第2話 夏目こころ

 この時期の夕方、太陽はそろそろオレンジになりそうなのに、気温は一向に下がらない。


 学校から軽い駆け足を続けて汗がにじみ始める頃、ちょうどわたしの家に着く。わたしの家は子供の目から見ても結構立派だ。お屋敷というほどではないけど、そこそこ立派な黒い門と、そこそこ立派な前庭がある。敷地もそれなりに広いし、遠くから見ても判る天井の高い二階建てだ。


 手すりのある階段を上って扉を開けると、ちょうど良く冷やされた空気がわたしを出迎えた。

 靴を脱ぎながら、声を上げる。


「ただいまー」

「おかえりー」


 奥の部屋からお父さんの声が聞こえたけど、顔を合わせることなく自分の部屋へ。閉め切られた部屋はむわりとした熱気が籠っていたので、エアコンを除湿設定で付ける。ランドセルと夏帽子を机の上に置き、シャツを着替えている間にお父さんと声を交わす。


「お母さんはー?」

「下にいるー」

「今日何やってるの?」

「油じゃねーかなー」


 お父さんはいつも奥の部屋でパソコンとにらめっこしている。一応、会社の社長さんなのでそれがお仕事なんだろうけど、具体的に部屋の中で何をしているのかはよくは知らない。多分お母さんも知らないと思う。


 うっすらとかいた汗を拭いて、新しいシャツの上から薄手の長袖パーカーを着る。部屋を出てリビングへ行くと一段と冷えた空気が満ちていた。キッチンに寄ってコップ一杯の水を飲むと、乾いていた喉がその冷たさを受けて震える。そんなに長い間いたわけじゃないのに。


「よし」


 コップを洗い、脇にある乾燥機に入れてリビングを後にする。

 さっき脱いだばかりの靴を履きなおして、


「わたしも下に行くねー!」

 そう声を上げると、


「はいはーい」

 いつもと同じ返事が返ってきた。


「『はい』は一回!」

「はーい」


 玄関に残っている涼しげな空気に別れを告げて、またオレンジ色の日差しの中へ出る。まだ全然涼しくならない空気が届ける蝉の声を聴きながら、階段を一段飛ばしに降りて一階の入口へと回った。


 ガラス貼りの扉を開けると、そこには二階よりも強く冷房の効いた冷たい空気があった。夏でも冬でも、ここの気温は二十度に保たれている。ここに大体一年中いるお母さんが、暑いのも寒いのも極端に嫌うからだ。


 長袖のパーカーでちょうどよい温度の廊下を歩いて、一番奥の部屋へ向かう。足元についているスイッチをつま先でちょんと押すと、白い扉が音も無く開いた。


 一段と広いその部屋の空気は、全部が絵の具の匂いで塗れていた。部屋の隅っこで一応回っている空気清浄機も焼け石に水といった具合だ。毎日昼には喚起しているはずなんだけど、それからまた数時間籠っているはずなので、これはいつものことでもある。日光は、特に夏場はその温度を嫌われているので薄いカーテンで遮られていて、その分沢山の室内灯が部屋を明るく照らしている。


 その部屋は、今は絵の森になっていた。たくさんのイーゼルと、それに乗せられたキャンバスが雑然と並んでいて、その全てに油絵の具で精緻な絵が描かれている。

 描かれている絵も「油絵」という共通点しかない。キャンバスの大きさで言うと二十号が一番多そうだけど、明らかに五十号を超える冬の山を描いた絵の隣に〇号らしき小さい果物が実っていたり、精悍な男の人とトラの絵が同じ大きさで並んでいるかと思えば、その間にある小さなキャンバスには似つかわしくない雄大な海の景色が描かれていたりする。敢えて隣に似た様な絵が来ないようにばらばらに描いているのかもしれない。


 一通り作業が終わった区画は少しずつ乾き始めているのか絵の具の匂いがより強い。わたしは匂いそのものは嫌いではないんだけど、吸い過ぎると気分が悪くなるというのを知っているので強すぎる匂いに反射的に顔をしかめる。


 大小さまざまなキャンバスの間をかき分けて奥へ進んでいくと、そこに部屋の主、わたしのお母さんがいた。

 この部屋にいるときのお母さんは「夏目アリスのお母さん」ではなく「画家・夏目こころ」になっている。わたしが生まれるずっと前から、世界中のいろんな人にその名前を知られている天才画家だ。

 わたしの家の一階は全部、お母さんのアトリエなのである。


 キャンバスに向かっているお母さんを後ろから眺める。

 わたしと変わらないくらいの背。背中まで伸びた黒髪はつやつやと光っているけど、長時間この部屋にいるから絵の具の匂いが移ってしまっていることをわたしは知っている。部屋着のジャージの上に脛くらいまである白衣を着ていて、それは汚れてもいいというより意図的にやっているんじゃないかと思うくらい絵の具に塗れている。元は白かったスニーカーもカラフルに染まっていて上から下までわざとらしいくらい綺麗に汚れていた。


 お母さんは、部屋に入ってきたわたしに気付きもしないで、こちらに背を向けて一心に筆を振るっていた。

 いや、それは少し正しくない。

 お母さんの右手に握られた筆は、筆自身が踊っているように見えるのだ。キャンバスの上を縦に横に走り回り、時々パレットを経由してまたキャンバスへ。その繰り返しの動きに淀みがない。

 何度も何度も、それこそわたしが生まれる前から何十年も繰り返してきたその動きそのものが一つの生き物みたいに見える。

 一度そう見えてしまったら、止まっているときの方が違和感が出る。

 ポケットに差し込まれている筆に持ち替えられるときや、パレットに新しい絵の具を追加するとき、二本指で器用に挟まれているその筆は、次の動作を今か今かと待ち望んでいるのだ。


 筆が、夏目こころに使われたがっている。


 そんな風に見えるほど、お母さんが絵を描く姿というのは洗練されている。無駄がなく、絵を描くという行為だけを極めたすごく美しい機械のように見える。


 そして何より、その時のお母さんはずっと楽しそうに笑っているのだ。

 心から、絵を描くのが楽しい。絵を描けるのが嬉しい。描きたいものがどんどん溢れてくるのが、面白くてたまらない。


 そんな表情で絵を描いているものだから、その低い身長も相まってその時のお母さんはとても大人みたいには見えない。

 そういった意味でも、この時のお母さんは「夏目アリスのお母さん」ではない。純粋に絵を描くのを楽しんでる一人の女の子なのだ。


 絵の楽しさ、描くことの面白さを誰かに伝えたいなら、夏目こころが絵を描いているところを見せればいい。出来のいい絵も上手な言い回しも要らない。それだけできっと、その人が人間であるのなら、十分に伝わると思う。


 見惚れていたのはそんなに長い時間じゃなかったと思う。それでも、わたしが見惚れていると気づいたときにはお母さんは絵を描き上げてその筆を置いていた。


「よし」


 左手に持っていたパレットもテーブルの上に置いて、腰に手を当てる。そうして絵の前に立って、ふぅと息を吐く。お母さんが書き終えたときの仕草なんだけど、それは何度見ても様になっているなぁと思う。何年も、何十年もこうして絵を描いてきたという経験が見える仕草だ。

 そういう、絵を画家としてのお母さんを見る時、決まってほんの少しの息苦しさがあった。でも、それは気持ちの悪いようなものではなくて、わたしの憧れが目の前にあるからなんだと思う。言葉にするなら、多分羨ましいって気持ちがそうなんだろう。


「ん~~~~」

 両手を高くあげて大きく伸びをしたところで、ようやくわたしに気付いた。


「あ、アリス。おかえり」

「あ、た、ただいま」


 わたしも、お母さんみたいになりたいなと、漠然と思う。

 お母さんは、いつもとても楽しそうに絵を描いていて、それで生きている。

 もちろん、お父さんとか周りの人の手助けがあるのは間違いないんだけど、それでもそうやって生きていけている。

 そうするために何が必要なのか。今日貰ったものの中では、「よくできる」がたくさんの通知表より、一枚の賞状の方が大事なんだと、わたしは子供ながらに感じていた。


「お父さん呼んでもらえるかしら? まず片付けちゃいましょ」

「うん。電話使うね」


 大量のキャンバスとイーゼルを乾燥室に運ぶのはわたしとお母さんだけではできない。お母さんの携帯電話でお父さんを呼ぶのも、何度もやってきたわたしの仕事だ。


「アリスは、今日この後何かやるの?」


 お母さんは、いつも視線をちょっとだけ外しながら喋る。人と話すときのクセみたいなものだってお父さんは言うけれど、人と話すならちゃんと目を見て話したほうがいいんじゃないかなとは思う。


「明日やる分の下絵、描くつもり」

「じゃあ私もやろうかしら」


 絵の話をしているときのお母さんは、いつも楽しそうだ。

 アトリエにいる時のお母さんは「天才画家・夏目こころ」で、そして「わたしの師匠」でもある。

 わたしの、一番の目標だ。

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