いよく前を開けてパーカーを脱ぐと、もわりとした暖かさが服に残っていた。少し弱まって吹く風が、シャツになって露出した肌の上にある汗をさらって少しだけ涼しく感じる。


 イーゼルの前に丸椅子を置いて、じっと、描きたいものを頭の中でイメージする。

 風は止まない。

 ここに無かったものがやって来て、わたしの頬を撫でて過ぎ去っていく。

 そんなイメージが、わたしの中に湧いてくる。

 七月も終わりに差し掛かる。長い梅雨が終わって、その湿度が少しずつ薄れる。

 まだ、夏は始まっていない。

 気温は高いし、日も長い。これから来る夜もうだるような暑さを纏っている。それでも、まだ本番ではないよと感じるこの時期の風が好きだ。

 その熱と勢いは色々なものを動かす。これから何かが始まる、という予感が一緒に運ばれてくる。


 そういう感覚を、右手で捕まえた。

 大きく息を吸い込み、熱い空気が体の中を回る。


 描ける。


 そんな予感が走って、思わず頬がゆるむ。


「よしっ」


 持った鉛筆が走りはじめた。

 それがどういう形になるか、まだ頭の中で組みあがってはいない。

 それでも、走り出した筆のままに描いていくそれが、わたしの一番描きたいものなのだ。


 そうして、

 わたしは今日も、絵を描く。




 わたしは、画家の家に生まれて、今もこうして絵を描いているけど、お母さんもお父さんも絵の何かしらを教えてくれるってことはほとんどない。一緒に描くことすら稀だ。

 色の出し方とか、こういう描き方もあるって知識はくれるけど、何を描けばいい、どう描けばいいかは全部自分で考えなさいって言われる。


 好きなことを好きにやれ、が夏目家の家訓だ。


 そもそも、絵を描くってことはわたしが好きでやっていることで、親に言われて始めたことじゃない。絵を描きなさいって言われたことは一度もないのだ。


 お父さんはよく、「アリスは、お母さんがいなくても絵を好きになってたと思うよ」なんてことを言う。それは正直疑わしい所ではあるのだけど。

 むしろお母さんは「画家の娘だから画家に育てるなんてのはあっちゃいけない」って思っていたらしくて、わたしを色んな物を与えてくれた。


 身近なところでは絵本で、よく読み聞かせをしてくれたらしい。テレビも一緒見たりした。

 スポーツ観戦や、音楽コンサートもたくさん行ったし、演劇も能や歌舞伎、果ては落語まで見に行った。

 それらに行く道中では新幹線とかフェリーとか普段使わない交通手段を楽しんだ。

 その辺はまだお母さんも楽しんでたのかもしれないけど、途中からお母さんも碌に理解してないのに書道とか陶芸とか建築とか華道とかにも連れていかれた。


 とにかく、芸術と呼ばれる色んな物を与えられ、物心つく前のわたしは本当にたくさんの経験をした。日本の大きい遊園地も大体制覇している。


 らしい。

 全部覚えていないんだけど。


「親バカってこういうことなんだなろうなってずっと思ってた」

 とは、お父さんの言だ。


「しかも手配は全部僕なんだぜ」

 ご苦労様です。


 わたしの中にある一番古い記憶は、やっぱり絵に関するものだ。

 わたしは絵を描いた。

 それが初めてだったかどうかは判らない。それこそ、それ以前の記憶はわたしにはないから。


 小さな画用紙に、使ったのはクレヨンだったと思う。それがどんな絵だったかもう覚えてはないけど、それでもその絵を見てお母さんが喜んでくれたって記憶が、わたしの中にある。

 わたしの絵を見て、お母さんはとても喜んで、強く抱きしめてくれた。

 それがとても嬉しくて、今でも、その嬉しさや抱きしめられた感覚を覚えている気がする。


 わたしを抱きかかえたまま、涙をぼろぼろ流して、顔を大きくゆがめて、大きな声でわーわー叫んで、僕は嬉しさよりもそんなお母さんを見て笑いが出ちゃったけどねって、お父さんはいつも笑いながら話してくれる。


 今のわたしと比べても技術的にはもちろん未熟だったと思うし、深い意匠のあったわけでもないその絵のどこにお母さんが惹かれたのかは未だに理解できてない。

 だけどやっぱり、わたしが今でも絵を書いているのはその出来事があったからだと思う。




 絵を描いているとき、自分が身体の外にはみ出ているような感覚になることがある。

 もちろん実際には作業室の椅子の上に座ったままだし、目の前には絵がある。白い下地とそこに描かれた薄い灰色の線は目に映っているし、右手に握った鉛筆の固い感触もちゃんとある。


 右手の鉛筆が動く度、頭の中にあったイメージが少しずつ形になって世界に置かれていく。

 この時のわたしは、自分を、自分の体と絵の中間くらいにあるように感じるのだ。

 体を動かしているのは取り込んだ熱量で、それがちょうど中間にある「わたし」を経由して少しづつ世界へと出ていく。


『心を外に出す』


 そんな言葉が浮かんで、その曖昧さに口が歪む。でも、絵を描くってのはそういうことなのかもしれない。


 描き始める前は大きいと思っていたB2の画用紙も、いざやってみると隙間なくイメージを置くことができていてその全体を眺めても特に違和感はなかった。

 自分の中のイメージはどんどん形になっていって、今は鉛筆だけで描いているけれど、そこに乗せる色もだんだんと明確になってくる。

 明確な色が見えた時、そこに薄く文字を置いてそのイメージを忘れないようにとどめておく。

 そうして、じわじわと、自分の中の熱が少しずつキャンバスに移っていく。


「……スー」


 蓄えた熱が少しずつ自分の外に吐き出されて、身体の端っこの方から少しずつ冷たくなっていく。

 足なんてもうだいぶ前から動かない。今は左手も使っていないからすっかり固まっているし、下絵が完成に近づいてからは右手と、目と、胸の真ん中くらいにしか「わたし」は残っていなかった。


 走っていた鉛筆は、今は細かい動きを繰り返している。

 自分のイメージの輪郭を詳細に作り上げる。全体のバランスは良い。あとは細かく、しかし書き込み過ぎないように。必要なものを必要なだけ画用紙に乗せる。


 忘れてしまわないように、意図的に呼吸をする。吸って、吐いて。そうするとき少しだけ口の周りは暖かくなる。


 息苦しいわけではない。

 画用紙以外の全部にもやが掛かって、自分の体も曖昧にしか感じなくなって。

 それでも、右手はちゃんと自分の心の通りに、絵を描き続ける。

 そんなふわふわした気持ちを高揚感というのだと、少し前に知った。

 笑いをこらえきれてないのが自分で判る。

 そうして、自分の中の熱を全部吐き出しきったとき。

 右手も、心も冷たくなって、わたしはようやく――


「アリスちゃーん」


 鉛筆を止めた。

 スッと息を吸って、ちゃんと首が動くのを確認しながら振り向くと、お父さんの顔には呆れていますって表情が貼ってあった。


「楽しそうなのは結構ですが、ごはんです」


 え、と思って窓の外を見る。いつの間にか閉められていた窓の外はすっかり暗くなっている。気温はあまり下がっていないけど、風なんかもう吹いてなかった。


「今、何時?」

「8時過ぎてる」

「えっ嘘」


 と思ったけど、この部屋に時計はない。お母さんが時間を気にせず描く人だからだ。


「早く片付けて来な」


 それだけ言ってお父さんは部屋を出ていく。

 恥ずかしさみたいなものを感じて、今度は頭の真ん中がアツくなる。そういうのは、別に絵を描きたくなるわけでもないからいらないんだけど。


 スン、と鼻を鳴らすと、絵の具とは違う匂いが鼻をついた。見回すと部屋の真ん中あたりに、缶タイプの蚊取り線香が置いてある。しかも灰の部分が結構長い。置いてくれたのも、窓を閉めてくれたのもお父さんなんだろう。


 気付いた途端、腕とか太ももとか何か所かが急に痒くなってきた。うわ、うわ。


 時間を忘れて、ってのは何かに夢中になっているときによく使う言葉だけど、今の今まで比喩だと思ってた。

 痒みを我慢しながら、急いでイーゼルを片付ける。脱ぎ捨てたパーカーの周りに散らかっている画用紙には全部、私の想像の中にあったいくつかの風景がグレーの薄い線で描かれていた。


 その出来は、改めて確かめるまでもなかった。

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